命も懸けれる願いごと *


 エルフィは木の幹を背に腰を下ろした。


 森は広大で数多の恵みに溢れているが、迷いやすく野生動物などの危険も多い。

 しかしエルフィはこの三年間で、森の中を庭のような感覚で歩けるまでになっていた。


 生えている植物、森の中の道しるべ、野生動物の縄張り。

 全てをエルフィは熟知している。


 冬の終わりと春の訪れを告げる森の中、小動物たちの姿を見ながらエルフィは考えた。


(ニールの願い。命を懸けてでも叶えたいこと)


 何となく、察しがついてはいる。

 けれどニールが言葉にしてくれるまでは、自分が言ってはいけないことだとも思う。

 シャーナと話した時は直接聞くしかないと覚悟を決められたが、一人になった途端、怖くなってエルフィは動けないでいた。


 目の前を巣穴から出てきたリスが数匹走り去っていく──親子だろうか。

 家族、というのは思えば、エルフィも良くは知らないものだ。


 実の両親と過ごしたのは物心ついてから数年の間だけだし、その後は散々だったし。

 今もエルフィは皆を家族のように思っているけれど、一般的なそれとはかけ離れている。


「家族って何だろう」


 エルフィは目の前の子リスに問い掛けて見たが、当然答えはない。

 答えがない事には取り敢えず、自分なりに正解を出すしかない。


 エルフィが竜士になることを望めば、ニールが拒絶することは分かりきっていた。

 それはニールの優しさから来る思いで、曲げることの出来ないこと。

 エルフィがニールの竜士になることを望むのは、もしかしたらとても残酷なことなのかも知れない。


 ニールの優しさを踏みにじる様な、それこそ彼の数万年の、人間に対する尊重を壊してしまうかもしれない。


 優しさ故に孤独を選ぶなんて、とても勇気がいる事なのに彼はやってのけたのだ。

 そんなひとの隣にいたいと思うなら、誇り高き聖竜の孤独を癒そうというのなら。


 エルフィは俯いて唇を噛むのはもう止めにしようと決心した。

 気合いを入れて、むんっと上を向く。


 森はとっくに春なのだ、雪溶けるなら今しかない。


 目の前に試練が現れた時、昔の自分なら立ち向かう事もせず諦めていたけれど。

 今は違う、少なくとも自分では違うと思う。


 ニールも頑固だけどエルフィだって負けてはいない、ここまで来たらやるしかない。

 

 きっと普通なら恋っていうのはもっと明るくて、心が弾むものなんだろうけれど。

 変わりもののエルフィは、まるで戦にでも行くかのような心持ちでいた。


 独りになんてしてやるものかと。


 初めて好きだと告げた時も、エルフィはニールに押して勝ったのだから。

 今回もそうするしかない、というかそれ以外の戦法を知らない。


 エルフィは、ぎゅっと胸に手を当てる。

 彼の本当の気持ちを教えてもらおう、言ってくれるまで、逃げずに戦おう。

 本で読んだことは正しかった、女の子は恋に命を賭けるのだ。

 そうやってエルフィが一人、森の中で気合いを入れていると、異変が起こる。


 賑やかに駆け回っていた小動物たちが、一斉に逃げ出したのだ。


 エルフィは驚いて目を丸くする、一体なにがあったというのか。

 しかしその疑問はすぐに近付いてきた気配によって晴らされる。


 この威圧感、この気配、この翼の音。


「ニール」


 呼び掛けると同時、目の前に白銀の竜が降り立った。

 まるでいつかみたいに、黒い瞳がこちらを見下ろてくる、それをエルフィは見返した。



 ***



「帰って来ないから、探した」

「……昔のわたしみたいなこと言いますね」


 告げた言葉に対する返答に、ニールは唸りながらその場に伏せた。

 木の幹に背を預けたエルフィはおかしそうに笑っている。


 ──確かに二年前、森で思い悩むニールの元へエルフィはやって来てくれた。

 帰って来ないからと半泣きで、あの日のことはニールも覚えている。

 過去に執着しない竜である自分が、思い出を懐かしむのは変だろうか。


「ニール、わたしの気持ちや言葉が迷惑だったら、言ってほしいんですけどね」


 エルフィは藍色の瞳で、ニールのことを穏やかに見つめて語り掛けてくる。

 その奥に覚悟の色が透けて見えて、押し負けそうな気がした。

 それでもニールだって、譲るわけにはいかないのだ、彼女を愛しく思えば思うほど。

 

「竜士がどういうものなのか、シャーナさんから聞きました、どうしたら成れるのかも」


 予想していた、いつか来ると思っていたのに恐れることしか出来なかった言葉が、今日発せられた。

 そこから先は知っている、彼女が何と言いたいかは分かる。

 だからニールは口を開いて先手を打った。


「駄目だ、それは出来ない」

「……ニール、お願いです。

 最後まで聞いてください」


 ニールが吐いた子どもみたいな言葉を、エルフィは宥めるように言う。

 彼女の声も少し震えている、怖いのだろうな、ニールも拒絶なんか本当はしたくない。


 この事態を恐れるというなら自分はきっと、二年前のこの森でこの子の想いを受け入れてはいけなかったのだ。

 だけどそれは出来なかった。


 四万年を超えて生きてきて、唯一自分を制御しきれなかった。

 せめてこの子が死ぬまでは傍にいたいと、そう思う自分を止められなかった。

 それ以上を何処かで求めてしまう自分はなんて罪深いのか。


「ニールはいつも、わたしを許してくれますよね」


 ニールの思考を遮ったのは、他でもない愛しい彼女の声だ。

 彼女は微笑みを浮かべて、その華奢な右腕をニールへ向かって伸ばす。


「我儘を言っても、駄々を捏ねても、いつもニールはわたしを優先してくれます」

「……きみのはその内に入らないだろう」


 否定する言葉を投げ掛ければ、彼女はそうでしょうかと笑いながら続けた。


「わたしは我儘ですよ、とても。

 ……今、考えてることだって、ニールが今まで重ねてきた覚悟を無駄にしちゃうかもしれない」


「でもね、わたしはどうしても。

 どうしても貴方に、これ以上孤独になって欲しくない、貴方を残して逝きたくはない」


 エルフィが立ち上がって、歩いてくる。

 彼女の海色の髪が、太陽を受けて煌めく時がニールは一番好きだ。

 この世でこんな綺麗な者が生きているなんて知らなかった。


 伸ばされた指が、慈しみを伴ってニールの鱗に触れる、いつも撫でてくれる顎をそっと、華奢な指が支える。

 そうして彼女は、彼に告げた。


「……わたしの一番の我儘、聞いてくれませんか。

 わたしを貴方の、竜士にして下さい」


 見下ろした藍色は真摯に、ニールだけを見つめていた。



 ***



 ニールは暫く、沈黙していた。

 エルフィは彼の言葉を辛抱強く待つ。

 やがて降ってくるのは、誰よりも彼女のことを想った優しいひとの声。


「不老不死は、辛いものだ。

 永遠とは呪いであり、回り続ける竜の命に人が付き合うものではない」


 聖竜は、優しく人を諭してくる。

 対する人は全力で首を横に振った。


 どちらが早く降参するかの戦いなのだ、エルフィは全く負ける気がしない。

 というか、負けたら、終わりだ。


「俺の為に、人としての自由を投げ出すべきではない。

 自ら呪われに行くような真似は辞めておくことだ。後悔することになる」


「もしそうだとしても、それは選んだわたしが負うべき責任で、貴方のものじゃない」


 頑固同士がお互いを想うばかりに、面を突き付け合って問答を重ねる。

 聖竜は瞳を細めて、エルフィに問うた。


「何故きみは、簡単に自由を諦める?」


「諦めたんじゃない、選んだんです。

 わたしだけが持てる自由の形を、わたしが欲しくても手に入れられなかったものを掴む為に……わたしは」

 

 エルフィはそっと、胸で握り込んでいた掌を開く。

 誰にも話さなかった過去、ニールが聞かないでいてくれた事。


「……誰かに望まれて生きて来なかった。

 お父さんとお母さんが死んじゃってから独りになって、辛くても誰も助けてくれなかった、死んじゃったら全部、何とかなるかなって思ってたことも、ある」


「全部どうでもよかった、傷付けられることも蔑ろにされることも、死ぬか生きるかも。

 でも、それを貴方が変えてくれた」


 エルフィは震える手で、服の袖を捲る。

 ずっと肌を出さないようにしてきた、その下にある傷跡を隠す為に。


 彼はきっと知ってるし、見たこともあるんだろうけど、忌まわしい過去の象徴を勇気に変える為にエルフィは晒す。

 彼女を蝕む傷跡を見下ろして、ニールは静かに言った。


「竜士になれば、その傷も二度と消えない。君を縛り続ける呪いになる。

 死というのはある意味での救済であり解放だ、その機会をきみは逸する事になる」

「……それで良いんです。

 この傷跡は全部、わたしを戒めるものなのだから」


 腕だけじゃない、胸も腹も背中も足も、全部そうだ。

 抵抗もせず悪意を受け入れ続けたから出来た、沢山の傷と火傷の痕は確かに呪いのようで、エルフィが生きた証でもある。

 

「二度と、自分を蔑ろにしない為の戒め。

 死が救済だというなら、わたしには要らないです、だってわたしにとっての救いはもう此処にあるんだから」


 エルフィは指先で、ニールの体をなぞる。

 示した先には竜の心臓があった、黒い瞳が見開かれる。


「わたしは貴方に恩返しがしたいです。

 いつも言ってるでしょう?」

 

「貴方が隣で生きていてくれるだけで、わたしは救われるのだから」


 頬を寄せて抱き締めれば、翼がばさりと動いた。

 目一杯手を回しても、回り切らない大きな喉が唸るのを聞く。

 エルフィは優しく鱗を撫でて、彼の孤独を労った。


「もう独りで頑張るの、辞めましょう?

 わたしも、貴方も」


 優しい聖竜は黙ってエルフィの言葉を聞き届け、観念したように溜息を吐く。


「きみには、本当に敵わないな」


 その声は呆れているようでもあり、喜んでいるようでもあった。

 ずっとこの時を待っていたのだと。




 ***




「その無茶の通し方は何処で学んだんだ」

「どこだろう、シャーナさんかな……」


 やっぱりか、と項垂れるニールの姿は人型だ、二人並んでさっきまでエルフィが腰掛けていた場所に座っている。


 やっと平穏が戻って来たとばかりに小動物が騒ぎ出す、それを眺めながらエルフィは考えながら言葉を紡いだ。


「最初は想いが通じ合えただけで十分だったんですけど、満足出来なくなったというか。

 意地でもニールを独りにしたくないって思ったら覚悟が決まってしまって」

「……そんな勢いで突っ込んでこられたら受け止めるしかないじゃないか」


 ニールがちょっと拗ねているのを感じて、エルフィは素直に謝った。


「押し付けてるみたいな言い方になって本当にごめんなさい……嫌でした?」

「嫌じゃないから困ってるんだ。

 俺も正直、エルフィが竜士になってくれたらどれだけ良いかってずっと考えてた」


 ニールが自分の右手を眺めている、エルフィと触れ合う為に作ってくれた体。

 彼は森を見渡しながら、言った。


「怖くて超えれなかった線を、きみはいつも躊躇わずに踏んでくるから吃驚する」

「……ごめんなさい。

 ニールはいつもわたしの逃げ道を作ってくれるけど、わたしはもう逃げたくなくて」


 風が木々をざわめかせる。

 エルフィの揺れた髪に手を触れさせ、ニールは笑いながら言う。


「押し負ける気はしていたんだが、ほら。

 俺にも数万年掛けて築いて来たものがあるから」

「はい、根本からぶっ壊してごめんなさい」


 本当に申し訳なくて謝ったら、ニールは楽しそうに笑い声を上げた。

 からからと、何だか肩の荷が降りたみたいに笑う穏やかな横顔に安堵して、ほっと息を吐く、そんなエルフィに彼は問う。


「怖かった?」

「それはもう……ニールは?」


 エルフィが問い返せば、ニールは笑みのまま白状した。


「物凄く怖い、生きて来たなかで一番怖い。

 けど、好きな女の子にこれだけ想われたら応えないわけにはいかない」

 

 エルフィの右手を取って、そう言う彼にそれじゃあ、と彼女は笑みを浮かべた。

 ニールはその笑みに苦笑を向けて。


「エルフィは凄いな、俺が負けた。

 ……だから聞いてくれるか、俺の願いを」


 その言葉が嬉しすぎて、エルフィはニールの胸に飛び込んだ。


 草の上にふたりで転がって笑い声をあげる、動物達が何だ何だと大騒ぎだ。

 ニールがエルフィの頭を撫でると、その手に頭を擦り付けながらエルフィは、ニールの目を見た。


 四万年と少し、誰にも告げられることのなかった、彼の「願い」が言葉になる。



「俺の願いは――」


「人間とを育むことだ」

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