第一部 偶然の出会い

この傘を君に

とある雪の日に

 忘れるはずがない。あれは、雪の降る冬の日だった。ネオンライトに彩られた街並みは変らなくて。空がどんなに暗くても、ビルの看板だけは眩しいくらいに輝いていて目が痛い。あまり雪の降らない地域なのに、その日は雪が僅かに積もっていて。そんな寒い日に私は、傘を無くして駅の改札口付近で佇んでた。


 今日は都会で数センチの積雪の見込み、なんだっけな。都会で雪が積もるのは何年かぶりなんだって、どこかの気象予報士が言ってた気がする。雪が降るってわかってたのに、朝から雨が降っていたのに、今の私の手元には傘が無い。


 コートのポケットの中ではスマホが振動してる。チラッと液晶画面を見れば、電話がかかってきているんだとわかる。でもその発信者は、今一番話したくない人。だってついさっきまで会っていたんだもの。その人との別れ方は最悪だった。


「あのさ、美穂みほ。俺、お前に謝らなきゃいけないことがあるんだ」

「何? 浮気でもしてたとか?」

「……ごめん」

「えっと、それは何に対して? 言ってくれなきゃ、わかんないよ」

「……ごめん。浮気、してました。そんで、浮気相手、妊娠、しちゃいました。責任取らなきゃいけなくて、その……別れて、くれませんか?」


 四年間付き合っていた彼氏とデートした後のこと。デートの最後に立ち寄った喫茶店で、さもありきたりなことのように紡がれた言葉は、私を絶望させるのには充分だった。別れるなら、デートなんてしないでほしい。デートのためにとわざわざお洒落してきた自分がバカみたいに思える。


 別れる理由も、私の今までの人生の中でワーストワン。まさか、冗談で言った浮気を本当にしてたなんて。しかも別れる理由は「浮気相手の妊娠」。申し訳ないけれど「最低」以外に言葉が浮かばなかった。


 今日一日ずっと、私の隣で彼氏として振舞ってたんだ。そんな重い理由も別れ話も感じさせない笑顔で、薄っぺらい「大好き」を告げていた。ラブホテルでの行為は彼氏だからじゃなくて、自分の欲を満たすためだった。他の女の人にも同じように振舞って、同じ人ような行為をしていたんだ。


 彼が私に伝え続けてきた「愛」は偽物だったみたい。私には「好き」とか「愛してる」とか言っておいて、裏では好き勝手やって避妊すらしない。四年間私と付き合っていたけど、三年前から浮気を始めたそうだ。この三年間は、浮気相手と私、両方に嘘をついていたらしい。


 別れ話はどうでもいい。それより、私と付き合っていながらも他の女を抱いていた、その事実が気持ち悪い。いつからかわからないけど、だまされてた。そう思ったら彼氏の隣にいることに耐えられなくなって。気がつけば傘も持たずに喫茶店を飛び出して、雪に濡れた状態で電車に飛び乗っていた。


「困ったなぁ」


 雪は止む気配が無くて、まだ降り続いている。この中を傘もささずに歩くのは不可能。雪で冷えて風邪なんて引いたら、職場に迷惑をかけてしまう。かといって、新しい傘を買うには最寄り駅から外に出て少し歩かなければいけない。


 ビニール傘を探したけど、あいにく最寄り駅の売店はどこも売り切れ。傘を求めるためにこれ以上濡れるなんてバカげてる。ただでさえ全身濡れているせいで周りから注目を浴びているのに、これ以上悪目立ちしたくないな。


 別れ話のために一日デートして、帰りには傘まで忘れて。今日に限って長傘どころか非常用のビニール傘まで売り切れだし、折りたたみ傘も忘れたし。今日一日の出来事を思い出したら、意識してないのに何故か涙が流れてしまう。


「あの……大丈夫、ですか?」


 悲しさと悔しさと怒りと苦しさ。色んな感情がごちゃまぜになっておかしくなりそう。そんな私を心配して声をかけてくれたのが、だった。





 第一印象は「人柄が良さそう」だった。寝癖なのか、黒髪がところどころ変な方向にはねている。本人はそれに気付いていないのか、直そうともしない。その代わり、差し出された腕には二本の傘がかかっている。一本はビニール傘で、もう一本は普通の長い傘。でも長傘を二本も持ち歩く人なんて、聞いたことない。


「傘、手違いがあって二本あるんです。よかったら使いますか?」


 優しい言葉をかけながら、涙ぐむ私の背中をそっと撫でてくれる。コート越しに伝わる手の温もりが心地いい。これが彼――隼人はやととの出会いだった。



 隼人はその日、仕事があったのだという。朝から天気が悪かったため、出勤の際に家から長傘を持っていった。それなのに、自分が長傘を持ってきたことを忘れて、昼休みにコンビニでビニール傘を買ってしまったそうだ。


 会社に持ってきた長傘を置いたまま、車を使って外勤に回っていた。その途中で天候が悪化したから、衝動的に近くにあったコンビニに入ってビニール傘をゲットして。そして外勤から戻ってきてから、長傘が二本ある現実に気づいた。


「会社に置いていても忘れるだけなんで持って帰ることにしたんですが……傘、行きより増えちゃいました」

「忘れっぽいんですね」

「興味のあることなら忘れないんですけどね。そんなわけで、傘が二本あっても邪魔なので、あげます。むしろ貰ってください」


 隼人は涙の理由を聞かないでいてくれた。傘が二本ある理由を説明した上で、ビニール傘を無理やり私の手に握らせる。その優しさが、彼氏の別れ話で傷ついた心を癒してくれた。


「でも……」

「ビニール傘だし、気にせず使ってください。代金はいりません。返さなくて大丈夫なので」

「そういうわけにはいかないです」

「じゃあ、僕を助けると思って受け取ってください。傘を二本も持ってると、変な目で見られちゃうんですよ。みんな、持ってる傘は一本なんです」


 たしかに、長い傘を二本も持ち歩くなんて、誰かを迎えにいく時以外にない。傘をさしているのにその手にはビニール傘が握られている。そして、誰を迎えに行くわけでもなく道を歩く。そんな隼人を想像して、思わず笑ってしまった。


「何がおかしいんですか?」

「いや、ちょっと想像したら……」

「何を想像したんですか!」

「傘を二本持って、変な目で見られているところです」

「変な想像するくらいなら、早くこの傘を受け取ってください。そして、早く帰ってお風呂に入ってください。そのままじゃ風邪を引きますよ?」

「では、ありがたくいただきます。ありがとう」

「気をつけて帰ってくださいね」


 隼人がくれたビニール傘は、そこら辺で売っているビニール傘と違って輝いて見えた。

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