なんでってわけでも、ないんだけどさ

【002】


 土曜日のお昼に渋谷に向かう電車の中は、目的地が近づくにつれて混み合ってきた。七人がけの座席に座っていたあたしは、自分の隣に置いていたハンドバッグを膝の上に移動する。それにより出来上がったとなりのスペースに、真っ白な髪のお婆さんが軽く会釈をしてから腰掛けた。

 ほんの少しだけ窮屈になったロングシートの上で、あたしは小さく溜め息を吐く。

 結局、大喜利会に参加することになってしまった。令と文代に半ば強引に押し切られるような形だった。

 そもそもの問題として、なのだが。あたしと、令と文代の間では、そういったお笑いに関する活動の経験値に、そこそこの差がある。

 一番経験値が高いのは文代である。元々お笑いが好きで、そもそもお笑いサークルに入ろうと最初に言い出したのも彼女だったこと。そんなわけで、これは納得のいく結果だろう。彼女は元々色んな芸人さんのネタを観ていたのだろう経験が生き、サークルの活動の一環であるネタ造りに於いて一年生三人の中では群を抜く素質を見せていた。

 あたしたち三人で執筆者を隠した状態でネタの台本を先輩方に見てもらった時、一番評判が良かったのが文代だった。ちなみに一番評判が悪かったのはあたしで、群像劇的なコントを書いてみたのだが『人物入れ替わりトリックでも使う気なのかってくらい分かりにくい』『中盤の、ここで理事長が出てくる、っていう指示はそういうボケなのかマジなのかだけ教えてほしい』『オチのところの演者全員が踊るって書いてあるト書きが一番サイコだった』とさんざんな言われようだった。ちなみに理事長には出てきてもらうつもりだったし、オチで踊るのは今でもおもしろいと思っている。

 ネタの精度的に、令はあたしとどっこいどっこいで、『舞台上で演じている様子がちゃんと思い浮かぶ』という一点でもって令の方が評価が高かった。そんな令であるが、経験値として考えた時には、あたしよりもより多くのものを積み重ねているだろうと思われる。なにせ彼女は、文代と一緒にコンビを組んで舞台に上がり、漫才を披露しているのだ。

 夏休みに入る前くらいの頃、文代は「漫才のネタを作ったので、相方が欲しい。春香か令か、どちらかに一緒にやってほしい」と、あたしと令に話を持ちかけてきた(今は省略したが、実際の文代の台詞には、あちこちに『……』が入っていた。喋り終えるのに二分くらいかかっていた)。そんな文代の申し出に対し、そもそも生来の性格からして肝が座っているのであろう令は、「よろしくてよ」と二つ返事で了承した。その間、あたしはスターバックスのホワイトモカフラペチーノをストローで吸っていただけだった。

 それから令と文代は、二度ほど二人だけで舞台に立つという経験を踏んでいる。配役は文代が淡々とボケていくのに対して、令が歯切れよくツッコミを入れていくという形だ。令は元々喋りがうまく、物怖じすることも無い為、舞台上でも堂々として見えた。そんな令に引っ張られるような形で横に立つ文代についても、こちらは多少の素人らしいたどたどしさが見られるとはいえ、それでも自信を持って舞台に立っているようだった。

 令と文代はその他にも、多人数を擁するコントにも何度か端役で抜擢されていた。一方のあたしは、サークル入会以来半年過ぎた今もまだ、大道具を動かす黒子役以外で舞台上に上がったことすら無い。それは初舞台となったあの日、まったく心の準備のない状態で放り込まれた大喜利コーナーで負った心の傷が、癒えていないから。

 あの時にお客さんたちから浴びせられた、冷たい視線が今も忘れられない。

 あたしは、おもしろくないから。

 人に見られる価値なんて、無いから。

 そんな当たり前のことを突きつけられたあの時の恐怖を、どうしても、忘れることができそうになくて。

 人数の多いコントをやろうという話になったときでも、あたしはその演者として出ることを断り続けていた。それに関して、部長をはじめとしたサークルのメンバーは、特に何を言うでも無かった。あたしは時々ネタを書いて、駄目出しをされ、ボツになり、また次のネタを書き始める。そんなことの繰り返しの中で、自分の人生の一部を浪費し続けていた。

 この前、本当に唐突に思ったことがある。自宅のお風呂で髪を洗う為にシャンプーをしていて、それを洗い流そうとシャワーのノズルを握った時。

 ……なんでお笑いサークルに、いるんだろう……?

 ……ほんとうにあたしは、つまらないのに……。

 あまりにも唐突に、脈絡も無く襲いかかってきた疑問。その疑問は直視するのにも堪え難いような、大きな不安感に包み込まれていて。それはあたしの心を黒く塗りつぶす。じわりじわりと真綿で締めるように、あたしの心を責め立てる。

 つまらないあたしが、お笑いサークルに居座り続けるのって……迷惑なことなんじゃないの……?

 あたしは自分の心にまとわりつくそんな疑問ごと振り払うかのように、シャワーの水を全開にして浴びた。何もしていないのに、いや何もしていないからだろうか。ひどい息苦しさを感じたあたしは、何分も何分も祈るように身体を丸めたまま、シャワーを浴び続けていた。


『渋谷。渋谷でございます。お降りの際はお忘れ物をなさいませんようご注意下さい……』

 そんな車内アナウンスを耳にしたあたしは、ハッとして辺りを見回した。車輛は既に駅構内に入って停止しており、前後の扉からはぞろぞろと人が乗り込んできている。ぼうっと考え込んでいるうちに、目的地である渋谷に着いていたらしい。発車ベルに急かされるようにして、膝の上のハンドバッグを引っ掴んだあたしは大慌てで車輛から転び出た。

 大喜利カフェなる謎のお店があるのは、渋谷駅から歩いて十五分ほどの場所だという。あたしたち三人は渋谷駅屈指の待ち合わせスポットである、『地球のうえにあそぶ こどもたち』の銅像前で集合した。

「いや、どこが屈指なんですのよ!」

 到着早々、令がご立腹だった。

「絶対、ハチ公前とか、モヤイ像の方が渋谷屈指の待ち合わせスポットですわよ! なんですの、『地球のうえにあそぶ こどもたち』て! 場所分からなくてわざわざ検索しましたわよ!」

 待ち合わせ場所を指定したのはあたしだった。当日朝になってLINEグループに『渋谷のどこに集まりますの?』と令から投稿が来たので、『地球のうえにあそぶ こどもたちの前』と返した。名前の通り、地球の上で子供達が遊んでいる像のことだ。ちなみにこの銅像は、ハチ公像のすぐ横にある。

「だったらハチ公前でよろしいじゃありませんの! わたくし全然見つからなくって、変にウロウロ歩き回ってしまいましたわよ!」

「…………私、も……聞いたこと、無かったから……。……勝手に、……井の頭線の方かと……」

 文代は井の頭線方面にどのようなイメージをもってたんだろうか。

 どうやら待ち合わせ場所を指定したあたしが、最後の到着だったらしい。お店の場所を知っている文代が自然と先頭に立って歩き出す。

 今日も今日とて文代は黒い。シンプルな黒のブラウスに、気に入っているのかよく見る濃いグレーのロング丈のスカート。なんかもうここまで来るとカジュアルな喪服としか表現のしようが無いのだけれど、今日は胸元にシルバーのネックレスチェーンをつけていた。まあ、多少はテンションがウキウキ状態なんだろう。たぶん。

 一方の令は青と白のチェック柄の爽やかなシャツに、濃紺のフレアスカート。純白のハンドバッグも合わさって、深窓のお嬢様がちょっと下界にお出かけ……みたいな可愛らしさのある服装である。……ゴツゴツと物々しい足音を立てる仰々しいブーツさえ無ければ、であるが。

 なんでこう、あたしの友人はどいつもこいつも、ファッションに一癖二癖噛まさないと気が済まないのか。ちなみにあたしは、ボーダー柄のティーシャツと、ジーンズである。超適当。近所のコンビニに行くときとレベルがまったく一緒の服装だった。

 あたしは前を行く文代の、背中の中程まで届く長い黒髪を見ながら、そういえばと思い声をかける。

「聞いてなかったんだけどさ。なんで、急に大喜利なわけ?」

「…………なんで……と、……いうと……?」

 文代がちらりと首を傾げるようにしてこちらを見た。長い前髪の隙間からちらちらと覗く瞳が、ちょっとだけ怖かったりする。

「や、まあ……なんでってわけでも、ないんだけどさ……」

 お笑いサークルに所属する私たちが、お笑いのお店に行ってみるのは当然じゃない? みたいな。そんな言い方は、やめてほしい。

 ……かつてのお笑いサークル初舞台での苦い思い出や、サークル内であたしだけが何もできていない引け目が、またしてもひょっこりと顔を覗かせる。駄目だよ、今は出てきちゃ駄目だ。今は、この子たちがいる前でだけは、引っ込んでておくれよ。

 ごくり、とちょっと不自然かもしれないくらいの音を立てて、唾を飲み込んだ。一緒にあたしの腹の中に抱える黒い感情も、心の奥底へとしまい込む。大丈夫、大丈夫。あたしはまだ大丈夫だ。

 あたしが文代に何も返せずにいると、令が横から会話に入り込んできた。

「なんでも今日はその大喜利カフェで、初心者歓迎会みたいなイベントをやってみるらしいんですのよ。ね?」

「……うん……そう……なの、よ……。初心者歓迎会、大喜利会……?」

「へえ。初心者歓迎会大喜利会、ね……」

 人生初めての、正真正銘初心者だった状態でやらされた大喜利が悪夢の洗礼だったあたしには、その字面はどうしても空々しく聞こえてしまう。

 行きたくねえなあ。

 重たい足取りで歩くあたしは、自然と二人から距離をとるように離れていく。二人はあたしが遅れているのにも気がつかずに、どんどん先に行ってしまう。

 ……このままあたしだけ人ごみに紛れて消えてしまったら、あの二人はどんな顔をするだろう。

 少しだけ離れた後ろをついて歩きながら、あたしはまた性格悪いことを考えているな、と思った。

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