差し伸べられた手

「俺は、美穂みほさんが……好きになってしまいました。大好きです」


 隼人はやとに言われた言葉を頭の中で繰り返してみる。でも繰り返してもやっぱり信じられなくて。その言葉の真偽を確かめる術もない。隼人の視線を痛いほど感じるのは、妙な言葉をかけられたからよね。気のせいじゃない、よね。


 「大好き」なんて言わないでよ。そんなことを言われたら、泣きそうになってしまうから。私を見つめないで、私に愛を求めないで。人は裏切るものって、今痛感してるのに。恋愛はしばらくしたくないって思っているのに。


 宏光ひろみつの一件以来、男性の言葉を鵜呑うのみに出来なくなった。人の「好き」を素直に信じられないの。きっと隼人は私に気を使って言ってるんだ。そうに違いない。


 こんな良い人、現実にいるはずないもの。もしいるとしたら彼女の一人や二人、いるに決まってる。それなのに「大好き」なんて言うのは、私が彼氏のフリを頼みやすくなるように、に違いない。もう人の言葉にはだまされないわ。


「美穂さん、大丈夫? すみません!」


 隼人に声をかけられて我に返る。考え事に夢中になり過ぎて、何が起きているのかわからなかった。両膝がやけに冷たい気がする。あれ、スカートが濡れてる。え、待って、嘘でしょ。


 視線をテーブルの上に動かせば、そこには倒れたグラスと氷があった。グラスに入っていたはずの水は、テーブルから私の膝や床を濡らす。卓上に置いていたはずのスマホは、隼人が直前に動かしてくれたから無事だった。


 私、驚き過ぎてグラスを落としたんだ。ようやくそれに気付いた時には、隼人の呼んだ店員が私の元に駆けつけていた。他の客の視線が私に集まるのを感じる。


「すみません!」

「いえいえ。大丈夫ですか?」

「大丈夫です。本当に申し訳ありませんでした」

「――あなたはこのタオルで衣服を拭いてください。片付けはこちらでやりますので」


 床を拭いてくださる店員の方々。テーブルの上を拭く隼人と店員。本当は拭くのを手伝いたいけれど、立ち上がろうとしたらそれをやんわりと仕草で拒絶され、タオルで濡れたスカートを拭くようにと指示された。本当に何やってるんだろう。驚き過ぎてグラスを落とすなんて、らしくない。


 隼人の「大好き」の言葉に喉の奥がツンとして、泣きそうになる。浮気をした宏光も同じことを言ってたから。隼人の真剣な眼差しが、付き合った当時の宏光に重なって、辛くなる。どこまで信じていいのかわからないから。


 最初の頃は「大好き」を言うくせに、互いに愛し合っていたと思っていたのに。そう思っていたのは私だけ。宏光にとって私は、数ある遊び相手の一人でしかない。欲を満たすための一人でしかない。その現実をやっと受け止め始めたばかりなんだ。


 向けている好意が本物かなんて本人にしかわからない。今回のことでよくわかった。だから私は、しばらく恋愛なんてしないって思ってた。だから、なんだろうな。まさか隼人の言葉一つでここまで動揺するなんて……。


「美穂さんが、元カレと別れた直後でそういう気分じゃないってわかってる。だから、美穂さんが恋愛をしたくなるまで待ってるよ。ただ、彼氏のフリでも何でも、美穂さんのためならするって伝えたかっただけ、なんだ」


 また指先から水の入ったグラスを落としそうになる。でも、今度はすんでのところできちんと掴むことが出来た。やっぱり私の聞き間違いじゃないみたい。隼人の言葉は砂糖菓子より甘い響きを持っていた。





 言いたいことはわかるよ。ただ、その言葉を信じるのに勇気が必要ってだけ。また同じことが起きそうだから信じたくないってだけ。こんな私のためにどうして、隼人はここまで親身になれるんだろう。


「で、どうする?」

「何が、でしょうか?」

「美穂さんが言ってた俺の迷惑問題、解決したよ? 元カレさんに彼氏のフリして見せつけて諦めてもらう? それとも別の案を考える? 俺はどんな案でも手伝うけど」


 隼人に言われてから思い出した。そうだ、宏光に諦めてもらうためにどうするかって話をしてたんだよね。私が遠慮してた理由は、私の彼氏のフリをすることが隼人にとって迷惑だと思ったから。で、今の隼人の発言でそれが解決したところだったんだ。


 そもそも隼人の言う「迷惑じゃない」も嘘の可能性があるけれど、本人がここまで言い張るなら認めないわけにもいかない。どうして私を助けてくれるのか。その理由はわからないけれど、ここまで言ってくれるのなら、その言葉に甘えるべき、なのかな。一人じゃどうにもならないから。


 隼人が彼氏のフリをしたところで宏光が諦める保証はない。そもそも、最初は別れようとしてたもの。なんで今になってやり直す方向で話が進んでいるのかも、わからない。かといって、危害が出ていない以上警察も動けない。それでも――。


「じゃあ……お願い、します」

「了解。そしたら……」


 私一人の手に負えないから、素直に差し出された救いの手を掴むことにした。嘘かもしれないけど、疑うくらいなら隼人の言葉を信じた方がいいと思って。隼人に恋人のフリを頼むと、さっそく隼人がやるべき事を提示していく。


 宏光のチャットに既読をつけ、もう恋人がいることを伝える。もし電話が来たなら一度だけ話してみる。それでも納得しないようなら隼人に連絡。隼人が宏光と話をつけることを試みる。それでも納得しないようなら、ひとまず宏光のアカウントをブロックする。


 隼人が言うには宏光は、「今でも美穂は俺が好き」と誤解してる可能性が高いらしい。宏光の中では「復縁を迫ったら喜んで戻って来る」「嫌というのもねてるだけ」という思い込みがあるんじゃないか。その理由の一つは、別れ方にあるらしい。


 私は宏光から別れを告げられた。だから「美穂は別れた」と思っているんじゃないか、と。私とやり直したいのは「私はまだ宏光が好き」という思い込みがあるから、という可能性が高いそうだ。浮気相手と何があったかは知らないけれど。


「男ってそういうもんだからね。それにしても、相当諦めが悪い人なんだろうなぁ。こんなことしたって恥ずかしいだけなのにね」


 隼人がため息と共に吐いた言葉は、私の気持ちを代弁しているようだった。

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