第二部 弱気な心

その手を掴んで

揺れ動く心

 夜、寝る前にスマホのメッセージアプリを眺める。メッセージアプリの一番上にあるのは「たちばな隼人はやと」の名前。心が洗われるような青空のアイコンは、何度見ても見慣れない。このアイコンを見ると一瞬ドキリとしてしまう。


 このアイコンはついこの間まで存在しなかった。折りたたみ傘を貸した時に初めて知ったアイコン。チャットの履歴もまだそんなに多くない。だけど他のどのアイコンより、このアイコンからの通知を待ちわびているんだ。


 三回目に会って一緒に映画を観た日からもう二週間が経つ。あの日を境に、メッセージアプリでのやり取りはずっと続いてる。といってもだらだらと同じ話をしてるわけじゃない。他愛のない日常会話をどちらかが送って、それに返して、最後は「おやすみ」で終わる。それを繰り返しているだけ。


 隼人の下には「飯山いいやま宏光ひろみつ」の名前がある。アイコンは、見たくもない宏光本人の顔写真。チャットをしてるとはいえ、このアイコンを見るだけで嫌気が差す。隼人のアイコンとの落差が大きくて、二人のアイコンが縦に並ぶ状態はあまり好きじゃない。


 やっぱり映画館で会ったのは宏光で間違いなかったみたいで。映画館に行った日を境に、宏光からは隼人のことを聞かれたり、よりを戻すように言われたりしている。ブロック機能を使ってもいいけれど、下手にブロックしたら今度はマンションにまで来そうで、なかなか出来ない。


「まだ連絡来てる?」

「うん。でも、彼は家の場所知ってるから……」

「下手に拒絶して来られても困るもんね。いっそ、俺と付き合ってるって宣言しちゃう?」

「ダメだよ。隼人さんに申し訳ないもの」

「その俺が提案してるんだけど……まぁいっか。じゃあ今度休日が重なったら、気分転換も兼ねて話そうよ。いざって時は俺がそいつと話つけるから」


 私の話を聞いたから、なんだろうな。映画を観た日からずっと、隼人は私と宏光の関係のことを心配してくれてる。そのせいなのか、週に一度は電話で話すようになった。さらに、宏光が諦めないなら彼氏のフリをして話をつける、とまで言ってくれてる。傘の貸し借りだけで終わるはずの関係が、ここまで親密になったの本当に不思議。


 多分隼人がいなかったら、一人で悩んでたと思う。宏光と違って下心丸出しじゃないこと、本当に親身になって相談に乗ってくれること。隼人の言動の一つ一つが、隼人のことを信じてみようだなんて気まぐれを引き起こす。同じ性別なのに、ここまで違うことに驚きを隠せない。


美穂みほさん、大丈夫?」

「大丈夫だよ」

「ごめんね。俺が美穂さんを映画館に連れていかなかったら、こうならなかったよね」

「隼人さんは悪くないよ。あの日、提案したのは私だし。悪いのは、下心丸出しのあの人だから。ほんとに諦めが悪い」

「とにかく、出来る限り手を尽くすよ。美穂さんのこと、放っておきたくないし。だから何でも言って」

「本当にごめんね」

「そこは『ありがとう』って言うところでしょ。だって美穂さん悪くないし。じゃ、日程はチャットで決めよっか」


 隼人の優しい言葉一つ一つについ甘えてしまいそうになる。頼ってしまいたくなる。信じきったらダメだって、宏光のことで学んだはずなのに。隼人だって優しい態度を取ってるけど、裏では浮気とかしてるのかもしれない。そうやって人を疑わずにはいられないの。私が傷つきたくないばかりに、疑うことをやめられない。


 優しい態度をされたら、誤解してしまう。その態度が私にだけされている特別なものだと、勘違いしたくなる。喫茶店で「笑顔が好き」なんて言われた日から、なんでか私は隼人のことをついつい意識してしまうから。恋愛なんてしばらくしない。そう、雪の日に決めたのにな。





 別れるまでの四年間、私は宏光が好きだった。喧嘩したり嫌な思いをすることもあったけど、それでも信じてた。このまま宏光と結婚する、なんて甘い夢を見てた。自分の恋が順調なんだと疑いもしなかったんだ。


 最初に宏光の口から浮気のことを聞いた時、頭が混乱した。傘を忘れて雪に濡れながら電車に乗るくらいに、パニックになってた。浮気されたことより、三年間も嘘を吐かれていたことの方がショックだった。私に隠れて裏でしていたことが、信じられなかったの。


 それに、なんだかんだ一番苛立ったのは、衝撃の発言をした後の宏光の態度だった。謝れば許されると、すぐに元の関係に戻れると思ってる。そんな態度に、私のことをバカにされてるように思えたんだ。人の心はそんな簡単じゃないのに。一度裏切っておいて、すぐに信じられるとでも思ってるのかな。


「浮気は出来心だったんだ。魔が差しただけ。美穂もそうなんだろ?」

「今ならお互い様に出来るぞ」

「俺もお前も浮気してた。そういうことにしてやり直さないか?」

「というかあの浮気相手、誰だよ」


 隼人にチャットしようとした時だった。液晶画面に現れる、チャットを知らせるポップアップ。その相手は宏光だった。四件も連投してきてるし、その内容は宏光の気持ちを押し付けるものばかり。


 いつの間にか、私が隼人と浮気してることにされてる。私はもう宏光と別れたはずなのに。しかも「お互い様に出来るぞ」ってなんなのよ。これじゃまるで、私がヨリを戻したがってるみたいじゃない。都合よく自分の浮気を無かったことにしようとしてる。


 隼人は違う。あの日だって、折りたたみ傘を返してもらうついでに映画館に行っただけ。しかも宏光は、人目も気にせずに浮気相手とイチャついてたじゃない。あれ、またポップアップが変わってる。今度の相手は……隼人だ。


「今週の土日は空いてるかな? 心配だし、早めに会って今後どうするか決めよう。少しでも危害が出てたら言って。警察に連絡するから」


 宏光には、どんなにメッセージを連投されても既読すらつけようと思わなかった。でも隼人には、一文でも見たらすぐに返事をしたくなる。メッセージ一つでここまで楽しみになること、宏光の時はなかったな。もしかしたら私は、ずいぶん前から宏光を見限っていたのかもしれない。

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