第39話 終章・後編

 愛しい。溢れて身体がどうにかなってしまいそうだ。

 そうでなくても熱い疼きは体内で育ったまま成長を辞めないと言うのに。

 レクシアはドレスの採寸を済ませると、飾り気のない自室に戻った。

 ほぼ半裸の白い魔装。ルフィアから渡された鮮やかな仮面を顔に当ててみる。

 鏡に映っているのは深紅の仮面で顔を半分隠した女だ。

 もう片目も蝶のような目隠しで覆われている。

「この私が艶めいて見えるとはな」

 仮面をテーブルの上に置いた。

 派手であればあるほど私の顔など誰も覚えはしない。ルフィアの言だ。

 唇に紅を引く。

 再び仮面を当てる。

「淫蕩そうに見えるな。これでいい」

 金と銀をあしらった黒のドレスだと言う。合一などどこにもない。

 話しかけられたくなければ少し遅れて入ること。

 立ったまま飲み食いすればいい。

――これで夜までは何も予定を入れられない。

 ベッドに倒れて、天井を見る。

 この間は舞踏会と言っていた。何をすればいいのか見当もつかない。そう断った。

 今日とは違ってあっさりと断りを認めた。

 簡素だが広い部屋には木の人型がある。高さはややレクシアより上。堅牢な作り。

 跳ね起きたレクシアは樫の棒を床から拾うと、人型に正対する。半身に変わる。

 汗をかいて水浴びをしてからでも間に合うだろう。

 そう思っての事だ。

 樫の棒を人型に繰り出す。乾いた衝撃音が響く。

 刺突を繰り返しては間合いを開ける。

 心臓への一撃。ほんの僅かな狂いでも気に成る。

「幻像を見せよ」

 人型の足元には魔晶が赤く光っている。

 今にも斬りかかって来そうな帝国の歩兵が人型の位置に現れる。

 斬られれば痛みもある。侮りはしない。

 急所を突けば、また次の者が現れる。

 実際の訓練からすれば子供騙しだが、そんなものが有ったら便利だと言ったその日にルフィアが作った。

 女王というよりは研究者なのだ。付き合ううちにそう信じるように成っていた。

 兵士、ゴブリン、オークと戦った。

 冒険者として、剣術の腕は鈍ってはいるが修正の範囲内だ。

 もう一度。幾度となく動きを意識して自分の狂いを直していく。

「望めば何にでも変わるわ」

 女王の言葉を思い出す。つくづく才能が違うと思い知らされる。

 こんなものの作り方は想像も付かない。

 会議所の公式認定ではレクシアはまだレベル5だ。ポテンシャルは8から変わらない。

 5でさえ飛び級も著しいと驚かれるのに8を名乗るのはおこがましいだろう。

「誰でも、か」

「イートスを」

 そう言ってから後悔した。

「あ……あっ」

 膝に力が入らない。幻像の前に座り込む。

 突けば血が噴き出る。苦痛に顔が歪む。忌まわしい樫の棒を床に置いた。

 幻像は微笑しているように見えた。

 鍵は閉まっている。外に気配はない。

 腰のあたりにしがみついて、涙が溢れるままに嗚咽した。

「私を……」

 顔が紅潮するのが分る。

 イートスの顔を見上げて歎願するように言った。

「もう一度、食べてくれ」

 言っただけで下腹部の熱が抑えきれなくなる。

「罪だとは知っている。だが、もう、耐えられない」

 下着に指を入れた。どうするのかは知っている。熟知している。

 次第に背が反り返る。舌が空気を求めるかのように突き出る。

「許して……許して、んっ」

 晩餐会など頭から消えていた。


 それでも深紅の仮面は付けた。

 水を浴びても顔の赤みは取れていない。

 目の周りの腫れは蝶が隠す。泣き過ぎたせいだ。

 断わろうかとも思った。

 強情そうな女官が

「でも来て下さらないと、とルフィア様の仰せです」。

 そう部屋の前で粘った。

 鏡の前で唇にだけ紅を引いた。

 食事ですぐに消えるだろうけれども。

 絶頂のすぐ後に人に会う。

 既に荒い息のまま、ドレスを届けに来た男とは会った。戸惑った顔だった。

 そうだろうとも。あんな顔は見たことが無いだろう。

 手に入れたドレスは黒。イートスの色。金と銀で華やかだ。

 どうやってあっという間に仕立て上げたのか、など聞く必要もない。

 ここは魔法の心臓部だ。

「構わん」

 人で溢れる会場を思った。心臓の鼓動を抑える。

「所詮、生き恥を晒している裏切者だからな」

 部屋の木偶はイートスのままにしてあった。

「行って来る」

 木偶に声をかけた。

 気恥ずかしい。

「オークに変えろ」。

 そう言った。

 部屋を出て赤い絨毯を踏む。

 宮殿のようであって、工場のようであって、図書館のようであって、迷宮のようだ。

 機能美がそうしたのは分かる。

 ルフィアは徹底している。自分らしく、など瞬く程にも考えないだろう。

 ただそうしたいから無駄がどこにもなく、無駄なものしかない。

 陰鬱な霧の呪縛からはとうに逃れた。

 階段を走って上がる。

 どこまでも赤い。赤い。果てしなく赤い。

 食堂。そう書かれた部屋のドアをノックする。

「お待ちしておりました」

 媚は無くかつ美しい、給仕らしい女がドアを開ける。

 一見して信じがたい。

 食堂?

 果てしないように広くすることは魔法的に可能だ。

 だが無限のように広いものを目視するのはまるで経験として違う。

 真っ赤な絨毯がはるか遠くのテーブルまで続いている。

 無限遠にルフィアが居る。

 だが見える。視覚が狂う。

 雑踏を、来賓を想像していた自分を悔いる。

「いらっしゃい」

 脳になのか、耳になのか、声が響いた。

 ルフィアの声だ。

「客人は招いていないの。社交に興味は無いのよ」

 震える足を運ぶ。

 ほんの数歩でテーブルの前に居る。

 加速感と停止感で感覚が狂う。

「どう? 魔法の実験はディナーの間にするのよ」

「悪趣味だよルフィア。初めての人にこんな」

 まだ若い冒険者らしい男が言う。

 若いが傷だらけの肌が経験を語る。

 セフィが手を振る。紹介を買って出たようだった。

「この子はルメル。合一は黒。ピンクの子がキリア。金がアリエラ」

「晩餐会なんて言うから緊張しちゃうんだよ?」

 キリアと呼ばれた獣人が早速肉を取り分ける。

 迫力が違う。

 ただの獣人ではない。

 何者だ?

「はっ。無限くらいで驚くような女かよ。連続殺人鬼だぜ? あ、どうも。アリエラだ。口が悪いと思ったら殴ってくれ」

 ぎらぎらと光る金。豊かな胸。

「ご友人と理解していいか。ルフィア」

「いつもの夕食なのよ。ごめんなさいね。これから夕食にはあなたを呼ぼうかと思って」

 ルフィアは満面の笑みだ。

「一人でいい。いつも厚遇には感謝している」

「暗殺者ってのはそういうもんか。ここに居るからって慣れ合う必要なんか一つもないんだぜ?」

 アリエラが火酒を呷る。

「お招きして、来ていただいたんです! 無礼は許しませんからね」

 セフィは怒っている。どう扱われてもいい。私は無名だ。誰でもない。

「まずは食事を。キリア、盛り過ぎないようにね」

 ルフィアがてきぱきと指示する。居並ぶ給仕も急に動きが早くなる。

「最初ですから。食べ切れないくらいで丁度いいでしょ?」

 キリア、と呼ばれた女が皿を置く。

 食べ切れないくらいの肉だ。

「キリア。言っとくけどよ。会議所上がりはこれだからな。最初は手厚く。気が付けば手元にゃ何にもない。会議所に巻き上げられて終わりだ。だよな? キリア」

「アリエラ。飲み過ぎですよ」

 静かにルフィアが諫める。

「レクシアと申します。どうぞお見知りおきを」

 一礼して席に着く。奥のルフィアの正反対の位置だった。

「どうだい殺し屋は。あたしも混ぜて欲しくてさ」

 金が眩しい。豊かな胸元が弾けそうだ。

「アリエラ。静かに飲めないのならば部屋で続きをどうぞ」

「へっ、このくらいで。いつもの事じゃねえかよ」

 ばさっ、と金の髪が流れた。

「僕は聞いておきたい事がある。アリエラの無礼で気を悪くする前にね」

「黙っとくよルメル。はいあたしはここに居ない」

「……何だ? ルメル、でいいか?」

「敬称は要らない」

 黒い瞳。黒い髪。黒が合一の鍵だった。

「僕は人を殺したことが、そうだな。どうしてもという場合を除いて一度もない。暗殺者というのはどういう……感じなんだろう」

 そんな事か。一流の冒険者でもそうなのか。

「黒き剣士というのが居た。その者に聞いて欲しい」

 スープの香りに惹かれて一口を匙で飲む。

 香辛料が食欲を刺激する。

 黒き剣士は五人の胴切りに始まり百は殺している。

 逸話に切りが無い。

「噂が間違いじゃなければそれは僕なんだ」

「……まさか」

 まだ童顔とさえ言える子供が? いや、体躯は確かに逞しい。

「ならば聞く必要もない、だろう? 殺した数は数百と聞く」

 そんなことがあり得る筈はない。

 歴戦の勇士を葬ったのがこの冒険者だと?

「あれは、試練みたいなものだったからね。ルフィアに頼まれなければやってないよ」

 志願するしかなかった自分と、頼まれただけの子供と。

 これが違いか。

「ルメル。話題を間違えたわね。貴方は知りたい事を無遠慮に聞きすぎるのよ」

「僕の配慮不足だ。済まない」

 これが魔法都市との違いだと? 殺戮の鬼と呼びさえした黒き剣士が、こんなものだと?

 生粋の冒険者との違いを肌で感じた。

 何もかもが違う。

「……食事はもうこれでいいか」

 喉を通る気がしない。

「あなたがそう望むのなら。どうぞ。ただし、プレゼントは渡せないわね」

「どういう事だ」

「蔵書を調べていたら有ったのよ。はい。これ。禁呪では最高の本よ?」

 テーブルに置かれた本は、正に買おうとしていたものだった。

「『蘇生』……」

 ルフィアの手元まで走って奪うように取った。目次をめくる。

「有る」

 確かに蘇生の項目がある。

「これを……いいのか?」

「じゃあ座って食事をして? いい?」

 誰が何を話したかも覚えてはいない。料理の味さえ霞んだ。

 手元の本の目次だけで魅せられる。

 勧められた妖精酒を飲んでいるうちに、自制の外れた話をしたかも知れない。

 全てのページが輝いて見える。

 一文字が私に刻印を押していく。

 煌くように思えた。

 黒き剣士が誰であろうと気にはならなくなった。

 魔法。

 魔法という麻薬。

 溶けていく意志。

 耐えられない甘美。

――気が付けば部屋に居た。

 禁呪の本を抱いていた。

 読み解く。必ず読み解く。使いこなして見せる。

 やっと。私の戦いだ。

「待っていろ。イートス。ほんの数歩だ」

 絶対に行使は禁止。どう書かれていようと知った事か。

 これが流布すれば世界が壊れる。だからどうした。

 ことさらに難解に書かれた「蘇生」の項を読み続けた。

 暗号にも近い。

 理解するには全文にまで目を通さなければならない。

 控えめに部屋に置かれる食事を摂るとき以外、私は本を読み続けた。

 本が私に問う。

 資質。足りない。

 経験。足りない。

 覚悟。

「それだけはある」

 七つの魔法陣を描き終えるまで十日かかった。

 全ての魔法がそうだが、必ず成功するわけではない。

 イートスの青い魔晶を受け取りに、ルフィアの部屋を訪れた。

「こんなに早く読み終えたの? 自信はある?」

 ルフィアは憂うようだった。

「著者に圧倒された。一見徒労のようでいて一切の無駄がない」

 褒める以外にあの禁書をどう評すればいい。

 いつの日か自分もあらん限りを尽くして書いてみたいとさえ思った。

「……立ち合いは? いつでもいいわよ」

 意地を張る積りは毛頭ない。結果が全てだ。

「頼みます」

「じゃあ、この部屋でも、貴女の部屋でも」

「……自室で」

 感情を乱す自分は容易に想像できる。

 女王の部屋でわめきたてる自分など見たくはない。

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