Episode 055 「先見の迷」

 現実は立ち位置を異にしている。

 高校生である二人はいつも、他愛もない口論を繰り返していた。

 同世代の人間として。

 思春期の男女として。

 他者との関わりに難を抱える者として。

 繊細で不器用な隣人と飾らずに言葉を交わし合う。

 この歳頃の時分でしか得られないものがあった。

 だから、それを近くで見守ってきたカウンセラーも、きっと。

 安易に割り込めない大人という肩書きを、忘れていたかったのかもしれない。


 ――――やがて。


 無自覚だった心の端が陽射しを浴びるよりも前。

 早川綾乃は淡く儚い願望を手放して、そっと静かに見送った。束の間に覗いた寂寞せきばくは、子供が知らぬままで息を潜める。先を行く影は後ろ髪を引かれ、けれど巻き戻すことはできない。

 呆れる少年に釣られて、綾乃は表情を綻ばせた。最後の弁当の中身を噛み締めてから飲み下す。実ることのない幾許かの感慨が滲んで、消えていく。

 二人の高校生と同じ景色を眺めることは叶わないのだ。誰に悟られることもなく、綾乃の羨望は胸の奥深くに秘められた。

 幼心のせいで役目を失念しないように戒めていると、和島から声が飛んだ。


「それで、質問には答えてくれないんですか?」

「質問?」

「どうしたら先生みたいに動じないでいられるのか」

「ああ、そうだったわね」


 居住まいを改めて、綾乃は返事を組み立てる。


「それは、わたしみたいになりたいって意味?」

「さすがにそこまで極端なことは考えてないですけど、一応参考までに。心構えとか普段から意識してることを教えてもらえたらなって」

「まったく同じようには無理だとしても、和島くんも積極的になろうと思えばできる人だと思うけどなあ」

「俺は、そういうタイプの人間じゃないですから」


 和島は自身を過小評価する傾向にある。これは謙遜に基づいた言動ではなく、自尊心の欠落によって成されていると綾乃は観ていた。

 重要な点は、精神的な割合が大きいということ。


「できるはずだよ。強い思い込みが働いてるからそう感じるだけであって、実行しようとすれば、それを叶えるだけの力が和島くんにはある」

「何を根拠に、そんな……」

「さっき、わたしのことを好きって言ってくれたでしょ」

「まあ、はい」


 和島は歳相応の少年らしく照れている。

 これは単純に好意を伝えることに不慣れであるからだろう。男女の恋愛感情に起因するものではないからこそ、親しさを表すために口にすることができたのだ。


「わたしは冗談のつもりだったし、本当に言ってくれるとは予想してなかった。でも、和島くんは言葉にした。普段はしないだけで、ちゃんと自分の気持ちを伝えることもできる。心の折り合いさえ整えられれば、できるんだよ」


 面と向かって眼差しを交わしながら綾乃は訴えかける。けれど、数秒を待たず和島は顔を背けてしまう。


「それは先生が相手だからですよ。それなりに事情を知ってくれている人だから。でも、他の人に対しては難しくて」

「難しいって感じる程度には、誰かのことを考えてるんだね」

「……違います。俺の頭の中にあるのは、いつだって自分のことばっかりだ」


 絞り出すように震える声音。

 自制心が強い人間は、他人が気にしない部分にまで意識が及び、余計な問題までも拾い上げてしまうことがある。理性に頼ればこそ自己判断の重みが著しくなっていくのだ。運の悪さや周囲の環境に原因を押し付けられず、本来背負うべきでない責任までもが一人の肩に集約される。

 おそらく、和島智史はそのような性分を抱えて生きてきたのだろう。誰にも迷惑をかけないのであれば、分け合えたはずの苦しみは一手に引き受けなければならない。


 ――だから、綾乃は独りぼっちの少年に寄り添うことを決めたのである。


「奇遇だね。わたしも、そうなんだよ」


 綾乃はいつの日も、この重荷を軽くする方法を模索している。

 僅かでも和島の心が安らぐように。


「嘘だ。先生は……、俺なんかとは違う」

「同じだよ。わたしは誰かに頼られるような、期待に応えられるような自分でいたい。そういう自分を肯定していたい。身勝手な自己満足で、少しでも多くの子供たちを助けられたらいいなって、そう願ってる」


 どの言葉がどこまで響くかには個人差がある。

 大人を映す子供の瞳は不確かな光で揺れていた。


「俺に優しくするのも、自己満足の一つなんですか?」

「そうだよ。痛みを知らなきゃ優しくなれないように、自分を満たせないままで他人を支えることはできない。人の心って、そういうものじゃない?」


 万人が納得する答えは存在しない。

 誠実さを貫くのであれば、嘘で飾らないことだ。


「がっかりした?」


 カウンセラーとして、一人の女性として、早川綾乃は今まで培ってきた見解を示した。これは個人が導いた結論であって、否定されても文句は言えない。反応が返ってくる時を静かに待つばかりである。

 ゆっくりと、和島は確認するように声を連ねる。


「……そんなことはないです。落胆とかそういうのじゃなくて。はっきりと断言されるとは思ってもなかったから」

「意外だったかしら?」

「むしろ逆ですよ。納得できました。先生も、というより誰でもきっと同じなんでしょうね。結局は、他でもない自分のためにしか、生きられない」


 一回り歳下の少年は、酷く残念そうに感じたままの現実を語る。

 だから、綾乃も分析した通りの見解を述べた。


「優しいんだね」

「どうして、今のを聞いてそんな結論になるんですか?」

「だってそうでしょう? ちゃんと他人と向き合って悩んで苦しまないと、その答えには届かないだろうから」


 他者の存在を理由にすることはできようとも、それが目的に変わることはないのだ。誰かに優しい自分、誰かを助けられる自分、誰かと一緒にいたいと思える自分、思考回路は常に自らの在り方で終止するようになっている。

 要すれば、純粋な意味で他人のことだけを願うことは叶わないだろう。主観は当事者のみが住むことのできる世界である。自他の違いを認識し区別することで個々の人格は形成されていく。自分の心は自分だけのものであり、他人の心は他人だけのものだ。


「でも、それで知ることができたのは、心の仕組みは変えようがないっていう事実だけだ。人が人である限り例外はないんだ。自己中心的で、周りが見えてなくて、他人のことを蔑ろにする人間を、俺はどうしても許せない」


 それは穢れを憎むような悲嘆の憂い。

 思春期に悩まされる少女が背負い続けたものと同種の諦観が根付いている。そして、それは外側へ向くばかりの代物ではない。綾乃にとって、和島自身もこの対象者の中に含れていることは看過できない不安材料の一つである。


「他人を気遣えない人は、そもそもこういう悩みを抱えないと思うんだけどな」


 配慮に欠ける人間は初めから自分以外の存在を重要視しない。その点を踏まえれば、和島は充分に心配りができていると言えるはず。しかし、当人は指摘を受け入れるつもりがないようだった。


「本当に気を遣えていたとしたら、俺はこの場所に足を運ぶこともなかったでしょうね」


 精神的な変化が見受けられるようになってきても、ネガティブな思考は未だに同居を続けている。その価値観は他者からの施しを頑なに遠ざけようとする嫌いがある。


「だけど、和島くんは変わらずここに来てくれる。わたしと会って、由美奈とも話をしてくれる。本当に自分の都合だけを優先する人だったなら、由美奈はきっと顔を合わせようともしなかったはずよ」

「過大評価です。俺は大した存在じゃない」

「そんなことない。和島くんの自己評価が低すぎるだけだと思う」


 即座に断言する綾乃。

 前向きな意見を述べたとして、ただ少年の目線だけが逸らされた。

 閉じられた心は未だ俯いてばかりいる。カウンセラーは扉を叩いて呼びかけることができても、強引に抉じ開けることまではできないでいた。

 綾乃と和島の間にある大きな溝。どれだけ親しくなり寄り添うことに努めても、大人と子供という構図から抜け出せない。しかし、手荒な手段を用いれば、距離が開く恐れもある。子供に加減をする大人のままでは優しすぎるのだろう。

 だからこそ、現状を変えるには綾乃以外の第三者が必要だったのだ。


「由美奈はきっと、和島智史を認めてるよ」

「先生から見たらの話でしょう? 実際のところは本人に確かめないと分からない」

「そうかな? 自分から男の子との二人っきりを選ぶなんて、今までにはなかったことだと思うけど」

「……先日のこと、知ってるんですね」

「まあね」


 和島と笹原が放課後にカフェへと出向いていたことは、当事者の一人に呼び出された時に耳にしていた。具体的な会話の内容まで把握しているわけではないが、綾乃は二人の関係に進展があったことを確信している。

 この場にいない人物の言及を受けて、和島は怪訝そうな顔をした。


「今日は話を掘り下げる日なんですか?」

「和島くんのお陰で、由美奈も少しずつ変わろうとしてる。できなかったことを、一つずつできるようになろうとしてる。自分の中にある大切な気持ちを諦めたくないから。だけど、和島くんは……」


 笹原は足掻き続けている。周りからの好奇の視線に晒されながら。たとえ理解を得られないことが多くとも。自らが信じる道を選ぼうとする。他の誰でもない自分自身のために。

 一方、和島が他者との関わりを避ける理由はどこにあるのか。親身に諭されても、友人になろうという申し出を受けても、関心を示してくれる隣人がいても。日頃から自主的な行動を起こすことに躊躇している。浮かび上がる可能性を数えては、想像の範疇に留まってしまう。

 いくらか前を向けるようになったとして、それでも。

 和島智史に最初の一歩を踏み出せない原因があるとすれば。

 代わりに、綾乃がその先へ進もうとした。


「――そんなに自分のことが嫌い?」

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