手をつないで、抱きしめて

 真夜中、あまりの痛さに目が覚めた。

 横向きで寝ていたら、突然、とてつもなく固いモノに向うずねを一撃されたからだ。


 その瞬間、物凄い叫び声を上げたらしい。薄明りの中、隣で寝ていた相方が手探りで私の肩をがっちり掴むと、「ごめん! 大丈夫か? 何処どこに当たった?」と焦ったように早口でまくし立てる。

ひざをちょっと曲げただけのつもりだったんだけど……本当にごめん!」


 マジか。

 格闘技の心得のある男に「膝り」を喰らわされたのか、私。

 大丈夫か、私の向う脛……って、いやいや、大丈夫なワケないやん! 

 むちゃくちゃ痛いし! 

 これ、絶対に青アザになるヤツやしっ! 



 次々と湧き上がる言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡る。が、現実は、うぐうぐとうなり声を漏らすのが精一杯。それくらい、痛かった。



 相方は、就寝中、実に豪快に寝返りを打つ。

 大柄でがっしりした体格の男性が、物凄い勢いで、ごろん、ごろん、とセイウチの如くベッドの上を転がるものだから、一緒に暮らし始めた頃は「寝ている間に下敷きにされたらシャレにならん」と気が気ではなかった。

 が、慣れとは恐ろしいもので、今では相方が寝返りを打ったと同時にベッドが大揺れしたところで、そう簡単には目を覚まさなくなった。

 相方も「隣で寝ているワイフを押し潰さないように、睡眠中でも頭の中のどこかで意識している」らしい。相変わらず、ごろん、ごろん、と転がってはいるものの、ベッド上のに侵入することは少なくなった……はずだった。


 寝相の悪い人間の動きは予測がつかない。

 どうやら、寝返りを打って私と向かい合わせになった状態で膝を曲げようとしたところ、膝頭ひざがしらで蹴り上げるような形になってしまったようだ。

 向う脛を抱え込んだまま、日本語で「痛い、痛い」とうめくワイフの姿に大慌て。日本語を全く解さなかった相方も、私がよく口にする言葉は聴き取ることが出来るようになってきた。今のところ、「痛い」「お腹空いた」「暑い」「寒い」のリスニングは完璧だ。


 その後、落ち着きを取り戻した私の向う脛に恐る恐る手を置いて、「少し腫れてはいるけれど、骨には異常ないようだ」と判断した相方が、キッチンから氷枕を持ってきてくれた。

「コロナウィルス騒動が収まるまでは気軽に病院にも行けないから、怪我しないように気をつけないと」


 真夜中にワイフを蹴り上げた男が、それを言うか。


 ベッドの上でも『Social distance(ソーシャル・ディスタンス)』は必要なのかもね、と不謹慎ながらも思ってしまった。



***



 3月15日、バージニア州で新型コロナウィルスによる初の犠牲者が確認された。前日までの感染者は41名。


 3月30日、コロナウィルスの感染拡大を防ぐため、バージニア州知事が不要不急の外出を禁じる『外出禁止令(Stay-at-Home Order)』を発令。期限は6月10日まで。 


 この頃はまだ「ついに出ちゃったね、禁止令。しばらくは友達とお茶したりショッピングに出掛けるのもお預けやね」と思ったくらいで、それほど危機感を感じることもなかった。


 4月3日、『アメリカ疾病管理予防センター(Centers for Disease Control and Prevention:CDC)』が、が感染拡大の要因となっている可能性があるとして、外出時のマスク着用を推奨。市販のマスクが入手出来ない場合、手製の布マスクやバンダナ、防寒/防塵ぼうじん用フェイスマスクなどで鼻と口元をしっかり覆うようにとの解説ビデオが公開された。

 同日夕刻、おバカな大統領が記者会見で「マスク着用はキミ達の自主性に任せるよ。僕は着用しないけどね〜」と宣言。この瞬間、CDCの努力が水の泡と化した。


 4月6日、バージニア州知事が全ての州民に外出時のマスク着用を促す声明を発表。

 同日午後、「州知事の要請とは言え、アメリカ人がマスクを付けるなんて、想像できへん」と思いつつ、冷蔵庫の野菜室が空っぽになったので、10日ぶりに食料の買い出しに出掛けることに。

 スーパーマーケットの駐車場に車を停め、用意していた手製の布マスク(アメリカ人女性が好むド派手なフーシャピンク)を付けてバックミラーを覗き込む。欧米では『顔を隠す=犯罪者やテロリスト』のイメージが強い。

「不審者と間違われて、銃で撃たれたらシャレにならんやん……大丈夫か、私?」


 一抹の不安が脳裏を過ぎったものの、意を決して店内へ。

 で、驚いた。

 買い物客の大半がマスク(と手袋)を着用し、『6 feet apart(=他人との間に約1.8メートルの距離を保つこと。現在、アメリカでのソーシャル・ディスタンスの基準となっている)』を健気に守っている! 「やれば出来るやん、アメリカ人! エライぞ、バージニア州民!」と、心の中で拍手喝采した。


 とは言え、ルールを守らない人は世界中どこにでもいるもので。

 小さな子供連れの若い母親(白人)が、自分も子供もマスクをせず、距離感も危機感も全くない様子で冷凍食品のセクションをウロウロしていた。必死の形相で冷凍食品を漁る母親の横で、子供は素手のまま冷凍庫の取っ手やガラスをペタペタと触りまくっている。周りの買い物客は「あのセクションには近寄らないでおこう」とばかりに遠巻きに眺めているだけ。そりゃそうだ、誰が感染しているか分からない状況だけに、用心に用心を重ねるに越したことはない。

 そこに颯爽と登場したのが、黒マスクと青いビニール手袋を身に付けた恰幅の良いご婦人(これまた白人)だ。件の母親をジロリと睨みつけたかと思うと、「ちょっと、あなた! マスクしなさい! でなきゃ、子連れで外出なんかしなさんなっ!」と金切り声を上げ、子供に向かって「触りなさんなっ!」と大声で注意を促す。びくっと怯えた様子で母親に駆け寄る子供と、目を真ん丸にして「ワケ分かんないんだけど? どうして私が怒鳴られなきゃならないの?」とでも言いたげに肩をすくめる若い母親。その彼女が、助けを求める仔犬のような表情を私に向ける。

 白人至上主義者が多く、未だ人種差別が公然と行われているバージニア州で、金髪碧眼の若い白人女性にそんな風に見つめられてもね……と少し複雑な気持になりながらも、「怒られちゃったね、でも、州知事も『マスクして!』って言ってたよね」と思いの丈を込めて肩を竦め返した。


 マスクを付けて堂々と外出できるのは花粉症持ちとしては嬉しいが、『マスク=危険な感染症』のイメージが定着してしまうのは残念としか言いようがない。 


 

 4月20日現在、バージニア州の感染者は8,990名。犠牲者数は300名。

 州内初の犠牲者が確認されてから36日後、感染拡大の深刻化に歯止めが掛からない。




 我が家では日頃から、平日の午後4時から7時まではローカルテレビ局のニュース番組をつけっぱなしにしている。当たり前だが、近頃はコロナウィルス関連のニュースばかりだ。iPhoneに登録しているニュースアプリが告げる速報も然り。

 気にしないようにしていても、やはり気が滅入る。とは言え、居住地域の現状や速報を知る上では欠かせない情報源なので、無視するワケにもいかず。

 前日の感染者数と犠牲者数が発表される度に、尋常でないスピードで感染が拡大していることに驚愕する。相方の職場でも感染が確認された同僚が亡くなり、施設の封鎖を余儀なくされた。

 他人事ではないのだと、背筋が凍る。


 不安が先に立ち、頭の中はかすみがかかったようで、ぼんやりしていることが多くなった。集中して物事を進めるのが難しくなった。精神の健康が少しずつ損なわれているんだろうな、と感じ始めて「こりゃあ、色んな意味で、マジでヤバイかも」と思う。

 こんな時、愛犬サスケと愛猫シュリがいてくれて本当に良かったと、心から感謝する。

 「マミィ、遊んで。散歩に行きたいよお」と外に連れ出してくれるサスケと、「マミィと一緒にお寝んねするの」とばかりに私の隣でゴロリとお腹を出して寝息を立てるシュリ。世界中で何が起きているかなんて知る由もないこの子達が、今までと変わりなく、ゆったり、のんびり、くつろぐ姿を見ている時だけは、心の緊張がふわりと解かれる。


 現在、外出禁止令が出されているのは、ワシントンD.C.と43州。アメリカの全人口の実に約97%にも及ぶ人々が、自宅待機を余儀なくされている。

 この状況がいつまで続くのか。経済破綻が今後の社会をどう変えるのか。先の見えない不安に、誰もが押し潰されそうになっている。


 こんな時は、なるべく1人でいない方が良いのだけれど、外出禁止令のおかげで『住居を共にする家族。あるいは、住居は別でも世話や介護を必要とする家族』以外の家庭を訪問することは禁じられている。遊び盛りの子供であろうと、近所や学校の友達と一緒に遊ぶことは出来ないし、住居が別であれば、恋人はもちろん婚約者であっても、大好きな人と手をつなぐことも、愛しい人を抱きしめることさえ出来ない。

 とは言え、健康を維持するために戸外での運動は奨励されているので、公園で落ち合って散歩をしたり、一緒にランニングをしたり、新緑輝く森の中でトレッキングしたりなど、『危険な逢瀬』を楽しんでいるカップルも大勢いるようだ。常に顔を合わせている夫婦とは違い、が半端ないため一目瞭然。

 彼らの間には6フィートの距離などない。文字通り、危険な逢瀬だ。ともあれ、本人達は気にも留めていないようなので、ソーシャル・ディスタンスをしっかりと取りながら、生暖かい目で見守っている。


 以前のように、友人達と顔を合わせてガールズトークに花を咲かせたい。が、「全てが終わったらパーティーしようぜ!」を合言葉に、iPhoneのグループメッセージで我慢している。時間を見つけては、日々の他愛ない出来事を語りあったり、情報を交換したり。たまに夫の愚痴を言い合ったりもして……ただそれだけのことが、心のほぐしてくれる。


 リビングルームの片隅で、緊急時の呼び出し以外は自宅待機となった相方が、スピーカー通話に切り替えたiPhoneでオンライン会議に参加中。「せっかく書斎があるんやから、そこで仕事すればええやん」と言ったのだが、愛犬の立ち入りを禁止している書斎にこもるのは嫌だと突っぱねられた。おかげで、会議中は音を立てないようにと余計な神経を使う。

 そんな状況に少々ウンザリしながらも、多分、私同様、彼も1人で居ると色々と悪いことばかり考えてしまうのだ、と気が付いた。愛犬と愛猫と愛しのワイフが寄り集まってわちゃわちゃしているリビングルームが、相方にとって一番心休まる場所なのだろう。


 

 万が一の時を考えて、相方と話し合った。

 食料品以外の生活必需品やペット用品の買物は、休日に相方と2人で出掛けて、ちょっとしたデート気分を味わうのが常だった。が、他人との接触を避けるべき時期に、家族が一緒に出掛ける危険性は回避すべきだろう。

 たった2人(と2匹)の家族だからこそ、1人が倒れてしまったら、残る1人が全てを背負うことになる。

 そんな事態を回避すべく、2人で決めた『打倒! 新型コロナ作戦』の基本ルールは、下記のとおり。


 ①食料と生活必需品の確保は、私1人で行う。外出先で2人が同時に感染して寝込んでしまっては、元も子もない。

 買物に出掛ける回数も出来るだけ減らす。外出禁止令が出てからは、10日に1回のペースだが、これが思った以上に大変だった。


 日本と比べて野菜や果物の取り扱いがとっても大雑把なアメリカのスーパーマーケットで、出来るだけ新鮮で痛んでいないものを選び出すのも大変だが、買い込んだものを「すぐ食べる」「数日保管して食べる」「新鮮なうちに冷凍する」と仕分けし、それぞれに必要な処理をする作業にかなりの時間を要する。が、2人のうちどちらかが感染した場合、2人そろって2週間の自宅待機を余儀なくされる。その間、食料の買い出しを他人に頼ることなく済むようにするための手段でもあるので、仕方がない。

 私が倒れた場合、必然的に相方が毎日の食事を担当することになるので、冷凍庫には「炒めるだけ」「茹でるだけ」で良いように細切りにした野菜をジップロックに小分けにして入れ、肉類も味付けした上で小分けにして冷凍しておくことにした。料理が好き/得意な男性なら問題ないが、あいにく、我が家の相方は該当せず。

 缶詰類、乾麺、パスタ、チップス類、クッキーなど保存食品の保管場所も明確にしておく必要がある。


 ②店舗入り口で買物客の人数制限をしているスーパーマーケットには、絶対に近寄らないこと。ニューヨークで「集団感染」が起こった原因の一つに、「コロナウィルス感染症のPCR検査を希望する市民が病院前に押し寄せ、長蛇の列を作り、何日も同じ場所に通い続けたこと」が上げられているからだ。

 店先で行列を作っている人達全員が、マスクを着用して6フィートの距離を保ってくれるという保証はどこにもない。君子危うきに近寄らず、だ。


 ③どちらかが感染した場合、主寝室(バスルーム付き)は私が使い、相方はゲストルームとゲスト用バスルームを使って、生活空間を完全に分ける。感染者への食事はドアの前に置く。食器回収前後には必ず石鹸で手を洗う。

 シュリを書斎に隔離することも忘れないようにする。ニューヨークの動物園のトラが新型コロナウィルスに感染したことから、ネコ科の動物も罹患りかんするらしいとニュースが伝えていたからだ。ちなみに、科学誌『サイエンス』によれば、ネコには感染する可能性はあるが、犬は感染しにくいそうな。

 今のところ「感染者の飼い犬が発症した」という話は聞かないが、サスケは持病があるので、彼を隔離するための犬小屋を裏庭に設置すべきか検討中だ。


 ④店舗内では絶対にiPhoneを取り出さない。消毒する手間を増やすだけだ。


 ⑤外出先から帰宅後は、洗濯機の前に直行し、その場で着ているものを全て脱いで洗濯機に放り込み、すぐにシャワーを浴びる。ここまでせずとも、石鹸で手を洗うだけで効果はあるのだろうが、アメリカのバスルームは手軽にシャワーを浴びるように設計されているのだから、利用しない手はない。

 

 ⑥スーパーで購入したものは、駐車場で車のトランクに常備している買い物袋に詰め直す。帰宅後、そのまま室内に持ち込めるようにするためだ。レジの店員が袋詰めした購入品は、ショッピング・カートに乗せて車のトランクまで運ぶことが当たり前の「アメリカあるある」を、最大限に利用すべし。

 「全ての購入品は、パッケージや宅配便の箱に至るまで、アルコール消毒をすべき!」という人もいるが、そこまで神経質になる必要があるのかどうか。貴重なアルコール消毒剤を消費することに、余計なストレスを感じるだけだ。アメリカ食品医薬品局(Food and Drug Administration:FDA)も、「スーパーマーケットで購入した品物を消毒する必要はない」としている。アメリカ人の場合、野菜も果物も水洗いをせずに食べてしまう人が多いため、「水洗いは必ずしてね」と注意を促してはいるが、日本人からすれば当たり前過ぎて、笑うしかない。


 ⑦天気の良い日は、身体と心の健康維持のため、太陽光をたくさん浴びる。

 大型犬のサスケは毎日の運動が欠かせない。晴れた日には、なるべく人混みの少なそうな時間帯(=子供達がオンライン授業に参加している午後2時頃まで)を選んで、2人と1匹で森林浴を兼ねてトレッキング・ルートを散策するのが、習慣になりつつある。

 「感染が怖いから外出したくない」という人や、庭のないタウンハウスやアパートに住んでいる人は、ベランダでヨガやストレッチをしたり、ビーチチェアを出してお昼寝をしたり。ベランダがない場合は、なるべく陽射しの良い窓際に椅子を置いて過ごしたりと、試行錯誤を重ねているようだ。

 とにかく、猫になったつもりで、陽だまりを求め続けるのがポイント。お日様の光に、鬱々うつうつとした心をカラリと乾かしてもらおう。



 日本に居る姉にLINEで「外出時は6フィートの距離を取る」という話を伝えたら、「それって、国土がバカでかくて車社会のアメリカやから出来るけど、日本やったら絶対に無理やん」と呆れられた。

 確かに、車社会のアメリカで最悪の感染爆発が起こったのは、アメリカ国内随一、公共交通機関が発達しているニューヨークだ。車を持たない人々が目的地まで自由に移動できる過密都市だからこそ、新型ウィルスも人々と共に移動し、感染が急速に拡大した。日本の大都市でも、早急なるソーシャル・ディスタンスの徹底が不可欠なのは明らかだ。


 図らずも新型ウィルス感染拡大の中心地ホットスポットとなってしまったニューヨーク州は、想像を絶する状況に陥っている。 

 4月20日現在、アメリカ国内の犠牲者総数は42,514名。その約45%(18,929名)がニューヨーク州で亡くなっている。病院の遺体安置所は既に収容力の限度を超え、病院施設の脇に横付けされた食品運搬用の大型冷凍トラックに遺体を安置するという手段が取られている。

 宗教上の理由で土葬が主流のアメリカだが、感染拡大を恐れてか、平時の数倍の遺体が火葬にされているという。外出禁止令が発令される以前(3月初旬)のサウスカロライナ州で、感染で亡くなった人の葬儀に参列した6名が発症、死亡した事例もあるため、遺族は葬儀を執り行うことも出来ぬまま、ひつぎを火葬場へ送り出すことになる。故人を偲ぶ時間さえ与えられず、安らかに眠る顔を見つめることさえ許されないのが現状だ。



 ある日の夕刻のニュースで、感染患者の最期を看取った看護師のインタビューが流れた。

 現在、感染対策のため、新型コロナウィルス感染者の入院先に立ち入ることは親族であっても禁止されている。その患者は、60代の男性だった。

「『こんな風に家族に見守られることもなく、たった1人で僕は死ぬのか。妻を抱きしめることも、子供や孫達に手を握ってもらうことさえ出来ずに』……そう言って、彼は泣いていました。そして、数日後、私達看護師に看取られて息を引き取りました。家族に触れてもらうことも出来ず、家族が彼に会うことも叶わないままで。これが、この感染症のむごさなのです」


 テレビ画面を見つめながら、亡くなった父の顔が脳裏に浮かんだ。


 ちょうど去年の今頃、危篤に陥った父の病室に、姉が携帯電話を持ち込んでビデオ会話を試みてくれた。画面越しに、意識が朦朧としている父に何度となく語り掛けた。7月に亡くなった時も、看取りこそできなかったものの、画面越しに見る父の顔はとても穏やかだった。葬儀に間に合うように帰国し、ひつぎの中で花に囲まれて眠る父を見つめながら、ゆっくりと最後のお別れをした。

 それでも、未だに心残りなのは、最期の瞬間に父の手を握ってあげられなかったことだ。アメリカ移住をした時点で、そんなこともあろうかと覚悟をしていたはずだったのに。



 愛情を示す手段として、互いの身体に触れたり、抱きしめるのが当たり前の文化圏で暮らす人々が、突然、愛する人を感染症で奪われ、最後の別れも満足に出来ずにいる。感染拡大を抑制するために必要な手段とは言え、残された家族の精神的ダメージは計り知れない。

 人の動きと社会活動を完全に制限し、「ソーシャル・ディスタンス」と「外出禁止」を徹底して続けることで、ニューヨーク州は感染のピークを越えたと言われている。

 それでも、新型コロナウィルスが生み出したおりは、じわりじわりとアメリカを覆い尽くそうとしている。身知らぬ他人との接触を極端に恐れる猜疑さいぎ心と、経済活動休止に伴う失業者の激増、そして、愛する人を突然奪われた人々の果てない悲しみが、今後、この国をどのように変えていくのだろうか。

 国家を率いるおバカな大統領が迷走ばかりしているおかげで、日毎に国民の不満が募っていく。外出禁止令を廃止して経済活動を再開すべきだと主張するデモも各地で行われている。彼らが新たな感染拡大の要因にならないことを祈るばかりだ。



 外出自粛を呼びかける警察官が混雑する街頭を闊歩する──この光景に戦々恐々とする日本人が多いと聞く。

 警察官にも守るべき家族や大切な人がいるはずだ。にもかかわらず、感染拡大を助長しかねない危険性を無視して『不要不急の外出』を繰り返す人々を諭し、これ以上の犠牲者を出さないように、日夜、命を懸けて街を守ってくれている。日本の『おまわりさん』は、いつだって市民の味方なのだ。

 アメリカでは、問題行動や犯罪の危険性がない限り、警察が一般市民の生活に介入することはない。今現在でも、マスクもせず6フィートの距離も守らずに外出する人々が大勢いるが、彼らを呼び止めて注意を促す警察官など皆無だ。日本人を守ろうとする警察官達に戦時中の憲兵の姿を重ねる人もいるというが、それはあまりにも悲しい考え方だと思う。


 4月6日から、Googleのロゴが『Thank You Coronavirus Helpers』と銘打って、コロナウィルス感染の危険性にさらされながらも働き続ける人々に、感謝の意思を表明する動画をシリーズ化し続けている。

 全てのエッセンシャルワーカー(Essential worker。医療/福祉、電気/ガス/水道、通信/インターネット、公共交通機関、運送業、郵便、スーパーマーケット/ドラッグストア/コンビニ、ガソリンスタンド、ゴミ収集、警察、消防など、一般市民の生活を維持するために不可欠な労働従事者)に感謝し、彼らの負担を少しでも減らすべく、『Stay Home Save Lives (家に居て、命を救おう)』を合言葉に様々な試みがなされている。

 日本でもこの言葉が浸透しつつあるようだ。「ただの流行語」で終わらないことを切に願う。



 幾度となく未曾有の天災に見舞われ、その都度、素晴らしい精神性を発揮して、世界中から称賛を浴びた日本が、今は混乱の中にあると聞いて、遠い異国の地で故国をうれう。

 窮地に追い込まれた時こそ、忍耐強く秩序を守り、助け合い、冷静に行動するのが『日本の国民性、日本人の誇り』だったはずだ。


 「あの時、外出を控えていれば」などと後悔しても、その時には既に遅いのだ。

 色々と含むところはあるだろうけれど。今、抑え込まなければ拡大するばかりの未知のウィルスを相手にしているのだと受け止めて、どうか、辛抱強くあって欲しい。


 これからもずっと、大切な人と手をつなぐために。愛する人を抱きしめるために。


 そして、今のアメリカの惨状が、日本の近い未来の現実とならないために。


(2020年4月22日 公開)

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