どこだか分からない場所

どこだ、ここは

第2話 見慣れぬ場所の月

 どのくらい寝ていたのだろう。体も頭もかなり楽になった。感覚からするとたっぷり十時間程は寝たような気がする。寝不足が蓄積されている体は寝ようと思えば、まだまだ眠れる。しかし違和感にも満たない小さな思いが自分の中に芽生え、微睡む思考を徐々に覚醒させていく。一際大きく息を吸い込み、両手を前に突き出すように肩回りの筋肉を伸ばし目を開ける。


 存在感溢れるゴツゴツと隆起した木の根の様な物が枕越しに見え、呼吸器はヒュッという音と共に凍て付く。恐る恐る上半身を起こし上げながら曲がった眼鏡直し、目で根の先を辿る。木の根は当然のように幹へと集結されており、その幹は然も当たり前かのように頭上高く幾重にも枝分かれしている。


 木だ。月明りだけで詳細は見えないが、枝振りからして葉を落とした広葉樹だ。


 目線が夜空に浮かぶ明るい球体へと吸い寄せられる。月だ。満月に近い。この欠け方は満ちていっているのか。少しひんやりする地べたの感触を掌に感じながら、目線を落とす。


 辺りは枯れ草に枯れ葉、所々には土や石が露になっている。周りには様々な種類と高さの木々がまばらとも密集とも言えない間隔で生えている。


 寝起きの頭が次第に機能しだす。得も言えぬ焦りが水に落ちた一滴のインクの様に緩慢な動きで広がっていく。都会では有り得ない静けさのせいか、やけに心臓の音が五月蠅い。


 混乱した頭のまま立ち上がる。目まぐるしい程に視線を辺りに巡らせ、何でも良いから見覚えのある物を探す。家でも、電灯でも、標識でも、この際滅多に目にしなくなった公衆電話でも良い。しかし思い虚しく馴染みの物はおろか、人工的な物が何一つ見当たらない。焦りがじわじわと危機感という色に塗り替えられていく。


 どこだここは。


 その問いを認識すると同時、一瞬にして不安の波に飲み込まれる。厚手のコートを着ているにも関わらず、背筋を冷たい震えが駆け上がる。変な汗が全身から吹き出てきて、寒いんだか熱いんだか、感覚が麻痺する。ただ考えが、気持ちが、暴走しかけているのだけは確かだ。どこ、なぜ、誰が、どうやって。様々な疑問が一斉に頭の中でネズミ花火の如く弾ける。それらの火花に誘発され、花火が、疑問が、恐怖が、連鎖していく。


 怖い。分からない、怖い。


 パニックを起こす寸前、目を固く閉じて深呼吸を始めたのは殆んど反射だった。伊達に小学校に上がる前からテコンドーの道場に通ってはいない。師範代の様な位置付けで週五日の道場でのバイトを始めてもう五年以上経っている。叩き込まれている精神統一用の呼吸法は今や考えずともできる。そのせいか、落ち着きたい時、集中したい時、気合を入れたい時、息を整えるのは最早私の癖である。


 鼻から息を吸い込み、一旦止める。三秒ほどしたら口を介してゆっくりと、長く吐き出す。動揺を吐き出すかのように繰り返される深呼吸で、少しずついつもの調子を取り戻していく。通常ならば簡潔に一度すれは目的は果たされるのだが、今回は重篤である。座禅の時のように何度も息を吸っては吐き、心を落ち着かせていく。


 不安は無くなる訳ではない。これは飽くまでも恐怖を制御する為の作業である。それらで与えられた猶予が落ち着いて考える力と時間をくれるのだ。


 外界を遮断し内面に向けた意識で心拍数が通常のそれに戻った事を確認する。平常心を保ったままゆっくり、目を開ける。目前に広がる風景は、やはり見慣れた自分のアパートの玄関ではなく、先程目にした木々で占められている。心拍数は変わらない。


 まずは状況を整理しよう。現状を確認し、解決すべき問題を正確に捉えなければ、対策の練りようがない。


 手始めに腕や脚を触ったり、動かしたりしてみる。靴を履いたままだったので一応脱いでみたが、なんて事の無い。見慣れた自分の足だ。五体満足である。念のため、コートの前を開け、シャツの中も覗き込んでみたが、外傷は見当たらなければ痛みも無い。試しに飛び跳ねたり、足踏みもしてみる。特に違和感は感じられない。一安心だ。


 意識を自分から周囲へと移す。全体的に斜度のある地形の比較的平らな場所に生えている大きな広葉樹の根元に居るが、ここはどうやら山のようだ。斜面の上の方には所々勾配が急になっていたり、岩肌が露になっているのが木々の合間から見える。逆に下へと目をやれば、傾斜のある地面から生えている茂みや木々が、やがて夜の闇に溶け込んでいっている。どちらも見え得る限り斜面がずっと続いている。しかしこれでは頂上付近なのか、麓近くなのか、見当が付かない。


 時間を確認する為にズボンのポケットを軽く叩きながら携帯を探す。だがすぐに鞄に入れたままである事を思い出し、舌打ちをする。これでは電話もできないではないか。しかし果たして電波の届く場所に居るのかも分からないので、早々に未練を断ち切る。


 少し仮定してみよう。もし、私は十時間以上寝ていたとするのなら、今は午前三時以降という事になる。勿論、この憶測は私が何らかの事件に巻き込まれていて薬でも摂取していれば、土台もろとも崩れていってしまう砂上の城だ。


 それにしても十二月の夜間だというのにやけに暖かい。山にはこの時期、雪があるものだと思っていたのだが、毎晩この気温では雪は次の日に持ち越す事無く溶けてなくなるだろう。まさか南は沖縄の方まで来ているのか。


 そこで思考が一度止まった。飛躍せずに思案できる材料が無くなったからだ。

 私の最後の記憶を信じるとすれば、私は寝た場所とは違う所で目を覚ました。ここは山であり、気温から考えるに緯度がかなり南に位置するものと推測できる。しかしどうやってここに来たのか、はたまた誰が、どんな目的を持ってそうしたのか、何より私は今どれくらいの危険に晒されているのかは、一人悶々と考えたところで答えなど出ない。それらを推し測るには情報が圧倒的に足りない。


 帰らなくちゃ。


 思索が滞ってできた隙間を埋めるように、そんな思いが滑り込んでくる。


 助けを、人を呼ぶ手段を。


 携帯は無い。飛行機やヘリコプターが飛ぶ音は聞こえないが、例え飛んでいたとしても自分に注意を引けるような鏡やライト、マッチの一本でさえも持ってはいない。


 移動しなくては。


 やはり情報を集めるにしても、助けを求めるにしてもここから動かなければなるまい。斜度はかなりあるが、月明りも充分ある為歩けない程では無い。走れと言われれば、少々躊躇するだろうが。


 もう一度光源を仰ぎ見る。先程は気付かなかった違和感が頭を掠める。


 あれは、月、だよな?


 上手くは説明できないが、空にぽっかり浮かんでいるそれがどうにも、見覚えの無いもののように一瞬思えたのだ。じぃっと睨んでみるが、薄青に点っている丸い円盤は、月以外に形容できる単語を私は見い出せずにいた。


 引っ掛かる。引っ掛かるが、とにかく移動しよう。さてと。


 右と左を見比べる。


 登山すべきか、下山すべきか。


 ここが山であるならば、当たり前だが下は麓である。人里や道路はどちらかと言うと、そちらにある可能性が高い。がしかし。が、しかしだ。もしここが山脈の中の山の一つだとすれば、下は奥まった場所に位置する人気の無い谷間かもしれないのだ。その場合、逆に交通機関から遠ざかってしまうという事も有り得る。


 山の上の方に目をやる。山というのは上に行くほど木が疎らとなり、状況確認がしやすくなると以前本で読んだ事がある。遭難した場合などでも、取り敢えずは頂上を目指すべきなのだとか。下手に山を下るより、私もまずは上から道路、欲張るならば町を見つけてそこに向かうのが得策だろう。


 腹を決め、少し間抜けに感じながらも唯一の所持品である枕を小脇に抱え、私は頂上を目指して登りだした。

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