◆アデリルとクレセント

挿絵

前半戦 アデリル

<1>


 アトラント王国の首都アトレイ、その次期女王である御歳十七歳のアデリル王女は今、天井が高く広々とした自分の寝室の広い寝台の上で、眠りについていた。

 窓のカーテンはすでに開かれ、室内には朝の柔らかい日射しが差し込んでいる。

 その光が掛け布団から覗くアデリルの閉じた目を、ふっくらした頬を、わずかに開かれた薔薇のような唇を輝かせていた。

 枕の上には特徴的な葡萄色の艶やかな巻き毛が広がり、今、それを一房掬う指先があった。優しくそっと、たぐり寄せるように王女の髪を包んだ手は、自分の口元に葡萄色の髪を寄せ、そのまま眠っているアデリルに顔を近づける。

「麗しの我が乙女よ、どうぞその太陽よりも輝くあなたの目を開けて、つかの間でも私に、高貴な視線を注いでください…」

 耳元で囁く低く甘い声に、アデリルの肩がびくりと震えた。

「よしイオディン、続きはこうだ。『朝の光が美しいのではなく、あなたが存在が朝の光を美しく見せるのです…』」

 傍らで別の声が得意げに言った。どちらも男だ。さらに寝台の反対側から、

「朝っぱらから、よく次々そんな台詞が出てくるねえ。一日中そんなこと考えてるなんて、アルセンにはある意味感心しちゃうよ」

 と、別の男の、これは少しまだ子どもの幼さを感じさせる声が聞こえた。

 アデリルはかっと目を見開き、そのままがばりと上半身を起こす。

「ちょっとフリアナ! うら若き乙女の部屋に、朝からむさ苦しい男どもを入れないでって何度言ったら!」

 彼女は部屋の入り口に向かって叫んだ。が、次の瞬間、背中に強い痛みを感じて、前屈みに倒れる。筋肉痛だったのを忘れていた。掛け布団に沈んだ王女を、三つの頭が覗き込む。

「おはよう、アデリル」

 彼女から見て左側にいた少年がそう言った。榛色の髪に、同じ色の目。アデリルの方へ身を乗り出す体つきは、少年特有の線の細さを残して頼りない。けれどこの中でアデリルと最も親しい、幼なじみのチャコールだ。

「朝から殿下の美しい怒り顔を見られるなんて、今日は良い一日になりそうだな」

 寝台を挟んでチャコールの反対側から声をかけたのは、アデリルよりふたつ年上のアルセン。明るい金髪を肩のあたりまで伸ばしているせいで、もともと柔和な顔立ちがさらに甘い雰囲気を醸している。彼は自分の魅力を最大限に心得た笑顔を王女へ向けた。

「アルセンとチャコールにそそのかされた。朝から申し訳ない」

 アルセンより手前、アデリルの髪から指を離しながら、きまじめな口調でそう言ったのがイオディンだ。短い黒髪、切れ長で同じ色の思慮深そうな目、薄い唇から成る精悍な顔立ち。他のふたりとは違い、顔にもあまり表情がない。並んでいるアルセンとは対照的だ。

 アデリルは顔を上げ、恨めしげな表情で、朝から図々しく王女の私室に入り込み、寝台を取り囲んだ男たちを眺めた。

「まあまあ、アデリル様。お目覚めですか、よかった」

 部屋の入り口に、ふくよかな中年女が姿を現した。アデリルの表情とは裏腹に、ほっとしたような表情を浮かべて寝台へ近づいてくる。世話係のフリアナだ。

「フリアナ、貴女の役に立ち、朝の光の中で輝く笑顔を見ることこそ、僕の喜び…」

「はいはい、アルセン様。ありがとうございますですよ」

「久々にやってくれたわね…」

 アルセンをあしらうフリアナに向かって、アデリルは非難がましくそう言った。続けて周りの男たちを順に睨みつけていると、フリアナが呆れたように溜め息を吐いた。

「何を言ってるんです。一時間前に起こしたら、不機嫌だし枕は投げるしで、私の手には負えませんでしたよ。ほら、これ以上寝ていると謁見の時間に遅刻しますよ」

 アデリルははっとして、窓の外を見る。日射しの先の太陽は、確かにすっかり昇っていた。今日の謁見は重要だった。

「わかった、起きるわ」と、アデリルは言って寝台の上で身動きしたが、すぐに固まる。

「でも、体中が痛いの…」

 泣きそうな声で言うと、傍らのチャコールがぼそりと言った。

「舞踏の練習をサボっていたつけが、今でたね」

 彼の言葉は正しかったので、アデリルは黙って頷いた。そこへアルセンも身を乗り出す。

「僕に声を掛けてくれればよかったのに。美しい殿下の手取り足取り、お相手を願えるなんて、願ってもないな」

「練習の時間が終わってまで踊るなんて御免よ。それにアルセンだって、そんな暇なかったでしょ。ここしばらく、だーい好きな女遊びの噂も聞かなかったもの」

「僕の心はただひとりアデリル殿下のもの」

 アルセンは仰々しく胸に手を当て、アデリルに軽く頭を下げる。

「寂しい思いをさせて申し訳ありません、アデリル殿下。でも、明日からの式典では、あなたの傍を離れないと誓います」

「当たり前でしょう。あなたは私の親衛隊なんだから」

「そうだ、式典の新聞! イオディンが隊士から取り上げて、持ってきてくれたんだよ!」

「人聞きの悪い言い方をするな」

 チャコールはイオディンに笑顔を向けて、床に置いていたらしい新聞を拾い上げると、アデリルに見せながら読み上げた。

「『この一ヶ月で最高潮に高まったアトレイの祝賀ムードの中、明日からいよいよアデリル王女の三日間に渡るお披露目式が始まる。二代国王が続き、この三十年待ち望まれた次期女王だけに、国内外からの注目が高まっている。式典の後には正式に王室の一員と認められ、公務に就くのもさることながら、同時にお披露目式は伝統的に婿選びの場でもある。現在では形式的にすぎないとは言え、王女には夫候補と目される三人の臣下がいる。ひょっとすると、三日目には三人の中から誰かとの婚約が発表されるのではないだろうか』」

「なにが『ないだろうか』よ。ないってば。それ、ゴシップ紙?」

 眉間に皺を寄せて新聞を覗き込むと、アトレイ一の発行部数を誇る新聞だった。

「わかんないよ。運命の出会いがあるかも知れないし」

 新聞を畳みながらチャコールは悪戯っぽくそう言った。

 記事の中の『三人の臣下』は、誰とは特定されていないが間違いなく、この場にいる三人のことだ。彼女は三人を見渡す。その後ろでフリアナが苦笑いして見守っている。

「式の手順を間違えないか、宣誓の言葉を忘れないかで頭がいっぱいで、誰と出会うかまでとてもじゃないけど気が回らないわ。それにだいたい、あななたちの中で私の夫になりたい人はいるの?」

 三人は顔を見合わせ、誰か先にしゃべり出すかと黙り通し、とうとうアデリルの冷たい視線に屈して、苦い顔でチャコールが口を開いた。

「おれは駄目だよ。もしも、その気になったとしても猛反対されるだろうし、下手したら議会に止められるよ」

「僕も遠慮する。僕みたいな成り上がりの臣下が次期女王と結婚したら、さすがに他の女性と自由に楽しむわけにいかないからね」

「俺も自分の分は弁えている。影ながら殿下を支えるのが俺の務めで、隣に立つ立場じゃない」

 アルセンが手を振り、イオディンが神妙な表情で続けた。

「三人の夫候補なんて、見当違いもはなはだしいわ」

 彼らの態度に、アデリルは鼻白む。チャコールが笑った。

「王室のロマンスは世間の娯楽だからね」

「さあさあ、楽しくお話し中のところ悪いですが、アデリル様、そろそろ支度を。殿方は出てください」

 フリアナが割って入った。彼らは顔を見合わせて立ち上がる。

「ちょっと待って、ひとつだけ」と、アデリルは寝台の上でイオディンの腕を取った。

「なんでイオディンだったの? アルセンじゃなく」

 普段のイオディンは、頼まれたって耳元であんなことを囁いたりはしない。彼は気まずそうに目を反らしアルセンを指して言った。

「昨晩、賭札で負けた」

 これを聞いたアルセンとチャコールが、同時に小さく吹き出す。

「やっぱり悪ふざけの原因はアルセンね」

「殿下の部屋に行こうって誘ったのはチャコールだよ」

「そうやってすぐ人のせいにする! ふたりとも年上のくせに、卑怯者!」

「だから負けた責任をここで果たしたんだろうが」

 言い合いになった三人を尻目に、アデリルは布団から出て寝台の端に腰掛ける。そして腕を組むと居丈高に胸を張った。

「アルセン、私の前に跪きなさい」

 三人がぴたりと口を止め、チャコールとイオディンはまたか、という目でふたりを見た。アルセンは軽く肩を竦めると、アデリルの前へ進み出て、彼女の足下に片膝をつく。

「明日からは私の大切な大切なお披露目式よ。すでに国の内外からこの宮廷にたくさんの招待客が来てるわ」

「もちろん存じております、アデリル殿下。殿下の客人に失礼のないよう、僕も微力ながら力添えを惜しまないつもりです」

「それよ」と、アデリルは彼の顔に上から指を突きつける。

「お客様ってことは、彼らの従者もたくさん宮廷に滞在してるってこと。さ、復唱して。『もう二度と、この宮廷内で女官に手を出したりいたしません』」

「してないし、それに三日間にそんな暇ないって」

「だったら誓えるでしょ。復唱して」

「『もう二度と、この宮廷内で女官に手を出したりいたしません』」

「『女官だけでなく、式典の間はこの宮廷内のどんな女性にも手を出したりいたしません』」

 その言葉を聞くと、アルセンが大袈裟に顔を顰めた。アデリルは顎を反らし、満足気に微笑む。

「さっさと復唱して。その後はこうよ。『親衛隊の名に掛けて、アデリル王女に誓います』」

「『女官だけでなく、このきゅうていないのどんなじょせいにも…』」

「聞こえないわよ」

「アデリル、寝間着姿じゃ締まらないし、遅刻するよ」

 イオディンと並んで彼らを眺めていたチャコールが、助け船を出した。アデリルが振り向くと、フリアナがかなり困った顔をしている。

「いけない、そうだった。アルセン、もう今日は許してあげる」

 苦い顔のままアデリルは寝台を降り、アルセンを立ち上がらせた。フリアナがほっとした表情を浮かべ、イオディンとチャコールに会釈すると、服を取ってくると言って出て行った。アルセンとイオディンは王女に軽く挨拶をして部屋から出ていく。

「すっかり目が覚めちゃったわ、なにしに来たのよ」

 最後に残ったチャコールの背中を見送りながら、アデリルがそうぼやくと、彼は足を止めて振り返る。

「わからない?」

 そう言った彼の視線は、どこか大人びて見えた。

「心配してたんだよ。この一ヶ月、毎日朝から晩まで、勉強やら行儀作法の稽古やら、それに加えてこの一週間はダンスの特訓だったでしょう。それでなくても緊張するお披露目式なのに、その前にアデリルが倒れるんじゃないかって。ふたりはふたりで式典の準備に忙しいから、なかなかゆっくり会えないしね」

 アデリルは途中から黙って俯いた。チャコールの言うとおりだった。

 昨年末に十七歳になったアデリルは、この春に父王の許可を受け、正式に王家の一員になる。これからは一人前として扱われる公務が始まるのだ。今までのような賑やかしや代理ではなくなる。

 お披露目式はそのための式典で、これに出席するための客が国内外から招かれる。

 アデリルは一人娘でただ一人の跡継ぎだ。彼女のお披露目式はアトレイ王室の威信が掛かっていることはもちろん、この国とよしみを結びたい各国からも注目されている。王室で選んだ招待客の他にも、ぜひ参加させて欲しい、謁見だけでも、という各地の王侯貴族、はたまた成金まで、宮廷で一番大きな広間の左右の間仕切り全て外しても、収まりきるかわからないほどの客の申し入れがあったのだ。

 その招待客選びは既に終わり、準備は進み、今は明日の式典当日を待つばかりだった。

 その間、アデリルは山のように送られてくる肖像画を目に焼き付け、名前と出身地、外国であればその国の歴史と、アトレイ王室との関係をなんと四人も教師をつけられ、叩き込まれていた。

 失敗をフォローするために付き従う後見役がつくが、アデリル自身が覚えているに越したことはない。重要な相手だけ覚えれば良いとは言え、それだけでも百人近くいるのだ。彼女は決して物覚えが悪い方ではないが、並はずれた記憶力を持っていたとしても、百人の名前と顔と出身地とその国の特徴、そして自国との関係全てを把握するには、時間が必要だろう。

 そしてもう一つアデリルが頭を悩ませ、と言うより身体を軋ませているのが舞踏だった。

 お披露目式では舞踏の時間がある。初日と二日日だ。

 アデリルは内々で好き勝手に踊る舞踏会は大好きだった。好きな時に好きな相手と好きなように踊り、好きな時に止める。そうでない公式の舞踏会に出席したことも何度かあるが、どれもごく短い時間だった。

 だから舞踏なら大丈夫、とアデリルは胸を張っていた。他にも準備が山ほどある彼女の周りの人々も、自信ありげな王女の言葉を誰ひとり疑わなかった。

 それが問題だと発覚したのは式典のわずか一週間前だ。最後の仕上げにと呼ばれた舞踏の教師の前でアデリルが踊りを披露したところ、確かに楽しそうで内々で楽しむぶんには悪くないけれど、今のままでは王女としての品に著しく欠ける、と容赦なく指摘された。

 舞踏会は二日続けて、それも踊る相手も回数もおおよそ決まっている。姿勢良く正しく踊らないと、途中で疲れ果ててしまう。それもあって一週間前から唐突に、ダンスの猛特訓が始まって今日に至るのだ。そのせいでアデリルは連日、全身筋肉痛だった。つまり三人の無礼な訪問者は、それもこれもすべて承知の上だということだろう。

「おれももう行くよ。夕方のお茶の時間に、姉さんが会いに行くからね。アデリルにお土産渡すの楽しみにしてたよ」

 チャコールの姉のトライサには、式典の舞踏会で後見役を務めてもらうことになっていた。その打ち合わせをするのだ。

「あの、チャコール」

 アデリルは両手の拳をぎゅっと握り、出て行きかけたチャコールを引き留める。

「うん?」

「ありがと。あのふたりにも伝えて。私は大丈夫だし、それは式典の時、ふたりのこと頼りにしてるからだって。様子を見にきてくれて嬉しかったって」

「最後には素直になれるのが、アデリルの良いところ」

「失礼ね。私の悪いところを見つける方が難しいわよ」

 笑って出て行くチャコールに照れ隠しでそう言った時、入れ替わりにフリアナが戻ってきた。チャコールを送り出したフリアナは、

「ただでさえお気に入りと言われてる男性方が、朝から三人もお部屋から出て行くなんて、アデリル様の男好きという噂に、また尾鰭がつきますねえ…」

 と、他人事のように言った。アデリルはフリアナの横顔を眺めて、

「誰のせいよ…」と、溜め息を吐いた。


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