エバーグレーズ、フォーエバー(後編)

 最後のツアーは『Swamp Buggy Tour』。巨大な4つのタイヤが支える頑丈な鉄骨フレームに座席が設置された沼地スワンプ専用の大型バギーが目指すは、乾いた大地と沼地が入り混じる「沼杉サイプレス」の森だ。


 運転手兼ガイドのお姉さんは、長い金髪を無造作に1つにまとめ、日焼けした化粧っ気のない顔にレイバンのサングラスをした「大自然に挑む腕利き猟師ハンター」の雰囲気を漂わせる凛々りりしい女性だ。

 高さ約2メートルのバギーから見下ろせば、地面は遥か彼方。落ちないように気をつけながらステップを昇り、カメラ片手に意気揚々と最前列の席を陣取った私を見て、お姉さんがニッコリと白い歯をのぞかせる。

「Sweetie、写真を取るならバギーが止まっている時がおススメよ。動いている時に写真を撮ろうとしてカメラを沼地に落しても、拾ってあげないわよ」

 アメリカンジョークは、未だにツッコミどころがよく分からない。

 

 乗客が全てバギーに乗ったのを確認して、お姉さんが大きな声を上げる。

「湿地帯に入る時、私は絶対に銃を忘れないの。今日もちゃんと用意してあるわ。だから、アリゲーターはもとより、万が一、パンサーやパイソンニシキヘビが現れても、絶対に騒がず落ち着いて見学してね」

 過去に5メートル級のパイソンが頭上からバギー目掛けて落ちて来たこともあるのだとか。

「大丈夫。銃を持つ人間の怖さを知っている野生動物は、そう簡単には姿を見せないから」

 いや、それはそれで困るんだけど……と思いながらも、足のない陸上生物が大のニガテな私は「お願いやから、私の上には落ちてこんとってね」と都合の良いことを心の中で願ったりして。


 大きなエンジン音を立てながら、バギーがゆっくりと動き出す。

 しばらくして、背の高い水草が風になびく沼地スワンプが目の前に広がった。その先に、こんもりと濃い緑の森が見える。

 スワンプに入った途端、ガタガタと大きな音を立ててバギーがきしみ始めた。途端に、上下左右、まるで巨人がバギーを掴んで振り回しているのかと思う程、揺れる、揺れる……カメラを構える余裕など全くない。なるほど、お姉さんの言った通りだ。

 水草の草原を突っ切るように「茶色の一本道」が森へと続いている。

 次の瞬間、大きな水飛沫しぶきが上がった。道のように見えたのは、そこだけ水面がき出しになっていたからだ。お姉さん曰く、「先住民は水草を刈ることは出来たけど、沼の底を平らにするのはちょっと難しかったらしいのよ」

 水飛沫を跳ね上げながら進むバギーの上で「そりゃそうだ」とうなずいた。


 デコボコ道を揺られること数分。森の中に入る手前でようやく揺れが収まった。お姉さんは律儀にも「Honey、カメラは無事かしら?」と聞いてくれた。

 「Sweetie」「Honey」と言う言葉を、アメリカ、特に南部ではよく耳にする。慣れていないと「へっ? それって、恋人とか夫婦同士が呼び合う言葉とちゃうの?」と戸惑うかもしれない。南部では、親しみを込めて誰かに話しかける際に使われる言葉だ。接客業に携わる人などは、顧客に話しかける際でも頻繁に口にする。中には「My Love」などと口にするツワモノもいる。が、間違っても胸をときめかせてはいけない。単なる「呼びかけ」なのだと肝に銘じておこう。



 沼地を抜け、バギーは森の中へ。

 いつの間にか、青空を隠すように頭上は背の高い樹々で覆われていた。「沼杉サイプレス」だ。

 その根元には巨大なシダが生い茂り、暗くよどんだ沼の水面には水草がゆらゆらと揺れている。先に進むにつれて、どこからか聞こえてくる動物や鳥の鳴き声が森の中をこだまする……まるで『ジュラシックパーク』の世界に迷い込んだかのようだ。


 巨大バギーを運転しながら森の動植物の解説を続けるお姉さんの声に耳を傾け、写真を撮りながら、ふと気がついた。

 バギーのエンジンを切って必見スポットに停車している間はもちろん、運転している間も、彼女の声はまったく途切れない……いや、途切れないようにしているのだ。気配に敏感な野生の獣達に、「大きな音を立てているのは獲物の小動物ではなくて、銃を持った危険な人間だから、姿を現しては駄目よ」と注意を促しているのだろう。

 このツアーの見どころは、あくまでもスワンプとサイプレスの森だ。森に棲む動物達には、絶対に危害を加えない――そんなお姉さんの、ネイチャーガイドとしての自負が垣間見えたような気がした。



 突然、目の前にぽっかりと青空が開けた。不自然に森を切り開いたような空間でエンジンを切ったお姉さんが、右手を見るように乗客に促した。

 沼地の脇に広がる乾いた大地の上に、茅葺かやぶきの屋根をき出しの数本の柱で支えただけの、粗末な住居らしきものがひっそりと佇んでいた。

「エバーグレーズは人間が定住するには厳し過ぎる環境なの。一年中、蚊の被害は絶えないし、乾いた大地だと思っていた場所が、雨季になれば沼地に変わってしまう。ワニやパンサーに襲われる危険だってある」

 茅葺屋根を見つめながら、お姉さんが静かに語り掛ける。

「こんな場所だけど、今日の予約は入っていないから、この『サイプレスの森リゾートホテル』に一泊したい人はいるかしら?」

 乗客が笑いながら「No!」と声を上げると、お姉さんは満足げな表情を浮かべた。

「これは『セミノール族』の住居を再現したものよ。2006年に『ハードロックカフェ』を買収したインディアン部族、と言えば分かるかしら?」


 ……へっ? 

 ハードロックカフェを買っちゃったインディアン部族!? 


 思わずビックリしてお姉さんを凝視してしまった。

 アメリカ国内は元より、ハードロックカフェ1号店のあるイギリスでも主要ニュース番組や経済誌を騒がせる程のニュースになったと言うから、日本でもご存知の人は多いかも。

 相方に「知ってた?」と聞くと、「アメリカ人の皆が皆、ロックやカジノに興味があるわけじゃない。メジャーリーグやフットボールのニュースなら気になるけどね」と返された。

 相方よ、知らんかったんやね。素直にそう言えば、カワイイものを。


 

「セミノール族は、アメリカ合衆国軍に最後まで降伏しなかった唯一のインディアン部族なの」


 お姉さんの言葉に、私の好奇心がムクムクと頭をもたげ始めた。


 

***



 セミノール族がフロリダにやって来るよりも、ずっとずっと昔。


 エバーグレーズ周辺には、先住民「カルサ族」が暮らしていた。

 過酷な生態系に適応し、王を中心とする複雑な階級社会を築いていた彼らは、16世紀に南フロリダの植民地化を狙ってスペインからやって来た『征服者コンキスタドール』を相手に、統率された軍事力で立ち向かい撤退に追い込んだ。南アメリカでアステカ帝国を滅亡に追いやったスペイン人を迎え撃って独立を貫き、フロリダの植民地化とキリスト教の布教に激しく抵抗したというから、かなりの切れ者集団だったに違いない。

 そんなカルサ族も、17世紀にバージニアやカロライナ、ミシシッピ川周辺の植民地からイギリス人やフランス人がフロリダに侵入し始めると、彼らとスペイン人がもたらした疫病によって壊滅状態に陥った。

 南アメリカの文明を滅ぼし、カルサ族の王国を崩壊へと追いやった旧大陸ヨーロッパの風土病は、後にインディアン部族の絶滅政策にも利用されることになる。



 カルサ族がフロリダから姿を消した頃。

 アメリカ東南部(テネシー州や、ジョージア州、アラバマ州など)に暮らしていた様々なインディアン部族が、ヨーロッパからの移民に土地を奪われ、追われるようにしてスペイン領フロリダへと移り住んだ。そこへ、南部植民地からの逃亡奴隷やスペイン系白人が加わり、多様な異人種が混じり合って統合され、「セミノール族」を名乗るようになった。疫病を生き延びた少数のカルサ族もセミノール族に吸収されたと見られている。

 こうして、アメリカ南部の厳しい自然とエバーグレーズの独特な生態系を知り尽くし、白人社会の知識をも併せ持つ『スーパー・ハイブリッドなインディアン部族』が誕生する。



 アメリカ合衆国が誕生し、ヨーロッパからの入植民が押し寄せ始めると、連邦政府はインディアン部族を強制的に白人社会に同化させるべく、様々な政策を強行した。 

 「インディアン居留地リザベーション(Reservation)」という言葉は、「インディアンの故国として(合衆国連邦政府が)保障し留め置いたリザーブした土地」を意味するという。なんのこっちゃ。

 新大陸の先住民族は、土地を所有するという概念を持ち合わせていなかった。「大地は誰のものでもない。みんなで分かち合うものだ」と考える彼らが平穏に暮らしていた土地を、侵略者であるヨーロッパ人がって、どういうことよ? 

 その答えは、現存する居留地を実際に訪ねてみるとよく分かる。そのほとんどが、都市部から遥か遠く離れ、周りには何もない辺境の地だ。かつて白人入植民達が見限った、不毛の大地――そんな土地をされても、困るよね。

 20世紀初頭、連邦政府は「彼らの血が薄まった」という根拠のない理由でもって、多数のインディアン部族を「絶滅した」と認定した。実際に存在している人間を前にして「キミ達、もう絶滅しちゃってるんだよ」と公式に認めたワケだ。そんなこと言われても、困るよね……



 さて、話を『スーパー・ハイブリッドなインディアン部族』に戻そう。


 現代のアメリカで居留地を持つことが出来るのは、連邦政府から「インディアン部族」として認められた部族のみだ。2018年現在、連邦政府が公式に認定しているフロリダ州の「インディアン部族」 はセミノール族とミコスキー族の2部族のみ。州内の25部族が未認定のままだ。

 1979年、セミノール族は全米初の「インディアン・カジノ」を開設し、大成功を収めた。カジノ運営は居留地を持つ部族だけが得られる特権だ。

 2006年のハードロックカフェの買収を皮切りに、彼らは観光ビジネスをさらに拡大させていく。エバーグレーズ北部のビッグ・サイプレス・セミノール・インディアン居留地では、フルサービス型リゾート施設を経営。エバーグレーズの自然の美しさを身近に体験できる、と評判だそうな。ぜひとも一度は訪れてみたい。

 貧困にあえぐ居留地が多い中、特権を生かして大きなビジネスチャンスを掴んだセミノール族は、部族の自立性を育むビジネスモデルとして、全米のインディアン部族を刺激し続けている。


 とは言え、フロリダ・セミノール族が辿ってきた道も、決して容易なものではなかった。



 1830年に調印された「インディアン移住法」によって、アメリカ南東部の肥沃な土地に住んでいた数万人のインディアンが故郷を追われ、住み慣れないミシシッピ川以西の痩せた土地(=「インディアン準州」)へ強制的に移住させられた。高校世界史で学んだチェロキー族の『涙の道』を記憶している方も多いだろう。

 強制移住に従わないインディアン部族を虐殺し、対立する部族に同じ居留地をあてがって部族間の抗争を生み出すなど、連邦政府の熾烈を極める『インディアン絶滅政策』によって、インディアン部族は多くの犠牲を余儀なくされ、その数を減らしていった。

 一方、彼らのいなくなった南部の広大で豊かな土地は、白人農園主の所有となり、牧場や綿花畑へと姿を変えた。現在、バージニア州に残る大規模農園プランテーション跡も、こうして略奪された土地の名残だ。


 「インディアン移住法」に調印した第7代合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンとフロリダ・セミノール族の間には、切っても切れない因縁があった。

 陸軍指揮官時代、ジャクソンはフロリダ・セミノール族の起源であるジョージア州のクリーク族を大量に虐殺した。「女を生き残らせると、また部族が増える」との信念から、乳幼児を含む女子供を容赦なく殺害するよう、全軍に徹底させたのだ。

 黒人奴隷農場主でもあった彼は、南部からの逃亡奴隷を引き入れたフロリダのセミノールに対しても虐殺の方針を取り、エバーグレーズで徹底的な焦土作戦を行った。


 先日、たまたま訪れた居留地でのこと。

 『Pow Wow』と呼ばれる「歌と踊りの祭典」の会場で、祭りを主催する部族の代表が、彼らの先祖が辿ってきた道程みちのりおごそかに語り始めた。インディアンの強制移住の苦難と『涙の道』のくだりになり、ジャクソン大統領の名が出た瞬間、会場中に大ブーイングの嵐が……!

 その時は「ジャクソンさん、むっちゃ不人気やん」くらいにしか思わなかった。が、セミノール族について調べていくうちに、あれがどう言う意味のブーイングだったのか、ようやく理解した。ジャクソン大統領への憎悪は計り知れないほど根強くインディアン部族の魂に刻み込まれ、次代へ、そのまた次代へと永遠に引き継がれていく。

 あの瞬間、史実と現実が交差する場に居合わせた。

 数百年前の人間の想いが未だに息づいているって、スゴイことだ。



 1832年、フロリダ半島中部の居留地に暮らしていたセミノール族をオクラホマの「インディアン準州」に移住させる任務が、アメリカ陸軍に与えられた。

 これに抵抗したセミノール族が大量虐殺され、生き残った者は強制的に移住を迫られた。アメリカ軍に追われながらエバーグレーズ大湿原に逃げ込んだ者は、そこに砦を築いて抵抗を続けた。後に「セミノールのベトナム戦争」と呼ばれる第2次セミノール戦争が、ここに始まる。

 フロリダでの戦いが泥沼化した背景には、故郷を追われれて辿り着いた土地での徹底抗戦を決意したセミノール戦士達の、「あの日、ジャクソン大統領に殺された同族の恨みを晴らす」という悲願があった。


 セミノール族を追ってエバーグレーズに侵入したアメリカ軍兵士達は、ソーグラスの鋭い葉に肌を引き裂かれ、ヤスリのような石灰岩に靴底は擦り切れて、傷口から壊疽えそかかり次々と絶命した。蚊の大群に襲われ、大型肉食獣の恐怖に怯え、泥沼に足を取られながらの強行軍で過労死する兵も後を絶たなかった。

 一方、エバーグレーズの環境を熟知しているセミノール族は、実に7年もの間、大湿原の奥深くに隠れ住み、合衆国陸軍を相手にゲリラ戦を展開した。

 征服困難な荒々しい大自然を前に、適切な装備も持たぬまま進軍を続けたアメリカ軍は、徐々に敗北へと追い込まれていく……


 1842年、精神的に追い詰められていた連邦政府は、正式な和平条約さえ交わすことなく、エバーグレーズから全軍を撤退させた。

 アメリカ陸軍に最後まで抵抗し続け、生き残ったセミノール族は100名にも満たなかった。彼らはそのまま、エバーグレーズに放置された。

 スペイン語由来とされる「セミノール」は、彼らの言葉(=クリーク語)で「太陽神が愛さない人々」「呪われた」「断絶」「逃亡」などの意味で解釈されている。生まれ育った土地を追われてフロリダに渡り、自らを「逃亡者」と呼んでいた彼らは、この戦争以降、「征服されざる人々」を自称し、エバーグレーズ周辺の土地に住み続けた。


 1900年初頭、フロリダの温暖な気候に目を付けた白人入植者のための土地を増やすべく、エバーグレーズの大規模な排水工事が行われた。湿地は埋め立てられ、洪水制御のために必要な土地が水底に沈み、湿原の大部分が乾燥させられてサトウキビ畑や農園へと姿を変えた。

 エバーグレーズの環境が著しく変化した結果、古い生活様式を捨てざるを得なくなったセミノール族は、「かつての敵」である白人入植者達と共に土地を開墾し、農園や牧場で働き始めた。


 

 現在、エバーグレーズ地域の居留地で暮らしながら、エコツアーのネイチャーガイドとして観光客を誘致する役割を務めるセミノール族も多い。先に挙げたフルサービス型リゾート施設も、その一例だ。


 

***



 セミノール族の住居の復元物レプリカを後にして、バギーは乾いた大地をガタゴトと進みながら発着場に戻りつつあった。

 約30分のツアーも終わりに近づき「最後に、何か質問はないかしら?」とのお姉さんの声に、乗客の一人が手を上げた。

「この辺りでフロリダ・パンサーに遭遇したことはある?」

 お姉さんは誇らしげに大きくうなずいた。

「もちろん。子供だった頃はよく見かけたものよ。でも、彼らはとっても臆病だから、バギーの音に怯えて森の奥に逃げ込んでしまうのよ。ツアー中に姿を見ることはまずないわね」

 フロリダ・パンサーについて簡単な解説を付け加えた後、今までのサバサバとした口調とは明らかに違う、ちょっと悲しそうな声で、こう告げた。

「彼らは『絶滅危惧種』として厳重に保護されているの。でも、純血のフロリダ・パンサーは、もう地球上には存在していないのかもしれないわ」


 

 かつて、フロリダ・パンサーはアメリカ東南部に広く生息していた。ちょうど、フロリダに移住したインディアン部族が元々住んでいた辺りの、野や山に。

 が、西部開拓時代に家畜を襲う害獣として駆除され、後に毛皮を狙った狩猟の対象にされるという苦難に見舞われて、次第に生息地から姿を消していく。

 1920年代までに、フロリダの大湿地帯に生息するわずかな個体を除いて、北米大陸から完全に姿を消した。


 北アメリカの固有種であるフロリダ・パンサーが辿った運命は、インディアン部族のそれに似ている。

 ヨーロッパ人にとっての新大陸アメリカとは、「自らの信念に従って開拓すべき、未開の土地」だった。そこに棲まう全てのものが、彼らの略奪と破壊の犠牲となった。先住民族も動植物たちも、彼らの前では大した意味を持たなかった。

 「広大な沼沢地エバーグレーズ」の独特な成り立ちや複雑な生態系など全く考慮されぬまま、無謀な開発計画が進められ、湿地が広大な農業用地へと姿を変える中、フロリダ・パンサーは徐々に棲み処を奪われていく。エバーグレーズを貫く高速道路が彼らの生息域を分断すると、限られた数の集団内で近親交配を繰り返すようになった。その結果、生殖機能の欠陥や心臓などの先天的疾患が、ほとんど全てのフロリダ・パンサーに現れ、21世紀初頭には絶滅の恐れがあると判断された。


 1995年、生物学者達は「遺伝子の多様化のため」と称して、遺伝子的に近いテキサス州のピューマのメス8頭をフロリダパンサーの保護区域に放った――



「結果として、フロリダ・パンサーの個体数は以前の3倍程に回復したの。でも、純血種よりも丈夫な交配種の個体が数を増やしたからって、『絶滅を免れた』と考えるのは間違っているわ。私の知っているフロリダ・パンサーは、バケモノみたいな交配種よりもずっと小さくて、ずっと美しくて、ずっと臆病で……」

 お姉さんの声が、ふと途切れた。



***



 川、海、草原、森林などの自然環境と、そこに生息する全ての生物とで構成されるひとまとまりの空間を「生態系」と呼ぶ。健全で生産性のある生態系は、そこに息づく多様な種が互いに依存し合うこと(=いわゆる「食物連鎖」)で維持されている。


 エバーグレーズも「生態系」のひとつだ。


 現在、エバーグレーズには、推定1万1000種の植物と400種の陸上・水中の脊椎動物が生息している。その内のたった1つの種が失われることで、自然界のバランスが崩れ、生態系全体を危機的状況に陥れる原因となる。

 たった1つの種の絶滅。

 それを嘆き悲しむかのように、大自然が緩やかに崩れていく。人間には聞こえない悲鳴を上げながら。



 エバーグレーズ国立公園は、世界遺産登録基準が言うところの『すぐれて普遍的価値を持つ、絶滅の恐れのある種の生息地』だ。と、同時に、フロリダ経済を支える主要産業である農業の中心地でもある。

 皮肉なことに、エバーグレーズの農業地域から流出した農薬が環境汚染を引き起こし、湿原に生息する貴重な種の80%を絶滅に追いやってしまった。


 エバーグレーズ周辺の町の人口増加と共に、狩猟の機会も増し、狩猟を目的としたボートツアーが頻繁に開催された。

 19世紀後半、彩りの美しい水鳥の羽根を婦人帽子の飾りに使うことが流行すると、推定500万羽の水鳥が殺された。交尾と巣作りのために美しく色づいた羽根は高値で売買され、金に目のくらんだ狩猟者は、鳥達が巣作りする春になると巣の近くで待ち伏せし、親鳥をことごとく撃ち殺した。親を殺されたひなたちは、巣に置き去りにされたまま餓死するしかなく……

 羽根飾りの流行がすたれる1920年頃までに、エバーグレーズの水鳥は絶滅寸前にまで追いやられていた。ちょうど、フロリダ・パンサーが個体数を減少させた頃だ。

 1970年代までに、かつて、エバーグレーズに生息していた90%に相当する鳥類が姿を消した。


 愚かな人間の身勝手な行いが、自然を破壊し尽し、未来の地球に残すべき貴重な生態系を根こそぎ消滅させかねないギリギリのところまで追い詰めていく。


 

 ユネスコの世界遺産に登録されているにもかかわらず、その意義を揺るがす何らかの脅威にさらされている、あるいはその恐れがあるものを、「危機遺産(World Heritage in Danger)」と呼ぶ。

 世界遺産委員会によって危機遺産と認定された物件は、「危機遺産リスト」に加えられ、その脅威が去ったと判断された時点で、リストから除外される。危機に晒され続けた結果、世界遺産としての価値が失われたと判断されれば、世界遺産リストから削除される可能性もある。

 エバーグレーズは、1993年にハリケーン被害などを理由に危機遺産リストに載せられた。後に「回復を見せた」としてリストから除外されたものの、近年の土壌汚染や水質汚染、海洋汚染などが生態系に危機的状況をもたらしていることを理由に、2010年、再び危機遺産として登録されてしまった。


  かつて、エバーグレーズの大湿原はフロリダ半島の大半を埋め尽くしていた。その流域は、オーランドからフロリダ湾まで広がっていた、と言われている。

 現在のエバーグレーズは、元の湿原地帯のわずか20%を留めるばかりだ。


 人間は、遥か昔から、地球上を我が物顔で歩き回ってきた。気が遠くなるほどの長い年月を掛けて地球が生み出した大自然の造形を、たった数百年で、自分達に都合の良いように造り変えた。その間、数え切れないほどの種を絶滅に追いやり、取り返しがつかないほどの破壊を繰り返した。

 その結果、土壌汚染、水質汚染、そして海洋汚染が、自分達の日常生活を脅かすようになった。そうして初めて、自然界のバランスが大きく崩れてしまっていることに気が付いた。

 気付かないよりは、よっぽどマシだ。

 けれど、もっと早くに気付くべきだった。


 それでも、まだ、間に合うかもしれない。



 エバーグレーズを修復しようという試みが、現在進行中だ。

 2000年、フロリダ州とアメリカ連邦政府は、エバーグレーズの大半を出来る限り排水工事前の状態に戻すための「エバーグレーズの環境復元事業(Comprehensive Everglades Restoration Plan)」を法制化した。過去100年で劇的に変化した自然環境を取り戻すべく、莫大な費用(=推定約7、800億円)と30年の歳月を掛けて行われる予定の、史上最大級プロジェクトだ。

 資金調達面や州政府と連邦政府の政策の違いの問題など、打開しなければならない課題も多い。それでも、自らの過ちに気付いた人間達の『ホントにごめんね、エバーグレーズ』計画は、ゆっくりと、だが確実に引き継がれていくだろう。

 次代へ、そのまた次代へ。

 そして、ずっと先にある未来へと。



 驟雨しゅううに煙る大湿地帯を貫いて南ヘと続くハイウェイを、次の目的地に向けて車を走らせる。

 図らずも知的好奇心をくすぐってくれたエバーグレーズが、かつての美しい姿を取り戻す日を切に願いながら。


(2018年10月9日 公開)

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