25.十月九日、午前

 昼の十一時半、来客を告げるベルが鳴った。古びて軋んだチャイムにベッドから起きる。浅い二度寝に寝ぼけた頭は、いつもの安蘭ならベルを鳴らさず入ってくる事を失念していた。

「やぁこんにち、は」

 安蘭だと信じ切った挨拶が萎む。高そうなジャケット。

 そこにいたのは安蘭の夫、酒匂 洸だった。

「少々お時間頂いてもよろしいでしょうか」

 丁寧な口調ながら、有無を言わせぬ重圧。僕はどうしようもなく酒匂青年を家に上げた。

 この家に引っ越して二人目の来客。緊張し、パジャマ兼普段着なシャツの裾を伸ばす。とりあえず僕が手首を切る椅子に、いつも安蘭がいる椅子に座ってもらう。孤独な僕の部屋に誰かと向かい合って話せる机などない。

 僕は安蘭の見よう見まねで紅茶を淹れ始めた。綿の潰れた椅子から酒匂青年が僕を見ている。

「その紅茶、安蘭の物だな」

 玄関先の慇懃は何処へか消え、威圧的な見下した口調になっていた。緊張と恐怖が勝って、怒りなど湧かない。僕は四角い缶から茶葉をすくいながら応える。

「あ、はい。ポットもカップも全部、安蘭が何処からか持ってきました」

 言った直後「何処からか」は余分だったなと後悔した。持ってくるあてなど、新しく買うか、彼女の家からの二つだけではないか。かつてこの純白のカップは、ペアのカップは、彼と安蘭が使っていた物なのかもしれない。湯を注ぐ手が震えた。

 砂時計が落ち切り、カップは温み、紅茶は蜂蜜色になる。僕はカップのぬるま湯を捨て、茶を注いで、片方を酒匂青年の脇の机へ、他方をベッドの上に置いた。紅茶が零れぬようそっとベッドに腰かける。緊張で息が苦しくなってきた。

 いつも安蘭と過ごす距離に酒匂青年が居る。酒匂青年は茶も飲まずしばらく腕を組んで黙っていた。僕も紅茶を飲むでもなく口へ近づけては嗅いで戻して、必死に呼吸を落ちつけていた。安蘭が淹れた時と違い、紅茶はろくな香りがしない。

「安蘭は楽しそうだな」

 酒匂青年が言った。非常に不服そうに。僕は黙っていた。

「安蘭から聞いた。安蘭の作品は全てお前だと」

 僕はやはり黙っていた。まだ酒匂青年が何をしに来たか分からない。殺意の気配を見せたら逃げよう、そう提案するみたいに、脚が落ち着かない。貧乏揺すりをしたくなる。

「安蘭は家出の多い子だった。よく行先も告げずいなくなった。俺が探しに行き、見つけると笑顔だったから、てっきり俺に探されるのを喜んでいるとばかり思っていたが……お前に逢いに行っていたそうだな。あの笑顔は、俺が来たからじゃなく、お前と過ごした余韻だと」

「僕は彼女に見られていた事、気付いていませんでした」

「知っている」

 酒匂青年は吐き捨てた。僕は再び口をつぐむ。僕の怯えで話を遮られ、不機嫌が増したと分かった。

 過去語りを切り上げ、酒匂青年は鋭い語気で問う。

「お前は安蘭の何なんだ? 安蘭はお前の何なんだ?」

 威圧の向こうに一匙の、懇願に似た、ねじ切れそうな混迷を見た。

 僕は、黙っていた。

「安蘭は俺を好いていると信じているし、安蘭もそう言う。なら安蘭がお前に向ける執着は何だ? あれだけ犯罪まがいの拘束を受けていながら、何故お前は安蘭を拒絶しない? 安蘭のクリエイティブを刺激するのは何故だ? どうして俺にはできずお前にできる?」

 矢継ぎ早に投げかけられる問い。僕はいずれへの解も知らなかった。分からなかった。凍った思考の片隅で、そろそろ紅茶が冷えてくるな、なんて無色透明の思いつきだけが浮かんだ。

 いつまで経っても硬直している僕に、酒匂青年は溜め息した。

 呆れるといい。僕は愚かだ。ここに居たって無駄だから、早く独りにしてくれ。ここは豪華な名刺や高級車を持っているような、華やかで明るい世界の人間が来る場所じゃない。

 僕は一刻も早く墓に静寂が戻る事だけを望んでいた。

「失礼する」

 酒匂青年は席を立った。僕はその足元を見つめたままでいた。きちんとプレスされたスラックスの折線が揺れている。靴を履き、ドアノブに手をかけ、酒匂青年は奇妙な捨て台詞を置いた。

「この部屋は安蘭の香りがするな」

 古びたドアが開き、閉まった。

 遠ざかる足音。

 墓の空気を嗅いでみた。酒匂青年の香水の残り香、自分に塗られた薬の異臭。その二つしか分からなかった。そも、安蘭の香りなど、気にした事もなかった。彼女が普段どんな香りを放っているかも知らない。

 数分考え込んでいると、不意に扉が開いた。

 安蘭だ。赤いストールが踊り、二つの紅茶に首を傾げる。僕は言う。

「酒匂 洸さんが来ていたよ」

 ――僕は安蘭の何なんだ?

 どれほど、どれほどまでに、酒匂青年の問いを彼女に投げかけてやろうかと思ったか。でも何故だろう、聞いてはいけない気がした。尋ねれば安蘭に、墓で咲いた曼珠沙華に、何か起こってしまいそうで。

 喉に詰まった何かを紅茶で飲み下す。安蘭はそんな僕を見て再び首を傾げる。

「何の用だったのかしら」

「……安蘭は楽しそうだ、と言っていたよ」

「ちがいないわ。私は楽しい」

 安蘭は微笑んで、手の付けられなかった紅茶の脇へ、惣菜屋のビニール袋を置いた。いつもと変わらぬその仕草には欠片の気まずさも見当たらない。

 その瞬間、僕は心のどこかで、これは不倫なんじゃないかと疑う自分に気付いた。一度は跳ね退けたはずの、安蘭との関係が恋愛に類されるのではという、熱を持った悪寒がそこに在った。

「休学手続はそんなに緊張するもの?」

 サラダを冷蔵庫に入れながら、安蘭はあっけらかんと問うた。そういえば送迎をお願いしていたのだった。


 昼食を済ませ、安蘭に大学まで乗せて行ってもらった。

「午後はひとつだけ講義があるの。おわったら迎えにいくから、時間をつぶしていて」

 赤いストールと黒のスカートが遠ざかる。僕はそれをぼんやり見送り、事務室へ歩いて行った。

 一カ月ぶりの大学だ。最後に来た日、大学中に溢れていた夏の真緑は褪せ、小さな秋に侵されていた。いつ雨が降ったのか、どこもかしこも濡れている。枯死した生垣を回りこむ。建物へ入ると、自動ドアの内側にも枯葉が数枚吹きこんでいた。

 僕は事務室に赴き、窓口で言う。

「休学手続をしに来たのですが」

 淡々々とした事務員の指示に従い、僕の所属と名前を書き込んでいく。陽石 故。陽石 故。僕の名前は「故」だ。この名を誰が付けたのか知らないが、早く故人になって欲しかったのだろう。生憎とまた本当の墓に入りそびれた。

 僕は事務員以上に平坦な態度で手続きを済ませた。

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