逃げろ!

第5話 恐怖の水龍

 ハァッ。ハァッ。ハァッ。


 息が苦しい。胸が痛い。喉の奥で血の味がする。


 それでも私は走り続ける。地面を蹴り、鹿の様に斜面を駆け降りる。周りの風景が危うい速さで流れてゆく。


 転んだら、怪我をするかもしれない。しかし止まってしまったら。走るのを止めてしまったら、確実に良くない事が起きる。


 後方で怒号が聞こえる。何を言っているのかは正確には分からない。だが私にとって良くない事だろうと安易に推測できる。


 すぅ、ハーッと息を半ば強引に整えて、私は何度目かの全力疾走で、登って来た山を斜面に対し斜めに駆け降りて行く。追って来る男達から逃れる為に。


 数百メートル疾駆したところで速さをほんの少しだけ緩める。この状態を数分維持したら、そこからまた全力疾走。それをただひたすら繰り返す。文字通り、必死になって逃げ続けている。


 走れ。走れ。止まるんじゃない、走れ。頭の中で自分に言い聞かす。さもなくば余計な事が頭をぐるぐると巡る。


 やだ、怖い。苦しい。なんで私が。捕まったらどうしよう。


 考えるな。走れ。息をしろ。自分に何度も何度も言い聞かす。懸命に膝を上げ、地を蹴り、腕を振る。


 男の怒鳴り声がまた聞こえる。思考が一瞬良くない方へと逸れる。


 死にたくない。


 既に速かった心臓が一層速く、強く、脈打つ。


 誰か助けて。お母さん、助けて。


 いつの間にか、泣いていた。涙で視界はぼやけ、鼻水がみっともないくらい流れている。


 死にたくないよ、亮。私まだ死にたくない。


 えずきたい衝動を抑え込み、何度目か忘れた深呼吸を無理矢理する。乱暴にジャケットの袖で眼鏡を上にずらしながら顔を拭う。僅かに明確さを取り戻した世界を前に、残っている弱々しい理性で恐怖を自分の中で閉じ込める。


 駄目だ。今は違う。今は、泣く時じゃない。泣くのは全部終わってしまってからでも、遅くはない。


 再び深呼吸。そして全力ダッシュ。


 日の出が近いのか、空はかなり明るくなってきた。そのおかげで足元をあまり意識せずとも走れる。だがせっかく山を登って拓けてきていた視界は、また鬱蒼とした緑で覆い隠されていく。最早私が今どこにいて、どこに向かっているのか分からない。正直、逃げ切れればどこに辿り着こうが文句は無い。


 気持ち悪い。脳が酸素不足なのかもしれない。まだ、追いつかれていない。だが時折聞こえる大声から男達が諦めていない事が分かる。


 右前方、木が疎らになっている事に気が付く。道路かもしれない。淡い期待を込めて、そちらに向かって走る。しかし近づくにつれ、見事に期待は裏切られた事を知る。


 川だ。渓谷を流れている大きな川だ。白波を立てる程速い流れではないが、目に見えて水流が底にあるであろう大きな岩に沿ってうねっている。まるで体の透明な大蛇の群れが、川の中を泳いでいる様に見える。


 林間学校に行く前にクラス全員に渡された安全パンフレットの注意書きを思い出す。川は水面が穏やかに見えても実際の流れが速いという事が多々あります。危ないので、あまり岸から離れないようにしましょう。


 息を整えながら河原の砂利を踏み、素早く思案する。お世辞にも穏やかとは言えない川を渡るのは危険だ。しかし、他の選択肢が見当たらない。走って来たほぼ一直線の道のりを考えると、川を渡り、向こうの山を登って行くのが一番距離を稼げる。それに対し、渓谷に沿って逃げるのは、木があまり無い分、見つかり易くなってしまう恐れがある。かと言って、来た道を引き返すのは上手くやれば男達をやり過ごせるが、広範囲に捜索網を張られている場合、捕まってしまうだろう。


 男達の声がした。思っていたよりもずっと近い。悩んでいる猶予は無い。泳ぎが苦手で川を渡るのをためらって殺されるより、危険を伴うにせよ、助かるという希望にしがみついていたい。腹を括る。


 水を吸ったら邪魔になるであろうジャケットを脱ぎ捨てながら、川の冷たい水にじゃぶじゃぶと進み入る。岸に捨て置いては証拠を残し、行き先が特定されそうで怖かったので、膝上まで水に浸かった所でジャケットを川に流す。少しでも攪乱と時間稼ぎになってくれと願いを込めて。水が一歩一歩踏み出す脚を押し返してくるのを感じながら、眼鏡を外し、畳んでズボンのポケットに仕舞う。チャックが無いのが心許ないが、掛けているより幾分かましだろう。


 ぶるりと背筋が震える。ジャケットの下はかなり汗をかいていたようだ。冷たい水に加え風が吹けば、汗ばんでいる体の熱は逃げていくばかり。いくら暖かいとはいえ、十二月である。出来るだけ早く渡りたい。


 腰まで水に浸かった所で歩くのを止め、頭を水面から出したまま泳ぎ出す。三分の一も進めていないというのにかなり疲弊しているのが分かる。更に進んだ所で速さを増した川の流れに対応するべく、犬搔きからクロールへと変更する。足はもう、つかない。息継ぎの為、度々水を掻くのを止め、顔を上げて位置を確認する。水流は徐々に加速する。斜め上流を目指して泳いでいるのだが、斜め下流、と言うよりも唯下流へとどんどん流されて行く。川のおよそ中間地点まで来たが、かなり流されてしまい、川に入った時には見覚えの無かった風景に囲まれている。留まることの知らない川の流れは速くなる一方。


 クロールを続けるのが苦しくなり、犬搔きへと戻す。両耳が空気に触れると、水の中での独特な空気と水が忙しなく混ざり合う音から解放される。同時に不穏な音が耳を震わす。


 液体である水が硬い何かに叩き付けられ、常である穏やかさとは相反する攻撃的な一面が垣間見える時の、微かな轟き。川が流れる先へと、音のする方へと、目が吸い寄せられる。


 上流で見た水蛇の大群と称したうねりは、渓谷の斜度が変わったのか、白い飛沫という鬣を冠した水龍へと変貌を遂げていた。


 懸命に水を搔きながら、向こう岸と、下流の大きな岩の並びに激流が当たる度に飛び散る水飛沫を見比べる。その様は怒り狂う龍が暴れ回り、身を削りながらも周囲に自分の憤りを知らしめているようだ。


 とてもじゃないが間に合わない。川幅で言うと半分以上の距離を泳いで来たが、激流区間の横幅をまるで抜けられていない。このままでは飲み込まれる。


 必死になって流れに逆らう。少しでも速いクロールで向こう岸を目指す。その間、急流をやり過ごせるような知識を探してみるが、そんな都合の良いものは見つからない。


 瞬間、下流に向かってバタ足をしていた両足が見えない力によって勢いよく川底の方へと引っ張られる。次に目に写ったのは、昇って来た太陽の光が乱反射する水面を下から見たもの。きらきら光る網目が生きている鱗の様に、ゆったりと蠢く。同時に龍に喰われたのだと悟る。繊細な美しさと豪胆な恐ろしさの調和に自然への畏怖の念を抱く。


 あぁ。凄いなぁ。


 止まっていた感覚が一気に追いかけてくる。くぐもらせた地響きの様な音。水面、川底、また水面と目まぐるしく変わる視界。体の至る箇所に石を投げ付けられている様な鈍い痛み。そして何より、息苦しさ。溺れているという実感が湧いてくる。


 上も下も分からないまま、空気を求めて兎に角、もがく。刹那、水面から顔が出たように水を弾いた。思いっきり吸い込む。空気と水が体内に入って来る。咳き込む暇も無く、再び龍の体内へと飲み込まれてしまう。水が気管の方に入ってしまい、水の中で噎せる。取り込んでいた少ない空気が体から出ていき、代わりに川の水を大量に飲んでしまう。苦しいと思う前に鋭い痛みが右手首から肘にかけて走る。叫びたい。だが叫ぶだけの空気が残っていない。ひたすらどちらかも分からない水面を求め、手足をばたつかせる。


 再び頬が空気に触れる事ができ、水を肺から追い出すべく、咳をしようとしたその時。今度は下腹部を殴られた様な衝撃。あまりの勢いと痛みに、先程飲み込んだ大量の水が肺から押し出される。当てられたお腹を庇う為、反射的に動いた両腕は、お腹まで届かず、脇の下に一本の棒の様な物を抑え込む形で留まる。ぐんと体が水流に対して引っ張られるように失速したのが分かった。


 苦しいし、痛いし、気持ち悪い。まだ吐きたい。肺に入った水に噎せながら、目を開ける。


 眼鏡の無い視界はぼやけて見える。だが目の前には白っぽくて大きく長い何かが、川に半身を浮かせる様に白波を乗り越えていくのが分かる。


 突如、吐き気に襲われ、水と胃液を吐き出す。治まった所で目の前の物体に目を凝らす。続けて両脇に抱え込んでいる物を咳をしながら確認していく。どうやら、私は大きな流木の枝にお腹を強打した後、引っ掛かったようだ。


 右手で顔の水滴を拭こうと枝から一瞬手を放すが、間髪入れずに枝を抱き直す。水が勢いよく流木の下へと流れていて、少しでも気を抜いたら両足を始め、引き摺り込まれてしまうほど強力だ。激流で揺れる中、四苦八苦して両足を枝まで引き上げ、蛙の様に上に跨る。少し息をつく。


 流木はその大きさもあってか、緩やかとは言い難いが、人単体で急流を転がり抜けるよりはかなり安定している。咳がひとしきり治まったところで幹に近い右手を伸ばすが、腕の痛みに思わず固まる。


 忘れかけていたが、水の中、腕を岩か何かで切ったのだろう。手首から肘にかけ、長い傷口が一文字にぱっくりと開いている。素人目では判断が付きにくいが、深くは無くともこれ程の長さだと縫合が必要なのではなかろうか。試しに手を握ったり開いたりしてみるが、力が上手く入らない。怪我のせいか、体力切れのせいなのか。痛むが、流れ続ける血の量と痛々しい見た目の割には、少ないように思える。おそらくアドレナリンが体中を巡っているという事だろう。


 流木の幹には空へと突き上がる形で、短く折れている手頃の枝がある。腹を打ち付けた枝に跨った状態でその短い枝を掴み、太い幹の方へと乗り上げようとする。だが、揺れている上に腕がプルプル震えて、上手く力が入らない。数回にわたり挑戦するうちに右腕を始め、気付かない間に山で川でとこさえてきた細かい擦り傷に打撲がじくじくと痛み出す。


 不味い。アドレナリンが切れ掛かっているのかもしれない。より安定していて落ちにくそうな幹へ移りたいところだが、体力が先に無くなってしまう。


 作戦変更だ。幹に跨る事は諦めて、取り敢えず自分の体を流木に固定する事を優先する。


 着ている長袖の、幹により近い右袖のみを脱ぐ。水で布が肌に貼り付く上にじわじわと血が滲み出ている傷口が、本格的に痛み出す。水流の揺れに幹にしがみ付くヤモリの様に耐えながら、脱げた右袖を先程の手頃な枝に巻き付け、片結びを一回する。結べた所で首と体で簡易な命綱の耐久性を軽く引っ張り、確認する。


 右脇腹と下着が見えている状態だが、命有りきの羞恥心。ただ、伸びる素材のシャツで良かったとは思う。おかげでさほど苦戦せずに固定できた。


 取り敢えず、川の流れが穏やかになるまでこの流木から落ちなければ、それで良い。可能な限り幹に体を寄せようと、尺取り虫の要領で左腕と太腿で跨っている枝を挟んで前に移動する。 


 川の上の流木では応急処置も出来ない。せめて、流血している右腕を心臓より高い位置に置いときたい。枝は少々安定が悪い。思案した後、地味な痛みと格闘しながら命綱を絡ませる形で押さえ込む。


 出来得る限りの事を終え、全身をもって幹にしがみ付き、ひたすら揺れと流れが和らぐのを待つ。


 まだ、助かってはいない。この川が湖に出るか、運よく途中どこかの岸に流れ着かなければ、助からない。滝などから落ちてしまえば、今の私では水面に生きた状態で浮き上がる事は叶わないだろう。命綱が解けて流木から落ちてしまっても、泳ぐほどの気力が残っているかどうか。傷の血が止まらなかったり、ましてや菌にでも感染したら。陸を踏めたとしても、助けが見つからなければ。男達が諦めていなかったら。


 目を瞑る。


 妙な気分だ。ただただ怖くて取り乱していた時に比べ、今は緊張が少し和らいだせいか、疲労のせいか、悲観的な考えが頭を占領していても冷静でいられる。文字通り、流れに身を委ねる他道が無い為、怖がるだけ無駄だと頭が感情を手放してしまったようだ。第三者の様に今の状況に至るまでの自分の足跡を振り返っていた。


 流木にへばり付き、激流に耐えながら思う。私はどこかで選択肢を間違えたのだろうか。

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