2.八月二十一日、午前

 遠くの国道、夜と僕を仕切るカーテンの向こうで、クラクションの音がする。

 酒臭い息で僕は荒んでいた。

 微睡みの中で、宴の騒音、酒に澱んだ空気、顔を赤らめる級友たちの残影に苦しんだ。僕は酒に強い。味は好きだがどれほど飲んでも酔えない。楽しくならない。僕だけ淡々としたまま周囲の理性が崩れていく。呑み会は地獄絵図だ。それでも断れば角が立つからと毎回必ず出席していた。

 隅の席に座って僕は全部見ていた。嘔吐も失禁も。剥げていく愛想の仮面、溜めていた憎しみで掴みあう二人も。恋人同士でもないのに触れあう男女も。何組か物陰に消えたり、途中でいなくなったりした。

 それに、あいつも。喫茶店に勤めているからって、業務用スマイル向けやがって。仲良く話す気ないのが丸見えだ。意味深な目配せで僕を笑いものにしやがって。僕を蔑むためだけに話しかけに来やがって。

 酔余のダウナーが凄惨を研ぎ澄ませる。

 夜明けを迎えた頃、我慢が限界になった。僕は歯ぎしりしながらデスクに向かう。カッターナイフを取り出す。

 右手にカッターナイフを握る。左手首を晒す。

 僕は逆手の刃を振り下ろす。

 がりりと切っ先が皮膚を引き裂く。同時に全身を電撃が走った。

 苦痛とも快楽とも言えぬそれに身を委ね、朦朧となるまま意識を揺らす。

 やがて視界が明瞭となり、鈍い痛みを感じ始めた。

 遅れて息が上がってくる。

 手首を見ると、真一文字の傷から血が垂れている。別世界の出来事みたいに現実感がない。僕はティッシュを取り、手首を押さえた。どれくらいで止まるかは感覚で知っている。

 血が止まるとティッシュをゴミ箱に放り込んだ。カッターを安全刃切器に差し込む。金属音を立て、血染めの刃先が落ちていった。不透明で見えないが、この器には同じように血で汚れた刃が沢山積もっている。

「ふう」

 僕は大きく溜め息し、椅子にもたれた。骨組みが軋んだ。快楽の後の気だるさ。熱が遠のく感じ。まだ戻らない現実。呆けた頭で僕は墓を眺める。

 僕は自分の部屋を墓と呼んでいる。最奥のここは四畳半の納骨室だ。僕はおそらく一生この部屋で孤独に過ごし、そして死んでいく。人々から忘れ去られていく。

 僕の部屋を訪ねる者はいない。部屋の前までなら宅急便屋が来る。それもまた、寺の手入れしか来ない孤独死の墓みたいに思えた。郵便受けに差しこまれるのは何の愛もない、思い入れもない、仕事だから活ける仏花みたいな広告だけだ。納骨室は誰の目にも触れない。少ない生活費を崩して買うライトノベルが床に積まれている。表紙の美少女の笑顔が、錆びたベッドの周りを覆っていく。

 救急車の音がする。助けを呼んでくれる誰かが傍に居る、幸福な人を救いに走る。ドプラ効果で歪みながら遠のく。

 改めて手首を見た。傷は乾きはじめていた。傷の前後には、平行に無数の傷痕がある。赤く平行に、何十あるだろう。数えきれない。肘の方まで連なっている。

 数日に一回は切っている。なぜ切るか聞かれても困る。切りたいから切るのだ。切ると落ち着くから切るのだ。趣味とも違う。

 僕は立ち上がり、窓際のハンガーから長袖シャツを引き剥がす。パジャマ代わりのシャツを脱ぐ。露わになるのは骨と皮、しかも所々アトピーで爛れたり荒れたりの胴だ。これだけ傷だらけなのだから今更カッターで増やしたって些細だろう。そんな主張が世間に通るはずもなく、僕は縞模様の腕を長袖で隠す。伸びた袖口から僅かだけ傷が覗く。

 髭を剃る為にキッチンへ。錆びた鏡に、顔の半分を痣に覆われた男が映る。僕。髭が残りの半分にしか生えないから作業こそ楽だが、乾燥肌はカミソリ負けしやすい。もう数年は替えていない刃が、僕の顎と首筋を削った。

 新聞配達のバイトへ出る前に、財布の中身を数える。今日を生き抜く為の儀式であり、癖である。小銭が少しと千円札が一枚。溜め息も出ない。

 結局僕は呑み代を、赤い女性に握らされた万札で払った。そこで幹事が前回の飲み代が足りなかったのを思い出し、残りも全て持っていかれてしまった。残念だったが、それ以上に、もしあの万札が無ければどうなっていたことか……。

 僕は財布を置き、リップクリームを取った。あと数日我慢すれば給料日だ。そしたらライトノベルの新作もご飯も買えるし病院にも行ける。喘息の発作止めが切れて久しいが、夏は発作が起こりにくいから大丈夫だろう。それより汗で荒れた肌に塗る薬が欲しかった。アトピー体質は汗疹になりやすくて困る。人前で袋を掻くほど太い神経はしていない。

 それまで残り千数百円をどう割り振るか。賄いのあるバイトはいつだっけ。考えていたら手元が狂い、リップクリームを齧ってしまった。メンソールと油の粘りに唾を吐く。ついでに溜め息も吐き、歯型の残ったクリームに蓋をした。

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