約束を一つ

 隼人はやとの夢を取るか、私の願いを叶えるか。きっと一番いいのは……隼人が海外出張から帰ってくるのを私が待つこと。今みたいに頻繁に会えなくなってしまうけど、寂しさは私が我慢すればいい。なのにそれを私に言わないのは、隼人が私の夢を気にしてるから。


 私に無理強いをしないのは、隼人の良いところでも短所でもある。隼人は優し過ぎるんだ。もっと自分のことを考えなきゃダメだよ。お人好しなだけじゃ、上手く生きられない。それが出来るのはドラマや小説の中でだけ。現実はそんなに甘くない。それくらい、私にだってわかる。


美穂みほさんと、別れたくない。でも、いつ帰ってくるかもわからないのに『待ってて』なんて偉そうなことも言えないんだ。俺は、美穂さんには幸せになってほしい」


 ほら、やっぱり優しい。人のことより自分のことを考えるべきなのにそれをしないのは、どうしてなんだろう。だから苦しむんだよ、だから辛くなるんだよ。いっそひと思いに宣言してくれれば楽になれるのに。


 隼人ももう二十代後半だもの。会社のことはよくわからないけれど、海外出張も部署異動のチャンスも、今を逃したら消えちゃうんじゃないかな。それをわかってるから、隼人は悩んで決めたんだよね。なら私は、それを応援するしかないじゃない。


「海外出張、行ってきなよ。私はどんな時も、どこに行っても、応援してるから」

「でも……」

「私は日本ここで待ってるから。帰ってきたら、迷ってた言葉の続きを聞かせてよ。ね?」


 きっとこの言葉が選択が、今の私に出来る精一杯。私は待ってるから。だから、海外出張に行って、そのまま部署異動のチャンスを掴んでほしい。帰ってくるって信じてるから、私のことを裏切らないって信じるから。


 最初に会った時は赤の他人だった。初めて告白された時、恋愛に臆病になっててすぐには信じられなかった。だけど今は信じられるよ。これまでの思い出が、言動が、隼人を信じる根拠になるの。


「待つって、何年後かわからないよ? 早くても三年、遅ければ……十年後になるかもしれない。それでも、いいの?」


 隼人は必死に下唇を噛んで泣くのを堪えていた。だけど一度泣いたあとだからなのか、白目は赤くなっているし、目には涙がうっすら浮かんでいる。捨てられた子犬みたい。そんな顔しないでよ。そんな顔をされたら、せっかくの決意が鈍ってしまいそう。決意が鈍らないうちに、言葉を紡がなきゃ。


「いいよ。その代わり日本にいる間は、隼人さんのことを待つためにも、思い出を作りたいな。思い出があれば、待てるから。隼人さんのことを信じて、帰りを待ってるから」

「……美穂さん。もし待てなかったら、俺のことは忘れていいよ。俺よりいい人がいたら、その人と結婚して。美穂さんがどんな選択をしても恨まない。帰国したら真っ先に会いに来るけど」


 隼人の言葉に、胸が締め付けられるような感じがした。そんなこと言わないでよ。それじゃ、もう会えないみたいな感じがしちゃう。今生こんじょうの別れじゃないはずなのに。帰ってくるんでしょ、また会えるんでしょ。だから「待てなかったら」なんて仮定の話、しないでほしいな。





 私の胸に顔をうずめたままの隼人の背を優しく撫でた。隼人の体を抱き返して、その首に接吻くちづけを一つ落とす。隼人から香るどこか懐かしい甘い匂いが、鼻腔に入り込む。隼人の匂いを思いきり吸い込んだ。


「私は、隼人のことを――」

「待ってくれると思ってる。けどそれじゃ、出張先で俺が死んだ時に、後悔するから。……だからさ、あまりに帰ってくるのが遅い時は、俺が死んだと思って他の人を探すんだ。いいね?」

「そんなこと、言わないで。遺言みたいなこと、言わないでよ! 隼人のバカ!」

「やっと名前、呼び捨てで呼んでくれたね。それだけでいい。俺も、なるべく早く帰ってこれるように頑張るから……」


 海外で何が起こるかわからないから、だから怖いのかな。確かにテロとかに巻き込まれるかもしれないし、事件に巻き込まれる可能性もあるけれど。でも、だからってそんな「最後の言葉」を今このタイミングで伝えなくたっていいじゃない。


「帰ってくる。あなたは絶対に無事に帰ってくる! 何かに巻き込まれる人なんて稀なんだから」

「その言葉、録音すればよかったな。美穂の声も聞かずに何年も耐えるのは、俺が辛い」

「ふざけたこと言わないでよ」

「真面目に話してる。俺にとって何が一番辛いか、知ってる?」


 隼人が突然顔を上げて、不意打ちで私の唇を奪い去った。なかなかキスが終わらなくて息が苦しくなってくる。ついに苦しさが限界になって隼人の背を叩けば、顔が私から離れていく。口の中まで甘く感じるのはきっと気のせいだ。


「美穂と離れるのが、一番辛い。本当は、『忘れて』なんて言いたくない。このまま時が止まればいいのにって、何度願ったことか」


 体に吹きかけられる吐息が熱い。吐息に見え隠れする欲望が、私の中の何かを刺激するようで。体の芯が熱くなるのを感じた。遠距離恋愛の話をしているはずなのに、女性として思われているのが嬉しい。


「だからってわざわざ物理的に離れる?」

「離れることに慣れなきゃ、あとが辛いから。俺、こう見えて寂しがり屋なんだよ。誰よりも離れることを恐れてる」

「でも長期休暇に日本に帰ってくれば……もしかして、休みが取れないとか?」

「多分、必要最低限しか無理かなって。それに、下手に美穂に会ったら、帰りたくなくなりそうで。だから、海外向こうに飛ばされたら、任期が終わるまで帰らないつもりでいる。それでも、本当にいいの?」


 私は隼人の言葉に頷くことしか出来なかった。頬を伝う涙を誤魔化して、隼人の体を求めるフリをする。この時が永遠に続けば、隼人が離れずに済めば、どれだけいいだろう。私だって同じことを思ったよ。


 でもそれは叶わない。時間を刻む砂時計は逆さにしても戻らないし、その流れが止まることは無い。時の砂は上から下に落ちることしか出来ないから。過ぎた時間ばかりが積み重なるだけだから。


 隼人には夢を叶えてほしい。私のために色々してくれたからこそ、恩返しがしたいの。私に出来るのは、隼人の選択を肯定することだけ。私の選んだ「待つ」という選択がどれほど辛いものなのか、この時の私は考えもしなかった。

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