Episode 049 「ままならぬ現実」
追加で注文したアイスコーヒーを一口、由美奈は確かめるように味わう。
同学年の男子を見送ってから数十分が経とうとしていた。空いた皿やグラスは店員が下げてしまったため、テーブルの上にあるのは一人分の飲み物だけである。
放課後は淡々と過ぎていく。普通の高校生であれば、行動の自由を率先して謳歌することだろう。友人を誘って遊びに行くことも、自宅に帰って趣味に没頭することもできる。
しかし、由美奈は自らの判断で店に残り続けていた。和島との会話の余韻を噛み締めながら、一人で考える時間を必要としていたのだ。
耳に馴染む周囲の環境音や控えめなBGMが心を落ち着かせ、思考をより深いものへと導いていった――――。
過去の経験や当時の感情が脳裏を行き交う。繰り返し繰り返し、上書きされては否定して、積み上げては崩してきた価値観がある。
思春期は即物的な反応を誘発するケースが多い。分かりやすいものに感化され、単純な方向へ
心身の成長は、由美奈を取り巻く環境に大きな影響を及ぼすこととなった。自分の欲求を意識するようになった少年少女の関心は、優れた見た目を持つ人物へと向けられる。
疑問さえ持たない多数派が存在する、その一方で、そういう対象として扱われることを嫌がる人間がいる。不特定の衆目に晒されることがストレスになる場合もある。寛容な態度に留まる者がいれば、過度に拒絶を示す者もいる。
人と人とが関わって生きていく以上、簡単には解消されない問題だった。割り切ることができなければ、自意識は望まぬ下心を敏感に察知してしまう。
もし仮に恋愛に没頭できるような精神性でいられたら――という妄想を展開し、異性と触れ合う自分を思い浮かべては、由美奈の感覚がこれを破り捨てた。不純の眼差しを長く受け続けてきたせいで、男性を好意的に捉えることが適わなかったのだ。
原因は明らかである。けれど、生まれ持った容姿を恨むべきではない。それは両親に対して失礼である。そもそも由美奈は、自分の外見自体に不満があるわけではなかった。綺麗であると純粋に褒められたなら、素直に喜ぶこともできただろう。ルックスが整っていることは本人も当然に認めていることであり、自尊心の土台として大きな割合を占めていた。
だが、この事実はそれ以上の意味を含まない。
由美奈にとってそれは、良くも悪くもコンプレックスの一つなのである。
その発端は家庭環境にあった。
若くして由美奈を生んだ母は自らの美貌に絶対の自信を持っている。女性として美しい姿でありたいという願望を失わずにいる。求める上限が非常に高い人だった。一貫して我が強く、頻繁に父と口喧嘩をしていた。
父はその都度不満を零していたが、それを理由に別れを切り出すような素振りは見せなかった。結局のところ、父は母の綺麗な顔立ちに逆らえないのだ。あるいはそういった高飛車な部分さえも魅力として考えていたのだろう。
夫婦の在り方について、子供が口を挟むべきではないのかもしれない。
ただ、いつからか抱くようになった違和感がある。
『由美奈ちゃんはお母さんにそっくりね』
その文句は、由美奈の外見が大人びていくほど言われるようになった。
実の母とその娘。親子の二人は血の繋がった近しい存在である。
けれど、何より別の存在である。
我儘な母とは違った人間になりたい。由美奈は自ずとそう思うようになっていた。同じ女性として尊敬し見習うべき箇所も確かにあるのだが、同じようになりたいかと問われれば、そうだと答えることはできなかった。
容姿を過信して横柄に振る舞うことはなく。
異性と接する際に都合良く誘導することもなく。
由美奈は、堅実に生きていこうとした。
ただ――それは由美奈の個人的な願望に過ぎなかった。
周囲の対応までが改まるわけではない。
月日が巡るたびに。環境が大きく変わるごとに。身体的で表面的な成長をするほどに。それらは顕著になる。
様々な意味合いの眼差しを受け止めるようになった。
他人から向けられる視線は、他のそれとは違っていた。
同学年の生徒どころか教師の面々にまで範囲は及ぶ。
美人だからという、たった一つの要因だけで。
注目や関心が、集まってしまう。
失敗や過失が、許されてしまう。
発言や行動が、優先されてしまう。
他人に特別扱いを求めたことさえなかったにも関わらず。
周りとの明確な差が生まていった。
そして、それは望まない結果を招き始めた。
本人の直接的な働きがなくとも、間接的に誰かを傷つけることがある。
中学生の時の由美奈は、友達を作ることに後ろ向きではなかった。
音楽や小説といった共通の趣味を持つクラスメイトと話をすることも多かった。
しかし、それも長くは続かない。
『あんたって最近笹原さんと一緒にいるよね』
『見下されてない? 大丈夫? 釣り合いは取れてるの?』
『自分より劣る相手を見て優越感に浸ってるとか。可能性はあるかもよ。本当に対等に接してもらえてるのかな』
『あなたを心配して言ってるのよ。ああいう綺麗な見た目をした奴ほど性格悪かったりするからさ』
記憶には陰湿な悪意が焼き付いている。
由美奈の友人に対して、クラスメイトは
複数人の威圧は、個人の小さな善意を容赦なく踏み潰す。反論をすれば標的が誰に切り替わるのか、末路は自明の理である。
中傷の渦に巻き込まれることを恐れて、由美奈と親しかった者は距離を置くようになった。目を逸らすようになった。
加えて。
『ここしばらく一緒にいられなかったけど、調子はどう? 周りが変なこと言うようだったら私に相談してよ。友達でしょ?』
『……大丈夫だよ。笹原さんが心配しなくても、わたしは平気だから』
呼び捨てだった友人は、由美奈のことを名前で呼ばなくなった。
仲が良好だったはずの相手が、まるで他人のように余所余所しくなっていく。
何事についても率直に体現しようとする性分は反感を買うことも多い。それを好ましくないと考える人間が一定数は存在する。由美奈が抗議したとしても裏で流れる風評が途絶えることはない。表沙汰になっていない
同性からの心象は悪く、異性からの好意も信用することができない。多勢に対して味方のいない状況下では選べる手段も限られる。不測の事態を避けるには当たり前だったはずの関係を諦めるしかなかった。心を折ってでも、納得をしようとした。
だから、由美奈は思い込むことを決めたのである。
――被害を抑えることができるなら、他に望むものはない。
――無関心を装うことで友人が助かるのであれば、一人になろうとも構わない。
我慢さえすれば、自分以外の大切なものを守れると考えた。
独りになることで問題の原因を取り除くことができる、そう信じていたのだ。
中学校を卒業し、高校一年生になった春。
新しい環境に身を置いた由美奈は、クラスメイトと接することを避けた。過去に経験した失敗を繰り返さないよう、注意をし続けるつもりだったのである。願った通り、次第に関わろうとする同級生は減っていった。
それでも、アプローチを試みる者は依然として現れる。
相手は二年生の男子生徒。バスケ部のエースで、同学年から後輩、三年生の女子からも人気を得ていた人物だった。新入部員との繋がりを活用し、二人っきりになる場を設けて、交際を求めてきたのである。
由美奈はその呼び出しに応じた。
しかし、返事は最初から決まっていた。
『ごめんなさい。先輩とは付き合えません』
『理由を教えてくれないかな』
『私は、今はまだ誰とも付き合う気になれないんです』
自身の気持ちを、ただはっきりと伝えただけだった。
だというのに。
『……噂で聞いたよ。サッカー部の川島からの告白も断ったらしいね』
『まあ、はい』
唐突な話題の転換に、由美奈は相槌を打つ。その伝聞に誤解はないからだ。
どのような男性が迫ってきたとしても、誰かと寄り添うイメージができなかったのである。高校生になっても、対象の年齢が上下しても、積極的な恋愛感情を抱くことはなかった。
やがて、先輩の視線が好意から疑念へと転じる。
『どういうつもりか知らないけどさ、美人だからって、少し高望みし過ぎなんじゃないか?』
由美奈は確実に息詰まった。
告白を断ったこと、それ自体は変わりようのない事実である。
付き合う気がなかったことも、変わることのない理由である。
だとして、由美奈の行為がいかなる考えに基づくものなのか、推察する自由は誰にでもある。解釈の仕方が本人と同一になるとは限らない。
『そんなこと、私は――』
『君はもっと自分の価値を知ったほうがいいと思うよ』
その場に由美奈一人を残し、先輩は立ち去った。
実際問題として、高望みはしていたのかもしれない。
本当に欲しいものは手の届かない場所にあった。それ以外のものに心を奪われることはなかった。価値観を理解してもらうこと、外見ではなく中身が認められることを願っていた。
しかし、それは往々にして叶わない。
言葉はあらぬ方向へ飛んでいく。
行為はあらぬ誤解を生んでいく。
先輩の忠告を、由美奈は無意識に拒んだ。
肉体と精神の間に大きなズレがある。重要視されるのは表面ばかりだった。
美人、という記号が際限なく独り歩きする。
心だけが現実に追いつかなかった。
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