6.八月二十二日、午前

「うめぇ」

 思わず独り言が漏れる。コンビニ前の車止めに腰かけ、僕は唐揚げを頬張っていた。

 あの女性、安蘭に貰った大金で、僕は久しぶりにまともな朝食をとっている。おにぎり二つと唐揚げ。炭水化物以外を味わえたのが嬉しかった。ここ数日、働く男の体で菓子パン一つは正直かなり辛かった。おにぎりではなく菓子パンなのは、単位円あたりのカロリーが多く腹持ち良いからだ。

 バイトと講義の前に皮膚科へ行った。アトピーと汗疹であちこち爛れ、かゆむ肌を診てもらいに。

 平日昼の病院には老人しかいない。どう贔屓目に見ても僕が一番若かった。世間話に興じるも押し黙るも誰も彼もが疲れた顔だ。

 持て余した時間を身体のメンテナンスだけで埋めていくのはどんな気分だろう。自分の未来を、それも五十年も後ではなく下手したら十数年後の姿を見たくなくて、僕は始終俯いていた。俯いたら俯いたで日に日に荒れていく自分の手と、体液が滲んだボトムスが見えた。意識の底を恐れが這ってゆく。

 診察を終えるといつもの薬を処方された。アトピーは基本、治らない。今こそ軽症だが、僕は一生この脆い表皮に包まれる運命だ。そして薬を買い続ける運命だ。両親は仕送りをくれない。僕は奨学金を学費に充て、全ての生活費と医療費をバイトで稼いでいる。

 体調が悪くても金が足りず病院にかかれないこと、何度もあった。給料日までの我慢大会を今後も繰り返すのだろう。肌はまだ良い。しかし喘息が酷くなったら。そんな不穏に苛みながらも、今日は所持金不足に怯えないで済むのが救いだった。




 コンビニバイトの合間、氏井を休憩室に引き込む。

「まぁ座れよ。これは僕からの奢りだ」

「賞味期限切れで廃棄処分になったジュースじゃないっすか」

 氏井はもごもごと言う。そしてタピオカ・ココナッツミルクに太いストローを立て、マスクの隙間から飲み始めた。

 彼はいつもマスクをしている。外したのを見たことが無い。

 彼は僕のただ一人の友達だ。そう、唯一と言って遜色ない。一緒に遊びに行くとか、互いの家に上がることもないが、それでも休憩時間を談笑して過ごす仲だった。僕にはそれで十二分だった。

 彼のマスクにどんな意味があるかは知らない。もしかしたら僕と同じで大きな痣でも有るんじゃないかと踏んでいる。だからこうして僕と仲良くしてくれるのではないかと。整ったアーモンド形の目が僕を見る。

「で、どうしたんすか」

 僕は謎の女性、安蘭の事をかいつまんで話した。廻るのを見ていたら手を握られ、万札を握らされ、熱中症を救われ、モデルにされたこと。安蘭の外見や態度、興信所で僕を調査済みなこと。

 氏井はタピオカドリンクを吸いながら聞き、ストローを咥えたままこう感想した。

「それ何てラノベっすか?」

 ライトノベル。確かに、突然美女と親密になるのはライトノベルのお約束だ。その美女が才媛だったり金持ちだったりするのも。

「でも残念ながら現実なんだよ」

「本当に残念ですね。現実とラノベの区別がつかなくなったなんて」

 僕は手を伸ばし、タピオカドリンクのカップを握りつぶす。氏井はぶごぉとミルクを噴いた。

「げ、現実だとすれば、詐欺の類じゃないっすか」

 氏井がむせこみながら訂正する。

 正直なところ僕もそう思っていた。キャッチセールスとかデート商法って言葉を知らない訳じゃない。

 食事しながら話せばお金を貰えるなんて、こんな楽なバイトはない。でもだからこそ大きな落とし穴がありそうで、いや、あると確信できた。

 安蘭との関係は断とう。はっきり言うと角が立つから、忙しさを盾に誘いを断り続ける。

 万札の残影が脳裏にチラつく。この、金への未練をあと何度かの会合で振り払おう。もしかしたら急に金払いが悪くなったり、変な勧誘を始めたり、僕の決心を固くする出来事があるのではと期待すらしていた。

 噂をすれば何とやら。震えるガラパゴス携帯。安蘭からティータイムの誘いだ。僕は了承のメールを打つ。心を張り詰め、拒絶の姿勢を整える。バイトと講義が済んだら病院で貰った薬を塗り直し、手もぬるぬるにしてしまおう。

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