第五話 『ロンギヌス』


 ここはどこだ。

 そんな取り留めのない思考が、突如虚空の中に浮かび上がる。


 体を動かそうとしても四肢はなく、辺りを見渡そうとしても、そもそも光を映すための瞳が存在しない。


 不思議な感覚であった。

 自分と世界の境界を認識することすら難しく、自分という存在がなんだか酷く曖昧なモノなっていくような気がするのである。


 ――――ああッ、俺死んだのか。


 ありとあらゆる概念の消え去った虚無の中で、かつて樋田可成ひだよしなりだったはふとそんな事実を思い出し――――即座にどうでもいいと切り捨てる。


 生前はあれだけ死にたくないと喚いていたというのに、こうして実際に死んでみると不思議と嫌な気はしない。

 何故だかは分からないが、心が極自然に死を、そして自己の完全なる消滅を、至極当然の事として受け入れているのだ。


 この世界におけるありとあらゆるモノ、今やその全てがどうでもいい。

 人類特有の知識欲に、溢れんばかりの承認欲求。そしてあの惨めな生への執着すらも、煙のようにどこかへと消え去ってしまっていた。


 死者の心はただひたすらに虚ろを極める。

 今はただ静かに眠ることが出来れば、或いはただ静かに消えることさえ出来れば、それだけで充分であった。


 最早こうして思考することすらも煩わしいと、樋田はそのままゆっくりと意識を閉じる。恒久に変わることのない虚ろな世界の中へ、少年はその存在の全てを躊躇なく放り捨てる。


 されど、それで彼の魂がそのまま虚無の中へと消え去ることはなかった。



 ――――なんだっ……、これ。



 はあまりにも突然に、少年の意識の中へと顕れた。

 がどれ程の大きさなのか、或いはどんな形をしているのか。それすらも樋田可成の――――いや、人間の知性では到底理解出来るものではない。


 それは気体であり、液体であり、固体である。

 そして生物であり、植物であり、無機物でもある一方、点であり、線であり、面であり、時間そのものでもあるのだ。

 自分でも何を言っているのか分からなくなってくるが、あえて言葉にするならばは正しくこの世界そのもの、或いは凡ゆる概念の集合体とでも言ったところであろうか。


 そんな巨大なによって、樋田可成という存在の全ては瞬く間に包み込まれていく。

 まるで世界と自己が一体化でもしていくような奇妙な錯覚。しかし、それは自分という存在が『消えていく』感覚と似ているようで、寧ろその真逆であった。


 先程のように『樋田可成』が『世界』の一部として溶け込んでいくのではない。言うなれば『世界』の方が、『樋田可成』の一部として飲み込まれていっているような気がするのである。

 そんなことはありえないと頭では分かっていても、何故だか少年の意識は目の前の事実を確かにそうだと認識していた――――と、その直後のことであった。


 が樋田の魂を曖昧に包み込んだ次の瞬間、その意識の中に無数の概念が怒涛の如く殺到する。

 森、海、川、山、母、大地、命、闘争、愛、時間、空間、恐怖、生、風邪、月、平和、歴史、星、石、政治土、食、魂、科学、空想、宗教、法則、父、喰、贄、死、人類――――――あるいは映像で、あるいは音声で、またあるいは感覚で、世界の全ては少年の小さな魂の中を瞬く間に満たし、一方的にその存在を刻み込んでいく。


 世界が少年に与えたは万物の根源、或いは宇宙そのものであろうか。どちらにせよ人間たった一人の貧弱な感性と知能では、とてもそんな情報の洪水を受け止めきることは出来ない。


 ――――なんだッ、俺の中に、何がいる。


 概念が跋扈し、条理が蔓延し、観念が飽和し、摂理が決壊し、因果が充溢する。

 そんなあらゆる存在を超越した無色界を前にして、かつて少年だった者の魂は、ただ虚しく震えることしか出来なかった。





 ♢





「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああァァァァッ!?」


 まるでこの世の終わりだと言わんばかりの絶叫と共に、消えたはずだった樋田の意識が、その生命が唐突に覚醒する。


 頭の中は真っ白で、両の手が不安気に虚空を掴むのを止められない。心臓の鼓動は不安定に荒れ狂い、未だに全身の神経という神経が命の危険を訴えて暴れ回っていた。

 自分という存在すらまともに認識できないまま、樋田は喉が張り裂けんばかりに只管絶叫する。そうでもしていないと今すぐにも気が狂ってしまいそうであった。


「がっ……アァッ……」


 樋田可成は確実に死んだはずなのだ。

 直前にどこぞの正義の味方が助けに来たわけでも、少女が唐突に慈悲に目覚めて見逃してくれたわけでもない。意識は大分薄れていたが、命の灯が消えるその直前、首を刎ねられる感触が確かにあったはずなのだ。


「ハァ、ハァ……どうなって、やがんだ……」


 だがしかし、恐る恐る自分の体を見てみてもそこに一切の傷は無い。

 首への圧迫感は未だにあとをひいているが、体中のどこにも風穴は空いていないし、胸に手を当てれば今も心臓は普段と変わらずに全身へ血液を送り出している。


 思い出したように辺りを見渡してみても、そこには天国も地獄も広がってはいなかった。

 目の前の状況は、樋田が死亡する直前に目にした光景と何も変わってはいない。

 見慣れた天井に見飽きた自室。窓の外は相変わらず真っ暗で、壁に掛けられた時計の針も最期に見た時とほとんど変わらない時刻を指し示している。


「……随分とやかましい奴だな。なぁ、もう少し静かに?」


 そしてなにより、樋田をその手で殺害した張本人も、先程と何も変わらない様子で少年の目の前に立っていた。

 薄ぼんやりと煌めく天輪に、どこか慈悲と母性を感じさせる柔らかな隻翼。透き通るような金髪が微かに揺れるその向こう側で、白い肌の上に浮かぶ群青の瞳が気怠そうにこちらを見つめている。


「ひっ」


 その姿を見ているだけで、そしてその姿に見られているというだけで本気で生きた心地がしない。あの身体を引き裂かれる激痛と底知れない死の恐怖が再び思い出され、たちまちに口の中は不快な酸味で一杯になる。

 しかし目の前の天使は、そんな樋田の狼狽を気にも留めていないようであった。彼女はおもむろにその身を乗り出すと、興味深そうにこちらの顔を覗き込み、


「ふむ、本当にただ見えるだけのようだな。心臓が止まると同時に起動するタイプの自爆術式ヒューマントラップも無し、か……」


 まるで不良品のメンテナンスでもするかのように、天使は樋田の体をつむじから爪先までジロジロと見回す。


 正直あまり気分がいいものではないが、こちらに黙ってされるがままになる以外の選択肢は存在しない。

 目の前の少女の危険性は、既に己の身を以て理解している。理屈は分からないがこうして命がまだある以上、下手に彼女を刺激して再び殺されることだけは避けたい。


 ――――クソッ、もうどうにでもなりやがれ……!!


 精神を発狂へと誘う恐怖をひたすらに押し殺し、一体どれだけの時間が過ぎただろうか。やがて樋田は天使の様子を伺おうと、その細い瞳を恐る恐る半開きにしてみる。すると、



「……ん?」



 思わず出かかった間抜けな声に、樋田は慌てて口元を抑える。されど彼がそんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔になってしまったのも無理はない。


 一体何が彼女をそうさせたのか。あれ程までに冷たい表情をしていた天使が、いつの間にかキョトンと瞳を丸くしていたのである。



「うん……? これはもしや、ワタシは無関係の一般人を殺してしまったということになるのか……?」



 ゴクリと一呼吸置いて、そんな先程までの姿からは想像もつかない素っ頓狂な声が響く。直後、まるで絵に描いたような冷酷さを秘めていた彼女の表情は、瞬く間に雪解けの季節を迎えた。


 凛々しかった二筋の眉は情けなくハの字を描き、ぱっちりとした大きな瞳が不安げに宙を泳ぐ。やがてこちらを気まずそうに見上げた彼女のその表情は、まるで悪戯がバレた時の子供のように弱々しいモノであった。


「へっ……?」


 これは一体全体どういう風の吹き回しか。

 そのあまりにも露骨な態度の変わり様に、樋田は肝を冷やすことも忘れてただただ困惑するしかない。


「すっ、すっ、すまなかった……」


 少女はしばらく居心地が悪そうにこちらをチラチラと伺っていたが、やがて申し訳なさそうにペコリと頭を下げる。

 

「こちらもこちらで色々と切羽詰まっていてな。キサマがワタシにとって危険な存在でないこもを確かめるためにも、一度キサマを殺す必要があって……って、そんなことは結局ワタシの都合でキサマには関係のないことだものな……」


「は、はぁ……?」


「確かに不満があるのは理解出来るし尊重もするが、少し待ってくれると助かる」


 最早壊れたスピーカーと化した樋田を尻目に、天使はおもむろにその大きな瞳を閉じる、


 そして次の瞬間、彼女の体に再び『変異』が生じた。


 天使の足元より湧き上がった輝きが彼女の体を優しく包み込むと、その鮮やかなブロンドの髪は瞬く間に黒色に染め上げられ、どこからともなく現れた無数の皮膚片がみるみるうちに白い肌を覆っていく。

 その光景はまるで先程の『天使化』を逆再生しているかの様であった。


 その予想に違わず、肩の隻翼や頭上の天輪もまるで紙細工のようにボロボロと崩れ落ちていき、そのまま塵となって虚空の中へと消えていってしまう。


 そんな幻想的な『変異』が終わってしまえば、少女の姿は最早そこらにいる普通の女の子と大して変わらない。


「……助かった、ってことでいいのか」


「まっ、まぁ有り体に言えばそういうことになるな」


 どうやら幸いなことに、彼女は誰彼構わずに人を殺しまくる根っからの殺人狂ではなかったらしい。

 『天使化(仮)』を解いたということは、最早こちらに対して殺意は持っていないのだろう。未だ状況が掴めないことに変わりはないが、一先ず命の危機を脱せたことに樋田はホッと胸を撫で下ろす。


 ――――で、結局何がしたかったんだよこの腐れ幼女は。


 目の前の少女に聞きたいこと、いや聞かなくてはならないことはそれこそ山の様にある。だがしかし、まずはこの事を聞かないことには何も始まらなかった。


「何でだ。俺は死んだんじゃねぇのか」


 そんな樋田の率直な質問に、天使は嫌そうに眉を潜める。言うべきか言わざるべきか、そんなことを考えていそうな思案顔であった。


「むう……まぁ、ここまで巻き込んでおいて答えないのも不誠実だな」


 やがて彼女は独り言のようにボソリと呟くと、おもむろに自分の左目に手をかざす。その如何にも中二臭いポーズに思わず身構える樋田であったが、次の瞬間には呆然と肩の力を抜いていた。


「なんじゃこりゃ……」


 少女の蒼みがかった円らな瞳、その黒目の部分が突然白く輝いたのである。いや、白とは少し違う。クリームというかベージュというか、どこか不純物の混ざった白に限りなく近い別の色と言ったところだろうか。


「フン、驚いてくれたようで何より。ごちゃごちゃ口で説明するよりも、こうして目の前で見せられた方がわかりやすいだろう? そう、これこそワレら天界が数千年の時を通じて創造に成功した神権代行権しんけんだいこうけんの一つ――――『燭陰ヂュインの瞳』」


 うざったらしい尊大な言い回しの後、天使はそこで意味深に言葉を切る。そしてその口元にニヤリと白い歯を見せると、見るも見事なドヤ顔でこう宣言した。



「我が王よりこのアロイゼ=シークレンズが賜った『時を支配する力』だ」


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