Episode 059 「絆の代わり」

 三人は食事を済ませ、他愛もない雑談をしていた。


「――そういえば私、和島君に一つ借りがあるのよね」


 その合間を縫うようにして笹原がとある話題を持ち上げる。タイミングを見計らっていたようなわざとらしさがあった。


「なんだ、覚えてたのか。俺はてっきり忘れてるもんだと思ってたが」

「そんなわけないでしょう。奢っておいて特になんの要求もしないなんて、ああいうパターンは初めてだったから……」


 智史は先日にカフェでの会計を肩代わりしている。以前行われた笹原の嫌がらせに対する意趣返しとも言える。そこには単に呼び出しに応じてもらったことへの感謝の念も含まれていたのだが、当人は口にしない。


「……他のパターンって例えば?」

「私に恩を売るところから関係性を構築しようとしたりとか、自分から負担を受けることで頼み事を断りづらくしたりとか」

「へえ。周りは取り入ろうと必死だな。じゃあ俺の場合は何が違うって?」

「そういうところよ」

「……どこ?」

「身勝手な期待や私利私欲を押し付けない。私の気持ちをちゃんと確認してくれるところ」


 初め、智史はどこが特筆すべき点であるのか把握できなかった。

 二人の会話に分け入らなかった早川は理解を示し頷いている。


「俺は笹原じゃないんだから、分からないことがあったら聴いて確かめるのが当たり前じゃないのか?」

「それをできない連中が多いから私は今まで苦労してきたの」


 笹原が被ってきた重荷の質は、他人には量れないものだ。

 言葉にしなければ伝わらず、しかし言葉がすべてを解決することもない。


「そうか。……お疲れ様?」

「どうして疑問形なのよ」

「いや、具体的な痛みも苦しみも知らないくせに同情するのもおかしい気がして」


 だからこそ、自身の領分を越えた事柄に対して、智史は憶測で動かない。その実直さを評価されているのだが、当人には自覚がなかった。

 笹原が覗き込むように智史の瞳の色を見る。何かを探り当てたのか、はたまた掴み損ねたのか。呆れつつ視線は戻された。


「そういうところよね、まったく……。けどまあ、ありがと」


 素直な謝意を耳にして智史は思わず頭を掻いた。笹原が向けるいくつかの感情は徐々に鋭さを失い、代わりに柔い温みを帯び始めている。態度の変化に精神がまだ追いつかず、反応に空白が生まれてしまう。現状を分析していては切りがない。

 今優先すべきは別のことである。


「それで、返すものは言葉だけなのかよ」


 本来の議題が進まないことに違和感を覚えた智史。対人関係の機微に敏い人間が金銭の問題を早急に解消しない理由はないはずだ。

 その思い込みが思考を著しく鈍らせる。


「――借りておくわ。いつか必ず返すから」


 沈黙が音を遠ざけていく。

 智史は長くもない単語の意味を滞る頭で噛み砕こうとする。

 早川も想定外の発言に戸惑っているようだった。


「……何を、言ってるんだ? たったの数百円……払えないわけじゃないんだろ?」

「払えるかどうかと、実際に払うかどうかは別問題じゃないかしら」

「仮にそうだとしても……こんなことをして、お前に得があるとは思えない」

「そんなに疑うこと?」

「少なくとも俺は御免だ。以前勝手に代金を肩代わりされた時だって、随分と腹が立ったのを覚えてる。なのに……。俺に貸しがある状態でも、笹原は平気でいられるのかよ」

「じゃあ無理矢理にでも『今すぐ返せ』って脅してみる?」

「…………は?」


 今度こそ、智史の脳内は前例にない事態を受け止めきれなかった。

 相手の理解を待たずして笹原の想像は続く。


「どういう要求が飛び出すんだろう? 今までの男連中だったら『友達から始めよう』とか『お互いの名前を呼び捨てにしたい』とか、そんなこと頼まれたっけ。『好きじゃなくても付き合うことで気持ちが変わるかもしれない』ってせがまれたこともあった。今までの殆どが低レベルな内容で、例を挙げればそれこそ切りがないくらい」


 まさに過去の鬱憤を晴らすかのような勢いである。


「本気で交際する気があるなら、もっと下心を隠せるようにならないと。言葉だけじゃ態度までは誤魔化せないのに。そもそも私は簡単に絆される女じゃないんだけどね」


 笹原が一方的に経験を語る中、智史は離散した集中力の立て直しに励む。

 男子が慌てふためく様を味わいつつ、余裕の女子が投じるのは誘うような煽り文句。


「さて、和島君は私に一体何をさせる気なのかしら?」

「俺は強引なことをするつもりはない!」


 智史は辛うじて最も起こりえない可能性を否定する。


「知ってる。優しいもんね、和島君は」

「別にそんなんじゃねえよ」

「じゃあ、どうするの?」

「どうするも何も、俺は……」


 気紛れに支払った数百円程度の出費は想定外の意味を伴う形で戻ってきた。理性と好奇心の天秤が傾き乱れ、不安定に揺れ動く。目の前に提示された決定の自由が魅力的に映ったこともまた事実だからである。

 さりとて現状の智史に用意できる選択肢は一つしか存在しない。

 何より他人の行動に深く干渉することを恐れている。その結果、被ることになるかもしれない損失を危惧している。

 狭かった視野が広く物事を捉えるようになろうとも。

 主張を押し通すには積極性が足りない。


「……だったら、私が返す日まで、気長に待っていてくれる?」


 数歩先を行く女の子は尻込みをする男の子に問いかけた。我儘を貫こうとする声音は柔らかく、多分の期待と一抹の不安とが入り交じる。

 その言葉の裏に忍ばされた思いに、まだ智史は気づけない。


「どうして、そこまで……」

「――お願い」


 本来の笹原なら自身の行動を異性に委ねるような発言はしないはずだった。金銭の貸し借りについても同様である。少額であるにせよ、それを清算せず先延ばしにすることは望ましくないだろう。

 しかし、笹原はこれを逆手に取る。

 友達になろうという槙野の申し出を断るような人間と関わっていくにはどうすべきか。曖昧な間柄ではいずれ途切れてしまうかもしれない。隣にいるための具体的な大義名分が必要となる。幸か不幸か、笹原は都合の利く建前に心当たりがあった。そして、受けた借りを大事に抱えて先延ばしすることを選んだ。


 友情や愛情といった気持ちを交わすことが不得手であるのなら、それ以外の方法で繋ぎ止めれば良い。今の状態を維持することで、二人の間には確実な結びつきが生まれる。無視できない利害が主軸であるからこそ突き崩すのは難しい。

 これは和島智史という男子の人柄を信用しているから実行できたことだ。成立すれば建て替えられた支払いが返済されるまで、両者の価値観に沿う形で隣人との能動的な交流を認めることが可能になる。


「でも、どうしても駄目だって言うなら、諦めるわ」


 セリフとは裏腹に眼差しは意思の強さを保ったままだ。

 男子生徒を頼ることなど皆無だった笹原が初めて真剣に希う。首を傾げ見上げるようにして、挙動すべてを逃さず真っ直ぐに捕まえている。

 わざとらしい不満に溢れた溜め息が落ちた。


「…………卑怯者」


 この瞳を、綺麗だと思ってしまった智史の負けである。

 一方の笹原は意地悪く微笑むだけだ。


「それで、答えは聞かせてくれないのかしら?」

「分かったよ。しばらくは貸しにしておくことにする」

「そう。ならいいの。……ありがとう」


 了解を得られたことに安堵して笹原は胸を撫で下ろす。

 自分に対して向けられた熱量はどこから来たものなのか、智史には理解が及ばない。これほど熱を帯びた頼み事をされたことはなく、異性からとなればなおのことだった。他者との交流が希薄な人間にとって存在を重要視されること自体がレアケース。悪意ならともかく、好意的な感情を受け止めることには慣れていない。

 唯一の例外はある程度の事情を知る大人の早川一人だけだった――それなのに。


「物好きな奴だよ、本当に」


 拒絶することができなかった。槙野の時のように笹原の申し出を押しやって、必要以上に近づかず距離を空けること。以前なら可能だったはずの行動を智史は躊躇ってしまった。

 誤解や勘違いを避けるために思考を巡らせて。これが単純な金銭を扱う合意に留まる話でないことは目星がついていて。相手を疑って真意を探り思考を深めるほど消去法の末に残った答えが信じらなくて。具体的に確かめるには過剰な自意識を晒す必要があって。憶測は実像を伴わずに微かな期待と不安だけが重なって。

 推察の域を出ないという不確実性が残る。

 交わされるのはあくまで義務的な合意であること。何よりこれは双方が同じ場所に留まるための口実である。智史にとっても妥協できるギリギリの手法だった。

 この約束が果たされてしまうまで、他愛ない日々が続いていく――。

 そんな未来を願ってしまった。


「そうかもしれないわね」


 今後の確認を終えて一段落した二人は顔を突き合わせて笑う。互いの不器用で面倒なやり口に呆れてしまうように。

 けれども約束は正式に結ばれた。

 形をとらない気持ちは未確定のままで。言葉に表さないからこそ繋ぎ止められるものも、ここにある。


「……さて。こっちの話は終わったし、不貞腐れちゃう前にそろそろ綾乃の相手もしてあげないとね」


 思い出したように切り替わる笹原の態度。智史も突拍子もない提案のせいですっかり意識から外れていた早川のほうを見る。


「あら、もういいの? もっと若い二人で色々楽しく盛り上がっても構わないのよ?」

「それじゃここに集まる意味がないじゃない」

「実際問題わたしは蚊帳の外だったわけだけど。あの空気の中だとわたしもさすがに口を挟めないわよねえ」


 智史と笹原に目を遣りながら早川は溜まっている愚痴を吐き出した。


「これからは控えるから。機嫌直してよ綾乃」

「由美奈はこう言ってるけど、和島くんはどうなの?」

「俺はどちらかというと被害者なので……責めるなら話を主導した笹原にしてください」

「何よ。私だけを悪者にしようって言うの? 発端は和島君が勝手に会計を肩代わりしたことにあるの、分かってる?」

「いや、素直に今返そうとしない奴のほうがおかしいからな」

「頼んでもいないことをそっちが先にやったんでしょ」

「諸々の不満はこの場で代金を払えば済むことだろ」

「それとこれとは話が違うのよ」

「なんでそうなるんだ、解消すべき原因はそこだけだろうが」

「……うっさいバーカ!」

「最後に出てくるのがただの罵倒って、いよいよ意味不明だぞ……」


 珍しい種類の笹原の悪態に違和感を覚えながら、智史は仲裁を求めて視線をずらす。

 苦言を呈したはずの早川は、遠くを見つめるような瞳をしていた。


「どうしたんですか先生?」

「え、ああ、うん。二人ともすっかり仲が良くなって、わたしの入り込む余地はもうなさそうだなって……」

「これは、仲が良いに含まれるんですかね」

「不仲ではないんじゃないかしら」

「……はあ」


 釈然としない息遣いは、それでも能動的な否定をしなかった。

 耳聡い笹原が些細な気がかりを尋ねる。


「綾乃は……入り込みたかったの?」


 不意打ちを受けた大人は束の間の驚きを露わにした。


「…………そんなんじゃありませーん」


 想定外の指摘を避けるために呟かれた口調は僅かに子供じみている。


「それにしても、してやられたわね。和島くん?」


 注意を逸らすために早川は二人の話へと引き戻そうとした。


「まったくですよ。こんな形で自分に帰ってくるとは本当に考えもしませんでしたから」

「そろそろ私を悪者みたいに扱うのやめてくれない?」


 不服そうに笹原が唇を尖らせる。


「冗談だって分かってても、自分の行動を男に決めさせるような発言を、他でもない笹原がするとは思わなかった」

「びっくりしたわよね。気の知れた仲だとして……仮にわたしがいる前だとしても、由美奈の口から簡単に出てくるような言葉じゃなかったもの」


 違う角度から振る舞いを見てきた二人が揃って意外性を持ち上げる。

 しかし、それは当然の帰結だと言わんばかりの返事があった。


「――和島くん、だからだよ」


 笹原が智史の姿を視界に認める。

 歳相応の少女の笑顔で、異性に対して声を贈る。

 友情とも愛情とも知れない感情が覗いていた。第三者に任せれば敬愛や恋慕だと唱えるだろうか。容易なイメージを当て嵌めて、他人の心に自身の物差しを押し付けてしまうだろうか。

 女性と親密な関係に至ったことのない智史は、その正体を暴くより前に身を捩った。


「教室に戻ります」

「まだ予冷も鳴ってないのに?」

「戻ります」


 早川の問いかけが引き出せたのは端的な反応だけ。

 いそいそと鞄の確認を済ませて智史は早々にソファから立ち上がる。まるでこの場から逃げるように急いでいた。笹原による異性を揺さぶるような発言が度重なり、ついに限界に達したのである。このままでは情けない姿を晒してしまうかもしれない。


「そんなに照れなくてもいいのに」

「……っ。うっせーな」


 痛いところを笹原に突かれ、智史はいつになく語気を荒らげる。

 上がった口角を悟られまいと女性二人から顔を背けた。


「照れるもんは照れるんだよアホ! 悪いか!」


 勢いだけの捨てゼリフを残して、少し強めの音を響かせてドアが閉まる。一連の所作を見送った笹原と早川は互いに目を遣って数秒、我慢も忘れて笑い出した。


「普段は仏頂面を崩さないくせに、こういう時は可愛いんだから」

「初めての距離感だったから調子に乗らないよう気をつけなきゃいけないんだけど、これは難しいかも」


 新しい玩具を見つけた子供のように笹原は無邪気だ。それでいて自制することも忘れてはいない。それほど智史のことを多面的に考えるようになっている。


「由美奈もだからね。男の子に対してあんな顔できたんだ?」


 異性への態度の軟化は、傍で実情を聞いてきた人間からすれば見過ごせない動きである。


「……私そこまで言われるような愉快な顔してた?」

「ええ。わたしが見てきた中でも相当よ。だから和島くんにとっても凄いインパクトだったんだと思う」

「こんなに驚かれるほど崩したつもりじゃなかったんだけどな」


 あくまで冷静に分析する笹原は自他の状態を客観的に考慮していた。

 今ある気持ちを軸に、けれどコミュニケーションの上限を弁えようとする。自身の心地良さだけを求めるばかりでは関係性は持続しないからだ。


「一つずつ知って、焦らず確かめていけばいいのよ。まあ、そのために引き伸ばしを提案したんでしょうけど」

「…………そうだね」


 笹原は穏やかな笑みを作る。

 気難しい相手に対しても適した行動を見出す、少女の大人びた姿勢があった。

 カウンセラーは改めて思い至る。

 今日の二人の間で交わされた一連のやり取りは、早川には決して真似できない芸当だ。大人として子供の素行を監督しなければならない立場にあるからこそ、金銭の貸し借りは望ましいものではない。本当の意味で肩を並べるには歳月という大きな壁がある。

 初めからそうだった。

 人として対等になることはできても、同等ではいられなかったのだ。


「和島くん以外が相手だったなら、こうはならなったんでしょうね」

「それは、正直私もそう思う。少し……癪だけどね」


 不満などないかのような明るい笑顔。

 和島智史と関わらなければ、引き出せなかった顔である。

 笹原由美奈は自らの意思で変わろうとしている。

 そして、その言動が一人の異性を、その心を動かすのかもしれない。

 早川と同じ献身的な慈愛では届かなかった。

 槙野と同じ積極的な物腰でも通じなかった。

 だからカウンセラーに選べるのは託すことばかり。


「さて、私も早めに教室に戻ろうかな」


 予鈴がなるより先に笹原はソファから立ち上がる。

 カウンセリングルームの主である人間は座ったまま、言葉だけを伝えた。


「……ええ。行ってらっしゃい」




 一人静かに子供の背中を見送った。

 傍にいることはできても、その隣に並ぶことはできない。

 生徒の過ごす教室は、大人が考えるよりも離れた場所にある。

 やがて、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

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