ハラミはダメよ

「We are very, very ready.(ボクらは準備万端だよ)」

 新型ウイルスの感染者数が世界的な拡大を見せ、各国政府が次々と対策強化を発表する中、我らが大統領はそう言ってのけた。

 バカの一つ覚えよろしく「Build the wall(壁を建てるぞ)!」を連呼する彼は、メキシコからの不法移民を阻止する「国境の壁」だけでは飽き足らず、海外からの渡航者を徹底的に排除するという「新たな壁」を築くことで、アメリカの感染者数を抑え込む魂胆らしい。


 おかげで、たまたま感染拡大前に出張で日本に滞在していた友人のダンナ(アメリカ国民)は、帰国予定日を数週間過ぎた現在でも出張先での待機を余儀なくされている。彼の場合、日本で暮らした経験があり、日本語も堪能なのでパニックに陥ることもなかったが、でなければ、気が狂いそうなほどの不安にさいなまれたはずだ。

 アメリカで彼の帰りを待つ友人も、気が気ではない。

「もう3月なのに、いつになったら帰って来るのやら。一人暮らしは手抜きが出来るから楽なんだけどね」

 心から頼れる人が圧倒的に少ない異国で生きるには、精神的なタフさを否応なく要求される。たった一人でパートナーの帰りを待ち続けるのは、本当にツラくて心細いのだ。


 毎年、夏休みに子供達を連れて日本に帰る友人達は、感染終息の目処が立たない限り、今年の帰省は見送るべきかと思案中。

「例のクルーズ船の乗客だったアメリカ人達、チャーター機で帰国した途端に隔離されたでしょ? 永住権しか持たない私達なんて、最悪の場合、アメリカ入国を拒否されて日本に強制送還される可能性もあるんじゃないかって……」

 おバカさんは韓国と日本からの渡航者の入国を徹底的に拒否しようと企んでいるらしい、との噂があるからだ。



 アメリカ疾病管理予防センター(Centers for Disease Control and Prevention:CDC)のドクターが「We do expect more cases.(より多くの感染が懸念されます)」と発表するも、現大統領はどこ吹く風で、いつもの駄々っ子のような口調で熱弁を振るい続けている。

「You don’t want to see panic because there’s no reason to be panicked.(パニクるのはイヤだよね? だって、パニクる理由なんてないんだからさ)」


 ……本当におバカなの?



 彼の暴走に拍車が掛かる中、『Super Tuesday 決戦の火曜日』(=大統領候補選び最大の山場)が数日後に迫っている。

 果たして、あのおバカさんをホワイトハウスから叩き出すに充分な勢いのある救世主は現れるのか?



***



 その日は、確かに帰宅直後から様子がおかしかった。


 真冬でも屋内では半袖で過ごし、外出時はニット帽と冬用ジャケットをプラスするだけで平気なはずの相方が、玄関で上着を脱ぐなり「なんだか妙に寒くないか?」と言い出したからだ。

 それでも、いつものように愛犬サスケの散歩に出掛け、シャワーを浴び、夕飯が出来るのを待つ間にテレビを見ながらサスケの遊び相手をしていた。

 夕食も残さず食べた。


 いつもなら、「今日のデザートは何?」と聞いてくる頃。

「やっぱり寒気がする。お腹も差し込むみたいに痛いし、下痢もしてるんだ」


 ……なんですと?

 

 よくそんな状態で夕飯を完食したね、と驚きながらも、後片付けしていた手を止めて、相方に視線を向けた。かなり辛そうに顔を歪めながら、お腹をさすっている。

「何か悪いモノでも食べた?」

「キミが作ってくれたモノ以外、食べてないよ」


『落ち着いて食事をする時間を取るのが難しい職場だから、食べられる時に手元に食べ物があった方が気持ち的にも楽なんだよ』

 そんな相方のリクエストに応えて、朝食のサンドイッチとフルーツ、昼食のお弁当、手軽につまめるスナックやチョコレートなどを詰め込んだCoolerクーラー(「クーラーボックス」は和製英語)を用意するのが、私の朝の日課だ。


 私も相方に持たせたのと同じサンドイッチとお弁当の中身を食べたが、何ともない。普段、ちょっとしたことでお腹をこわすことが多い私がぴんぴんしているのだから、食あたりではないはずだ。

 相方が前回の海外出張から戻ったのは、ちょうど新型ウィルスの感染が報告され始めた頃。とは言え、感染地域に居たわけでもないし、帰国してから既に数週間以上経過しているので、そちらの心配もないはずだ……


 頭の中をぐるぐると駆け巡る不安を一つ一つ打ち消しながら、「今年のインフルエンザはお腹にくるらしいよ」という友人の言葉を思い出し、相方のおでこに手を当ててみた。

「うわっ! むっちゃ熱いやん!」

 慌ててバスルームに駆け込み、キャビネットから体温計を持ち出した。

「はい、自分で熱があるかどうか調べて。キミ達アメリカ人の『高熱』の感覚、私には分からへんから」


 度量衡の違いのおかげで、我が家ではアメリカの体温計(=華氏表示)と日本の体温計(=摂氏表示)を常備している。

 アメリカ人の感覚では「99℉ (=37.2℃)は微熱。100℉ (=37.8℃)を超えたら解熱剤を飲んで、しばらく様子を見る。104℉ (=40℃)を超えたら危険なので、病院の予約をする」というのが一般的だそうな。

 そう言われても、摂氏の国で生まれ育った人間には、華氏の数字を並べられただけでは全くピンとこない。


 相方の場合、平熱が98.6℉(=37℃)と高めなので、「105℉(=40.5℃)を超えないと、高熱とは言わない」とかたくなだ。

 私なら、40℃の高熱が出れば動くことさえままならない。が、アメリカ人はそんな状態になって初めて、病院に行く決意をする。しかも、自ら車の運転をして、だ。それくらい、「出来れば病院には行きたくない。行く時は、かなりヤバイ時に限る」という考え方が徹底している。

 ある意味、その心意気は尊敬に値する。が、ヤバイと感じた当日に予約が取れず、数日先の予約を待つ間に最悪の事態に陥った場合、落ち度は病院側にあるとして訴訟を起こす……というオチも『アメリカあるある』だったりする。

 


 体温計が104.5℉を表示したのを見て、さすがの相方も「かなりヤバイ」と感じたらしい。超強力な風邪薬「NyQuilナイクィル」をぐびっと飲み干すと、自主的に寝室に退散した。

 就寝時、寝室でベッドに横になってテレビを見ながら寝落ちするのが常の彼が、そんな余裕さえなく、ベッドに入った途端にぐったりと目を閉じた。

「明日の朝も体調が悪かったら、当日の予約が出来るかどうか病院に電話するからね」

 お腹をかばうようにして横たわる相方に声を掛けながら、腹部にHeating Padヒーティング・パッドを当てがい、いつもより一枚多く毛布を掛けてしっかりと包み込む。


 パッドの熱で身体が温められて痛みが和らいだのだろうか。しばらくすると、相方はぐうぐうと寝息を立て始めた。

 余談だが、ヒーティング・パッドはオススメだ。

 日本でも「電気湯たんぽ」などの名で販売されているようだが、電源を入れるだけでポカポカになるパッドは、腹痛はもとより、肩や首のこりを楽にしてくれる。相方も私も結構な頻度でお世話になっている。

 スーパーやドラッグストアに行けば、成人男性の腹部を余裕で包むことが出来る大きさのパッドが20ドル前後で手に入るので、常備している家庭も多い。簡単に病院に行けないアメリカならではの必需品だ。

 ちなみに、「アイスノン」のようなゲル化剤が入った解熱用の枕は、こちらでお目にかかったことがない。自動製氷機が冷蔵庫に標準装備されている国だけに、「氷のう(Ice Bag)」があれば事足りるからだろう。

 


 翌朝。熱は下がったものの、腹痛は相変わらず。

 病院に電話すると、運良くキャンセルがあったようで、午前中の予約がすんなり取れた。インフルエンザのシーズンだけに「予約取るの、難しいやろうなあ。電話口でアメリカ人相手にゴネるの、面倒臭いなあ」と思いつつ電話したので、なんだか気が抜けた。

 お腹の痛みで猫背気味になりながらも、自分で運転できる、と言い張る相方を笑顔で見送りながら、「こんな時まで『自己責任』とは……融通が利かないのか、ワイフを信用していないのか」と少々複雑な気持ちになった。



 数時間後、茶色の紙袋と共に相方が帰宅。

 その頃には既に平熱だったけれど、お腹の痛みのせいで動き回るのが辛いから、と職場には病欠の連絡を入れたらしい。

「朝ごはん、食べられそう?」

「いや、無理。吐きそう」

 顔を歪めて返事する相方の様子に不安を感じつつも、インフルエンザの検査は陰性だったそうなので、とりあえず安静にさせて様子を見ようと、ベッドに追いやった。


「お腹が痛いのに、ドクターは解熱剤しか処方してくれなかったんだ」

 ヒーティング・パッドを抱えてベッドに潜り込んだ相方が、不満げな顔で茶色の紙袋から「Tylenolタイレノール」を取り出した。日本でもお馴染みの解熱剤は、アメリカでも処方箋なしでスーパーやドラッグストアで購入できる。が、私達の医療保険の場合、病院付属の薬局から出される薬は全て無料なので、必要ないと思っても、もらっておいて損はない。


 食欲がなく吐き気がする、という点が気になったが、「寝てれば治る」と言い切る相方を信じて、枕元にペットボトルの水を数本置き、「水分補給だけは忘れないでね」と念を押して、ベッドルームのドアを閉めた。

 しばらくして、寝室からテレビの音が漏れ聞こえ始めた。

 昨夜と違い、テレビを見るくらいの元気は戻ったらしい。「安静に、ゆっくり休養しなさい」と言っても素直に聞くような人ではないので、ベッドの中に居るだけでも良しとしよう──


 

 この時の私は、相方がベッドに「ヒミツ」を持ち込んだなどとは、夢にも思わずにいた。



***


 

 どちらかが病気になる度に、日本とアメリカの違いを思い知らされる。「病気にならないように日頃から気をつける」と言う感覚は、アメリカ人には皆無なのでは、とさえ思う。

 いつだったか、テレビのニュース番組で「食べ物は薬にもなるんです! サプリメントや薬だけに頼らず、毎日の食事で新鮮な野菜や果物を多く摂りましょう」とニュースキャスターが大真面目に伝えるのを目にして、開いた口がふさがらなかった。

 『医食同源』『栄養のバランスを考えて食事する』という考え方を一般的なアメリカ人に説いても、なかなか理解してもらえない。彼らにしてみれば、「食事とは、空腹を満たすもの。同じ満たすなら、好きなもの、美味しいもので満たす方が良いに決まってる」というのが理にかなった考え方のようだ。さすが、合理主義の国。

 

 日本人なら、お腹の調子が悪い時にはおかゆと梅干しや、トロトロに煮込んだ大根、ヨーグルトなど、消化しやすく食べやすいものを……と考えるのが一般的だ。

 これがアメリカ人の場合、「病気になったらチキンスープ」となる。熱があろうが、お腹をこわそうが、吐き気があろうが、とにかく「チキンスープ」なのだ。心の疲れを癒してくれる『心のチキンスープ』と名付けられたシリーズ本まであるくらい。それほどに、チキンスープはアメリカ人に愛されている。

 体調の悪い時に鶏肉の匂いを嗅ぐなんて、余計に気分が悪くなりそう……と思うのだが、意外にも、チキンスープには炎症を抑えて抵抗力を上げる効果があるのだとか。そうは言っても、手間暇掛けて、骨付き肉をじっくりコトコト煮込んだスープならば、の話だろう。市販のチキンコンソメやブイヨンにそんな効果があるとも思えない。



 アメリカ人は野菜をあまり食べない。もとい、野菜をじっくり煮込んで食べるということをしない。彼らにとっての野菜とは、「生のまま、あるいはクタクタに蒸して、ソースやディップをたっぷり付けて食べるもの」なのだ。

 「それって、ただのサラダやん」と思うなかれ。

 アメリカのサラダは、ブロッコリーやカリフラワー、マッシュルームに至るまで、ほとんど全て「生のまま」だ。サラダ以外にも、ベビーキャロット、セロリ(にクリームチーズやピーナッツバターをたっぷり付けたスティック)、プチトマトなどは子供のスナックとしても人気が高い。

 原材料はじゃがいもなので、French friesフレンチ・フライ(「フライドポテト」は和製英語)も野菜と考える。「ケチャップって、とってもヘルシーなんだよ。原材料はトマトだからね」と自信満々に教えてくれたのは、アメリカ人の元同僚(某有名大学の修士号保有)だった。なるほど、だから、アメリカ人はマクドのポテトにどびゃあーっとケチャップをかけるのか、と妙に納得したのを覚えている。

 「これは野菜。とってもヘルシーな野菜」と信じ込んでいるらしいから、ポテトにどびゃあーっとケチャップをかけている外国人を見かけても、そっとしておいてあげよう。



 さて、我が家のスープは新鮮な野菜で出来ている。

 玉ねぎが大好きな相方は、「オニオン・スープ」が大のお気に入り。普段は肉食動物の彼も、このスープならば肉類が一切入っていなくてもペロリと完食してくれる。

 じっくり飴色になるまで炒めた玉ねぎを、白菜と大根と一緒にトロトロになるまでコトコト煮込む。仕上げに長ネギの小口切りと胡麻を散らせば、はい、出来上がり。

 白菜(=Nappa/Napa cabbage)と大根(=Daikon radish)は、韓国系スーパーで手に入る。ずんぐりむっくりした韓国の大根は、日本の大根よりも安くて煮崩れしない。が、日本の大根のような甘味に欠ける。お味噌汁やスープには日本の大根が合うと思うのは、日本人の贔屓目ひいきめだろうか。




 夕方近くになって、相方が「良い匂いがする」と鼻をひくつかせながらキッチンにやって来た。

 「野菜たっぷりオニオンスープ作ったけど、食べる?」と聞くと、「まだちょっと胸やけがするけど、それなら食べられそう」との返事に、思わず首をかしげた。


 吐き気、でなく、胸やけ……?


 妙に気になりながらも、食欲があるうちにとテーブルに熱々のスープを用意する。

「明日は仕事に行けそう?」

「下痢が止まればね」

「まだ下痢してるんや……」

  

 『風邪がお腹にきた』というアレかなあ……などと思いながら、スープを完食した相方を再びベッドに追い込んで、「テレビなんか見てないで、ちゃんと寝なあかんよ」と念を押し、ベッドルームのドアを閉めた。

 相方がベッドに持ち込んだ「ヒミツ」など、未だ知る由もなく……



***



 真夜中。うなり声で目が覚めた。

 バスルームからだ。


 隣で寝ているはずの相方の姿が見当たらない……思わず跳び起きて、バスルームのドアをどんどんと叩く。

「ねえ、大丈夫なん?」

 返事の代わりに、苦し気な唸り声がまた聞こえた。


 しばらくして、げっそりとやつれた顔の相方が「お腹が痛くて、吐き気もする」と言いながらバスルームから出て来た。

「そんなにツライなら、今からエマージェンシー・ルームに行く? 何かの中毒かもしれへんよ」

「いや、薬、飲んだから」 

「薬って……お腹の薬はもらってへんよね? いつも飲んでるの薬のこと?」


 実は相方、つい先日、『逆流性食道炎』と診断されたばかり。


 昨年11月末。南極への出張が決まり、ウキウキと浮かれながら出発した。が、過酷な環境下で慣れない作業を数週間も続けるという状況に置かれ、肉中心の脂っこい食事と甘い焼き菓子が唯一の楽しみだったそう。

 それが良くなかった。

 過度のストレスにさらされながら、消化の悪いモノをバカ食いし続けた結果、激太りするという最悪の事態を引き起こし……クリスマス前に帰国した相方を見た瞬間、「南極で何があったん?」と悲鳴に近い声を上げてしまったほど、お腹周りが腫れ上がったようにどーんと大きくなり、顔もむくんでいた。

 その後、あっという間に体調を崩して病院で精密検査を受けるはめになり、病気が判明。

 それ以来、毎朝欠かさず食道炎を抑える薬を飲んでいるのだが……


「いや、その薬じゃなくて」


 ……は? 


「それ以外に、何か飲む薬ってあったっけ? タイレノール?」

「いや、それじゃなくって……」

 はっきりせーよ、と言いたいところをぐっと我慢する私の威圧感に耐えかねたのか、相方はおずおずと茶色の紙袋を差し出した。

 中には、ポップな蛍光ピンク色のプラスティックボトル、もとい、プラスティックボトルが……


 『Pepto-Bismolぺプトビスモル』だ。


 アメリカでは「お腹が痛い? そんな時は『ぺプトビスモル』だよね!」と誰もが言うほどポピュラーな胃薬だ。もちろん、処方箋は必要ない。

 ドロっとした粘度の高い液体の見た目は、まさにピンクのバリウム。アメリカ人の大好きな「チェリー味」とあるが、実際は「湿布みたいな匂いの歯磨き粉味」と訂正して頂きたいほど、激マズだ。気になる方は、ぜひとも画像検索して頂きたい。可愛らしい外装が、とってもアメリカーン。

 このド派手な色の薬、効果の面では、日本の正露丸とほぼ同じなのだとか。


 ……って、下痢している時に、正露丸はマズイやん!


「ちょっと! なんで、こんなの飲んでるんよ!」

「昨日、解熱剤しか処方してもらえなかったろう? だから、病院の帰りにドラッグストアで買ったんだよ。下痢にも効くから……」

「いやいや、これ、下痢を無理やり止める薬やん! こんなの飲んでたら、いつまで経ってもお腹が痛いの治るワケないやん!」


 『下痢止めの薬は下痢を止めるが、悪い菌も留める』という話をどこかで聞いて以来、下痢になっても「納豆菌やビフィズス菌が配合された某整腸錠」以外は口にしない。そんな私にとって、相方が取った行動はアンビリーバボー。

 すぐさま、蛍光ピンクのボトルを没収し、代わりに、ヨーグルトを手渡した。

「食道炎の薬は、ちゃんと飲んでるよね?」

 ヨーグルトを食べながら、相方が気まずそうな顔をする。

「病院に行った日から飲んでない。ぺプトビスモルを飲んでるから良いかと思って……」

 


 ……おバカなの?


 ドクターから処方された薬を勝手にめて、自分の判断で余計な市販薬を飲むって……本当に、おバカなの?


 

 その後、駄々っ子のように「だって、『お腹が痛い時にはぺプトビスモル』ってのが、アメリカの常識なんだよ」と繰り返す相方をベッドの中に押し込むと、「日本では『睡眠は最上の薬』ってのが常識なんよ!」と切り返して、テレビのリモコンとiPhoneを取り上げたのは言うまでもない。




 

 それから数日後。

 ようやく胃の痛みから解放されて職場復帰を果たしたものの、まだ本調子ではない相方が「もうスープばかりの生活はイヤだ! 固形物が食べたい。脂のしたたるステーキが食べたい!」と駄々をこね始めた。

 脂の滴る食事のせいで逆流性食道炎になった男が、まだ言うか……と呆れながらも、「肉食動物である相方には野菜スープだけの生活は逆にストレスになり得るかも」と思い直して、食材調達に出掛けることにした。



 さすがに、病み上がりの人間に牛ステーキはマズイだろう、白身魚にしようか……などと思いながら、新鮮な魚の切り身が手に入る近所の韓国系スーパーへと車を走らせる。

 アメリカでは、新鮮なシーフードは腹が立つほど高額だ。白身魚一切れのお値段は、アメリカ産アンガス牛のステーキ肉の数倍。

 相方も私も食べることが大好きなので、我が家のエンゲル係数は非常に高い。なので、普段は手頃なお値段でどこでも入手可能な冷凍の切り身で我慢している。病み上がりの相方のためだ、少々奮発しようか……などと考えを巡らせながら、スーパーの鮮魚コーナーをウロウロと歩き回っていた。

 ふと、切り身が並べられたカウンターの隅っこに視線をやった瞬間、「これだっ!」と思わずうなずいた。


 『鮭のハラミ』だ。


 「トロットロだよ、口の中でとろけちゃうよお」と言わんばかりに、瑞々みずみずしく輝くオレンジ色の、脂の乗った肉厚な身。英語でズバリ「Salmon鮭の bellyお腹」。

 マグロで言えば大トロだもの、美味しいに決まっている。おまけに、アメリカでのハラミの扱いは「切り落とし」の安価商品。アジア人以外は絶対に手を出さないらしく、韓国系スーパーでしかお目にかかったことがない。

 淡泊なものがあまり好きではない相方も、これなら満足するはず。



 良い買い物をした、と満足しながら帰宅して、早速、夕食の支度を始めた。

「やっぱ、塩焼きでしょ! レモンをきゅうっと絞って……いやいや、醤油漬けも悪くないかなあ。あ、でも大根があるから、一緒に煮込むのも良いかも」

 久しぶりのハラミだもの、私だって堪能したい。 

 悩みに悩んで、結局、第一案の『塩焼き、レモン添え』に決定。


 適当な大きさに切ったハラミを天板に並べ、塩コショウとガーリック・パウダーをサッと振り掛けて、オーブンに放り込む。しばらくして、芳ばしい香りが漂い始めた。

 そろそろ、相方が帰宅する時間だ……




「で、どうよ? 冷凍じゃないからね、フレッシュなサーモンやからね! 美味しいでしょ?」

 口の中でとろけるハラミを堪能しつつ、相方に視線を向けてみる。と、まだ食欲が戻らないのか、お皿の上のハラミを不思議そうにちょんちょんと突いている。

「どうしたん? サーモン、好きやったよね?」

「うーん、確かに美味しいんだけど……これだけ脂っこいと、あまり食べられない」

「フライドチキンとかハッシュパピー(=小さな揚げパンのようなもの)とか、脂っこい揚げ物をパクパク食べるキミが、それを言う?」

「脂っこさの種類が違う」


 ……意味が分からない。

 そして、面倒臭い。


「揚げ物の油は身体に悪いだけやけど、お魚の脂には栄養がぎゅーっと詰まってるんよ。身体にエエのよ! さあ、どんどん食べて!」

 ハラミの塩焼きがてんこ盛りのお皿を、相方の前にどーんと置く。

「ほーら、とってもジューシーでフレッシュ!」

 目の前に置かれたハラミをじーっと見つめていた相方が、ふと、首を傾げる。

「なあ、この切り身、やけに細長いけど……サーモンのどこの部位?」

「え? ああ……キミのココね」

 そう言いながら、相方のお腹のぷにぷにをぎゅーっと掴んだら、本気で怒られた。

 だって、まさにハラミなんだもの。




 来月、相方は再び南極での仕事に挑む。

 前回よりもずっと長期の滞在になるらしいので、今のうちに体力を回復しておかないと。

 ついでに、そのぎ落としてくれたまえ。


2020年3月1日 公開)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る