8.八月二十六日、昼

 安蘭の表情を忘れたくて黙々と働いた。講義にも驚くくらい集中した。

 それでも安蘭からメールが来ていた。休み時間や、バイトのない午後に。やはり彼女は僕の余暇を把握している。しかし文章の末尾に『断ってもいいからね』の一言が添えられていた。常識離れした彼女にも慈悲くらいは有るらしい。僕はお言葉に甘え、全て断らせて頂く。


 メールの送信済み画面を見つめながら考える。このまま断り続ければ上手く離れられるだろうか。

 講義とバイトの合間、教授に呼び出され、廊下のベンチで時間を潰しながら黙考する。

 嫌な予感がしていた。ライトノベルの導入に、重大な叙述トラップを見落としている。そんな気分だ。自分の置かれた状況を何度も反芻しては唸るが、見えてこない。

 ベンチから仰ぐ空は曇天。やがて思考まで曇っていく。

 ふと、廊下の向こうから一人で歩いてくる千葉さんが見えた。

 安蘭のことを千葉さんに相談してみようと思い立った。半分以上ただ千葉さんと話すきっかけが欲しかっただけだが、そこは気付かぬふりをする。

 僕は千葉さんの方を見、片手を上げた。それだけで指先が震えている。千葉さんはにっこり笑って手を振りかえしてくれた。

「久しぶり」

 三年になり、選択科目が増え、千葉さんと同じ教室にいる日も随分少なくなった。

「も、もし時間あったら話聞いてもらえませんか?」

 少しどもってしまった。

「どうしたの?」

「ちょっと、困ったことが。女性のことは女性に相談した方がいいのかなと」

「女性……?」

 千葉さんはふわりと僕の前を通り、隣に座った。メイプルシロップに似た香水が舞う。それをくすぐったく感じながら、僕は必死に呼吸を整えていた。

 千葉さんが問う。

「どうしたの?」

「いや、その、実は。えっと。酒匂さかわ 安蘭あらんって人を知ってます?」

「そりゃあ知ってるわよ。語学科のでしょ? 有名人だもの」

 そうなんだ。

 学科にそれらしい友達も居ず、サークルにも所属していない僕はこの手の噂に疎い。

 僕は何度も舌を噛みながら安蘭の話をした。かなり話が前後してしまったが、それでも千葉さんはちゃんと相槌を打ってくれた。話の途中で、千葉さんが思いのほか近くに座っていることに気付き、全身が固くなった。手と手が触れそうな距離にある。

 そんなふうでも、千葉さんが誰より話しやすい。

 男と居ると、引け目を感じてしまう。引け目、と言うより、劣等感だ。自分の肌のこと、身長のこと、顔のこと、髪型や服のこと、何もかもが恥ずかしい。馬鹿にされるのではと全身が緊張してしまう。ろくな言葉が出てこない。

 女性と居ると、恐怖を感じてしまう。何の魅力もない自分を無下に扱うつもりなんじゃないかと。攻撃したり、搾取するつもりなんじゃないかと。目線や表情の裏側を探ってしまい、気が休まらない。

 それに比べて千葉さんの前の自分は、どれだけ自然で居るだろう。千葉さんは優しい。僕を蔑まない。僕を一人の男として扱ってくれる。

 千葉さんが手を振りながら去っていく。真摯な相槌を貰っただけで何も進展しなかったが、それでも僕は満足だった。

 僕が安蘭ではなく千葉さんの恩人だったらどんなに良かっただろうか。

 時計を見ると、約束の時間を過ぎてしまっていた。慌てて教授の部屋に転がり込む。

 教授は苛立ちを隠しもせずに待っていた。

「陽石さん、きみねぇ、これなんだけれど」

 教授が持っているのは僕のレポートだ。再提出の要求かと思い、先手を打って謝る。

「いやいや、そうじゃなくてさ。まだ解答はチェックしてないよ。だって読めないもん」

 机に置かれたレポートは、ルーズリーフにボールペンで書きなぐってある。僕は字が上手ではないし、バイトの合間に急いで書いた。それは確かだけれど。

「他の子みたいにさ、パソコンでできない? こんな字読んでたら日が暮れちゃうんだよ」

 そういうことか。僕は俯く。

「……パソコンを持っていないんです」

「なんで?」

 なんでも何も買えないからだ。

 答えない僕に、教授は溜め息を吐く。

「ご両親に頼んでさ、買ってもらいなさい。ノートなら、そんなに高いものじゃないでしょ? これから統計処理とかで複雑な関数をいじることになるし、手計算じゃどうにもなくなるから」

 もうすでに関数電卓一個ではどうにもならなくなっている。グラフも歪んでしまっている。参考書も買っていないから、講義についていくのがやっとだ。今年は留年するかもしれない。

 一応、大学の図書館になら、誰でも使えるパソコンがある。でも、そんな所に引きこもっている暇はない。バイトに行かないと来月の食事が買えない。電気や水道の代金が払えない。

「ご両親だって陽石さんに勉強がんばってほしいはずだから、きちんと頭下げて頼みなさい」

 余計なお世話だ。

 両親は、僕を大学に行かせたくなかった。本当は高校にだって行かせたくなかった。僕は家出同然に進学したのだ。

 あのゴミ溜めから飛び出し、やっと手に入れた自由。それをパソコン一台のため危険にさらしたくないし、下手すれば僕の方が親よりずっと金持ちなのだ。

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