May : Day 05 - Part 2
Episode 042 「些細な契機」
昨日は今日に至り、学校内では変わらない日常が巡る。
カウンセリングルームへと続く廊下を行く智史の足取りは、いつになく心許ないものだった。単純な行動も余計な雑念のせいで精彩を欠くことになっている。
繰り返し脳裏に浮かんでいたのは、早川に指摘された自分自身の在り方についてである。夜を越え朝を経ても、智史の思考を惑わすように追いかけてくる自問自答。午前中の授業はノートの書き間違いが多かった。目前の集中すべきことに意識を向けらない。一度スイッチの入った回路は切り替わらずに働き続けていた。
昼休みになっても状態は一変しない。定まらない視線は何を捉えることもできない。矛盾と葛藤ばかりが内側で渦巻いている。
独り凝り固まっていた価値観が揺らぐ。
漠然と、現在のままでは立ち行かなくなることを予測できていて。しかし智史にはどうすればいいのかが分からなかった。
人間は一人でも自立して生きていくことができる。
けれど、それは他者との繋がりがゼロになるという意味ではない。
事務的なものであれ人と接することは避けられないのだから、一定の人付き合いが必要である。両親や家族、仕事仲間や友人関係、それらすべてを断ち切って文字通り『ひとり』でいることを選んでしまったなら、最低限度の生活さえも危うくなるだろう。
人生を全うするためには、誰かと何かを共有することが前提となる。
何事にも他人を頼らず日々を過ごそうとする人物にとって、その難題は大きく逃げることのできない壁であった。
智史はふと目線を上げた。カウンセリングルームのドアを通り過ぎていたことに気づく。頭を振って深呼吸をし、切り替わらない感情に無理矢理折り合いをつける。
どれだけ強がっていたとしても、心を寄せてしまう空間がある。
ほんの少しだけ素直になれる智史の居場所は、ここにしかないのだから。
「やっぱり、私は私の言葉で伝えるしかないよね――」
部屋の中には早川と笹原が揃っていた。テーブルには蓋をしたままの弁当が並ぶ。
ソファに座る二人は真剣に何事かについて話し合っている様子だった。
しかし智史の入室を認めると、笹原は逸早く口を噤んでしまう。
「いらっしゃい。じゃあお昼にしましょうか」
落ち着きがある早川の対応は普段通りのものだ。
智史はソファに腰を下ろして、鞄の中の弁当箱を探る。
「俺に聞かれちゃ困るような話でもしてたのか?」
「特別なことは何も」
「女の子には色々あるのよ」
「……そうですか」
大した興味もなかったため、智史は引っかかることもなく弁当の蓋を開けた。
いただきます、という三人の不揃いな挨拶から昼食は始まる。
一口二口を食べ進めたところで、早川は唐突な発言をした。
「ところで、和島くんは告白されたことある?」
予兆を見せない冷静な態度は、その緩急をより強く感じさせる。
智史は口に運ぼうとしたおかずを落としそうになる。ペットボトルの紅茶を飲む笹原も咳き込んでしまっていた。
「綾乃……」
「おかしかった? 減るものじゃないし、参考までに聞いてみたっていいでしょ」
「有益な経験談があるようには思えないけどね」
「そうですよ先生。そんな期待をしたって無駄です。俺をなんだと思ってるんですか」
「……きみこそ自分をなんだと思ってるのよ」
早川が呆れ混じりに、けれども少し寂しそうに呟いた。
気を取り直した智史はおかずと白米を咀嚼しお茶で喉を潤していく。
「さっきの二人の様子から察するに、モテる女は辛いよって話ですか?」
「そうなるのかな?」
「自慢話みたいなニュアンスにするの、やめてちょうだい」
笹原が煙たそうに不満を呈する。けれども、見当が的外れというわけではないようだった。否定にはなっていない言葉に対して、智史は
「で、不幸にも大勢の注目を集めてしまう麗しいお姫様は何をお悩みなんです?」
「……実は私、同年代の男の子に蹴りの一発や二発叩き込んでやりたいんだけど、実行していいと思う?」
「却下」
「姫の言うことを聞け愚民」
「残念、民草は愚かなので要望は耳に届きませんでしたとさ」
「口答えを。ならこっちは……」
続けようとした文言を、笹原はなぜか途中で自制してしまう。
智史は警戒を強める。だが相手が見ているのは別の存在だった。
「どうしたの? ほら続けて続けて」
仲裁役となるべき第三者の早川は、むしろ二人の口喧嘩を観戦しようとしているようだ。止める気はまったくないらしい。
期待の眼差しを向けられて、智史も笹原も溜飲を下げて食事に戻る。
「あら残念、好きなだけ言い合えばいいのに。やめちゃうんだ?」
「そろそろ学習しないと時間を無駄にするばかりなので」
「綾乃だって不毛な口論ばかりされても困るでしょ」
「わたし? いいのよわたしは。二人が楽しそうにしてるなら、それでも」
多様な関係性があることを知るカウンセラーは、問題ないと言わんばかりに微笑んだ。その場凌ぎの馴れ合いよりも、嘘のない小競り合いのほうが好ましいということか。
「別に、楽しくなんてないし」
「そうですよ。こんなくだらないなやり取り、ないほうがいいに決まってる」
何かを誤魔化すように無関心を装おう二人。双方が否定するための言葉を明確にする。
「まあ、どんなふうに関わるとしても、それはあなたたちの自由だからね」
早川は気ままに箸を動かすと、おかずのハンバーグを口に含んで舌鼓を打った。
それぞれが弁当の中身を片付け、食後の落ち着いた時間に身を置く頃のこと。
「失礼しまーす」
ノックの音に遅れてドアが開いた。現れたのは一人の男子生徒である。先客が二名いることに気づくと、もう一度窺うような声を発した。
「あれ、もしかしてタイミング悪かったですか?」
「ただ雑談してるだけよ。相談があるならすぐにでも用意するし、必要ならここにいる二人には席を外してもらうけど、どう?」
「あー、まあ……そうですね。おれ個人としては、意見は多いほうが助かりますけど……」
そこまでを言うと、その男子は智史と笹原の顔色を覗いた。
配慮を汲んだ早川が二人に問いかける。
「だって。どうする?」
「時間を持て余してたところだし、私は構わないわ」
「俺も特に問題ないですよ」
「オッケー。じゃあ、とりあえず座ってもらおうかしら」
世間話に気を緩めていたカウンセラーの切り替わりは早い。
状況を察した智史も行動を起こす。相談者が早川の正面に座れるように、自分のポジションを横へ移動させる。
「悪いな、わざわざ」
場所を譲られたことに対して礼を口にしながら、その男子は空いた場所に腰を下ろす。
すると。
「やっぱりおまえ……和島、だよな?」
「え、そうだけど。なんで――あっ」
ソファに並んだ男子二人は互いのことをしっかりと確認した。
智史はその顔を知っている。日々を過ごす教室の中で、自ずと視界に収まる位置にいるからだ。積極的な会話を交えたことはなかったが、同じクラスとなってから一ヶ月以上が過ぎている。
両者とも隣の席に座る相手のことは記憶に新しいようだった。
「なるほど、そりゃ名前を知ってるわけだ」
「だろ? じゃあついでに聞いとくけど、おれの名前は覚えてるか?」
その瞬間、智史の態度が硬直させた。
「ええと。あの、確か……
目が泳ぎ挙動はぎこちない。明らかに不自然で及び腰になっている。記憶の中の授業風景を思い返し、少ない情報と照らし合わせたが、智史は確証を持てなかった。
結果として、小さな笑い声が零れる。
「普段から話してるわけでもないし、別に間違えてたって怒らねえから。そんなに不安がるなよ。それにちゃんと合ってたぞ、名前」
一度言葉を区切ると、智史のクラスメイトは手を差し出した。
それから続きを口にする。
「じゃあ改めて、おれは藤沢
気取ることのないフランクな所作だった。
不慣れな智史は、その一連の流れの意味を考えてしまう。
日常的でない行動であるからこそ、次へ移るために時間がかかる。ここでの選択を誤れば今後に支障が出るかもしれない――という打算を打ち消すように、智史は遅れて握手に応じた。
「……和島智史だ。よろしく」
「おう」
戸惑いつつも智史は藤沢の表情と握った手の感触に意識を向ける。初めてクラスメイトとのまともなコミュニケーションを行ったのである。他人からすれば些細なことであったとしても、交流の乏しかった者にとっては大事に匹敵した。
「それにしても……いつも昼休みになったら教室を抜け出してるなとは思ってたけど、まさかここにいるとは。まあ、同じ男子として和島の気持ちは分からんでもないけどな」
藤沢は向かいのソファに座る二人の女性を盗み見た。クラスの壁を越えて噂される笹原と、大人の余裕を漂わせる早川。それを目当てにする生徒がいてもおかしくはない。
身の振る舞い方を決めあぐねていた智史は、その点を譲らなかった。
きっぱりと言い切る。
「――やめてくれ。そういうのじゃないんだ」
誤解を与えないように。そのような下心はないと示すために。智史は他人に迷惑がかからないよう注意を払う。
藤沢は一線を画す真剣な声音に驚いていた。
「仮にそういう理由だったとしても別におかしいことじゃないと思うんだが、そうなのか?」
「ああ、そうだ」
「…………なるほど」
少ない言葉数を受け止め、藤沢はそれ以上の追求をしなかった。
そこに、空気を仕切り直すための咳払いが割り込む。笹原は退屈そうに髪を弄っていた。
「教室でできる話をここでする意味はあまりないと思うんだけど?」
「それもそうだな。じゃあ早速だけど、聞いてもらえますか」
「ええ、どうぞ」
一人興味深そうに観察していた早川も改めて居住まいを整える。
藤沢は調子を改め、身の上を語り始めた。
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