終わるセカイの過ごし方 ~終末にはすてきなシネマを~

蒼蟲夕也

プロローグ

プロローグ

 よた、よた、と。

 男が一人、歩いていた。


 その足取りは覚束ず。両手はだらんと垂れ、目はうつろ。

 肌は全体的に青白く、乾き、ひび割れ、どす黒くうっ血している。

 髪はほとんど抜け落ちており、服もこの二十年間、着たきりになっていた。故に、服と呼べるか怪しいほどにボロい。


 今、彼の者を“男”と表現したが、正確には少し違う。

 この存在はもはや、男でなく、女でもない。

 死者、である。

 あるいは、ホラー映画的に”ゾンビ”とでも呼ぶべきだろうか。


 彼の者は、ずいぶん長い時間、森の奥の小さな洞穴に隠れて過ごしていた。

 雨をしのぎ。

 風をしのぎ。

 ただただ、その時・・・を待ち続けていた。

 彼の者の遺伝子に刻まれた命令は、ただひとつ。

 人を喰らうこと。

 血をすすり、喉を潤すこと。

 そうして、仲間を増やすこと。

 それだけだった。

 食欲と繁殖欲だけが、その者の存在意義の全てであった。

 人間だった頃に持ち合わせていた感情は、ほとんど凍りついてしまっている。


 そして、今。

 彼の者は、久方ぶりに立ち上がり、前へと進んでいた。

 獲物の気配を察知したためだ。


「こおお……」


 かすれた声帯が発するのは、風が吹き抜けるような無様な音のみ。

 それはどこか、泣いているようにも見える。


「おお、こおぉ……おおおおおおお……っ」


 道中、枝葉に身体が当たって、すでに傷んでいた肉の一部が、大きく欠損した。

 だが、彼の者は平気だった。

 喜びも、悲しみも、痛みも、――ずいぶん遠い昔に置き忘れてきたものだ。


「お、…………おぉおおおおおおお」


 草陰から、ゆっくりと姿を現す。

 同時に。


――どぉーんっ!


 彼の者の身体が、宙空へと跳ね上げられた。

 猛烈なスピードで走る車に、正面から轢かれたためだ。


「あれ、なんか当たりマシタ?」

「さー? どーせ“ゾンビ”さんじゃない」

「ならいーんデスけど」


 それでもなお、彼の者は健在だった。

 恐るべき執念、とでも言うべきか。単なる偶然、とでも言うべきか。

 車の屋根に引っかかった指先が、地面に叩きつけられ、バラバラになるはずだった彼の者の四肢をかろうじて救ったのだ。

 だがその奇跡も、まもなく効力を失うだろう。

 がくがくと上下に揺れる車体と、猛烈な向かい風が、彼の者の肉体を遠く明後日の方向へ吹き飛ばそうとしていたのだ。


「おおぉ……、おおおおおお……」


 それでも、彼の者は不幸でなかった。惨めですらなかった。

 ただ、――これでようやく終わるのだという、事実だけがあった。


「おお……、おおおおおおおおおおおおおおおおっ」

「……なんか、うるさくなーい?」

「あっ、あっ、ああああっ。カ、カントク! く、くく、車の屋根になんか乗っかってます! ぶらんぶらんしてますっ!」

「あらら。……ほら、ジョカン。出番よ」

「む。俺がやるのか?」

「助監督でしょ?」


 深い嘆息が聞こえた後、ウィーン、と、モーター機構が働く。

 そして、車の窓から一人の少年が顔を出した。

 その手には、一丁の黒光りする銃。


「おお……おおおおおお……」


 彼の者は、末期となる唸り声を吐き出す。

 そして、真っ直ぐに手を差し出した。救いを求めるように。

 少年は自嘲気味に笑って、


「――ごめんな」


 かくて彼の者の頭蓋は、粉々に粉砕される。

 それはひどく凄惨な光景だったが。

 最近では、珍しくもなかった。



 ”地獄の釜の蓋が開いた日”。

 ”運命の日”。

 あるいはもっと単純に、”終末”。


 今から二十年前。

 最初に異変が起こった日のことは、そういう風に呼ばれている。

 その後に起こったあれやこれやは、まるであらゆるフィクションで予見された”終末もの”の様相を呈していた。


 死者が起き上がって、人を食らい始めたり、とか。

 馬鹿でかい怪獣が暴れ回ったり、とか。

 未知の病気、とか。

 暴走したコンピューターによる、核ミサイルの誤射、とか。

 恐ろしく敵対的な新種の生命体が生まれたり、とか。


 そういった出来事が一斉に起こって、人類はあっという間にその数を減らしてしまう。

 結果、どれほどの人命が犠牲になったか。

 その正確な数は、現代に到ってもわかっていない。

 六十億、あるいは、七十億。当時の世界人口における、およそ九割以上。

 数字だけを聞くと、まるでタチの悪い冗談のようだが。


 それも、――単なる統計上の数字に過ぎなくなって久しい。

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