第六章 その4 実験再開、そして

 翌日、俺たちは体育館裏にいた。例の漬物樽の置かれた、あの雑草が繁茂する一角だ。


「これでよし、と」


 5人がかりで小さな桶や水槽をありったけ準備し、体育館の裏に並べる。なみなみと蓄えられた液体はすべて実験のために条件を整えて薬品や洗剤を混合した水だ。


 ここまで運んでくるのは結構大変だったが、その分すべての作業を終えた達成感は大きい。


「あとはどんな生物が寄り付くか、観察したらええやろ」


「よかった、これで間に合いますね」


 汗だくになったトシちゃんがほっと胸を撫で下ろす。5月だというのに真夏並みの陽光のおかげで、他の女子たちも全員シャツがすけんばかりに汗ばんでいた。


「でも、本当に良かったんですか?」


 並べられた水を見遣りながら、申し訳なさそうに川勝が額の汗を拭う。


 実はこの実験のために、ゴールデンウィーク中に汲んだ地下水のほとんどを使ってしまったのだ。俺たち化学部が定量分析できるほどの量は残っていなかった。


「ええんよええんよ、うちらはいつでも実験できるからまた水汲めばええけど、生物部の研究は季節も関係するし早よせなあかんからな」


 先輩がもっともらしいことを言っているが、八割方自分が面倒な実験をしなくてもよいから、だろうな。


 てかまたあの地獄の稲荷山登山を敢行するつもりか? その水を運ぶのは誰なのか、そこまでちゃんと考えて発言しているんだろうな?


 だがともかく、思えばこの5人で何かをしたというのは昨日今日が初めてかもしれない。俺たち自然科学系の部は野球やサッカーと違い、明確な勝敗もつかなければみんなで協力して大きなことをする、といった機会が少ない。


 大変だった作業を通して、化学部と生物部、合併後も互いに見えない隔たりがあったのに一気に距離が近付いた気がする。


 俺が顔を向けると、心なしか全員がにかっと笑って返してくれる。おそらくは俺も同じような顔をしているのだろう。


「なあせっかくやし、今度の休みにみんなでぱあっと楽しいことせえへん?」


 思い立ったように部長が提案する。


 だがその反応は和やかで、全員が「ええですね」と賛同した。当然、俺も「そうですね」と珍しく肯定する。今の俺たちならこのまま二泊三日の旅行にさえ出ても良い気分だった。


「じゃあみんなでこれ見に行かへん?」


 原田がきらきらと目を輝かせてスマホの画面を見せつける。


 映し出されていたのは人気男性アイドルアニメの映画版、その公式サイトだった。たしかにこれなら河原町の映画館で上映されているだろうが……。


「うわ、イケメンばっかり……テレビアニメ見てんとわからへんのは趣味共有できる連中とだけ行け」


「ええ、このコめちゃカッコええやん!」


 そういう問題じゃないだろ。観客の99%が女オタの映画館に俺やトシちゃんがいたら浮き過ぎるわ。


 原田はぶうっと頬を膨らませながらも、眼鏡をはずして目元の汗をごしごしと拭き取っている川勝を見るなり「ねえねえ」と朗らかに声をかける。


「智子ちゃんはどう? どっか行きたい所とかない?」


 突如振られ、一瞬困惑の表情を浮かべる川勝。しばし考え込んだ後、彼女は眼鏡をかけながら「それじゃあ……」と小さく口を開いた。


「実は私、ずっと行ってみたかった所あるんですよ」




 土曜日の朝、俺たちはJR京都駅に集まっていた。


「おそーい!」


 外国人観光客や待ち合わせの人々でごった返す中央改札口前。電車を一本逃してしまった俺が着いた時には、既に丸岡部長、川勝、トシちゃんの3人が手すりにもたれかかりながら待っていた。


「すまんすまん」


 頭を掻きながらダッシュで駆け寄る。それにしても驚くほど高い天井だ。ここでガメラとイリスが戦ったんだと思うと感慨深いな。


「あれ、原田は?」


「シロー、こっちやで!」


 目を向けると、改札口の向こうから原田が手を振っていた。あいつは普段通学にJRを使っている関係で、ここで改札を抜けると余分に料金を払うことになるらしい。


 切符を買った俺たちは改札を抜け、琵琶湖線上り方向の新快速に乗車した。


 そしておよそ30分、降り立ったのは草津駅だ。草津市は琵琶湖に面した滋賀県南部の地方都市で、全国的にも人口の増えている市町村として有名である。ちなみに温泉で有名なのは群馬県の草津だ。


 そこからバスに揺られることさらに30分、俺たちが到着したのは田園風景広がる湖岸に建つ巨大な施設だった。


「初めて来たわ」


 滋賀県立琵琶湖博物館。そう書かれた看板の前で川勝が感慨深げに立ち尽くす。


「俺は2回目やな。言うて小学校の時やから、あんまし覚えてへんけど。珍しいな、お前が初めてって」


 俺は並んでポーズを取る原田と丸岡先輩をスマホで撮りながら尋ねた。


 川勝がくるりと振り返る。その顔は好奇心に輝いていた。


「うちの親、あんましこういう所連れて行ってくれへんたし。ここまで一人で来るのはちょっと遠くてな」


 まあ、ゲテモノ嫌いの親なら自然科学系の博物館は毛嫌いするだろうな。


 ここは琵琶湖をテーマにした総合博物館で、広大な館内に貝塚や遺構などの歴史資料、湖上船や漁具などの民俗資料、さらには琵琶湖周辺の生物の標本や地質標本、さらには世界各地の淡水魚を集めた水族館まで併設されている。博物館マニアとしてはかなり面白い場所として有名だ。


 体高4メートル近くはあろう巨大なコウガゾウの骨格標本の股の下をくぐり抜け、館内に再現された昭和時代の茅葺き屋根の民家に上がり込んで5人そろって意味も無くちゃぶ台を囲む。俺たちのような知的好奇心旺盛な高校生にはこの施設はあまりにも魅力的だった。


 そして最後に俺たちは水族館に向かう。淡水魚のみとはいえガラス張りの水中トンネルを抜ける時には全員がぽかんと口を開けたまま言葉を失い、俺たちはたちまち水の世界に引き込まれてしまった。


「全然動きませんね」


 岩の陰でじっと動かないオオサンショウウオを睨みつけ、トシちゃんが水槽のアクリル板をコツコツと叩く。こいつなら確かに岩の間から出られなくなってもおかしくはなさそうだ。


「きゃー、かわいい!」


 悠然と泳ぐバイカルアザラシに集まる子供たちに混じって、原田と部長が女の子らしい歓声を上げている。


 だがそんな女子たちとは明らかに異なる感性の持ち主が約1名。


「タ、タタタ、タガメやん!」


 川勝は口の端から涎を垂らしそうな勢いで、壁に埋め込まれた小さな水槽にべったりと顔を貼り付けていた。


「そんなに珍しいんか、こいつ?」


 展示されているのはタガメ。有名な水生昆虫だ。


「うん、昔は全国の水田や池で見られたんやけど、農薬に含まれる成分に弱くて今じゃ絶滅危惧種やね。おもしろいのはこの太い両腕を使って魚やカエルみたいな自分よりも大きな動物を捕まえて、ストロー状の口吻を突き刺して一見血を吸っているように見えるんやけど、実際は消化液を送り込んで体外消化で食べるっていう点やな」


「お前、本当に虫が好きなんやな」


 そんなおぞましい話をおもしろがる女子は探してもなかなかいないだろうな。


「生きとし生けるものは全部好きやで」


「カエルもか?」


 俺は隣の水槽をコツコツと叩く。どうやらここにはナガレヒキガエルが展示されているらしいが、こんな憎たらしい野郎目に入れたくもないので中は見ていない。


「……ガラス越しなら」


 川勝はぼそっと答えるが、一向にあちこち忙しなく泳ぎまわるタガメから目を離さない。こいつならこのまま永遠にタガメを眺めて居られそうな気がする。


「なあ、聞いていい?」


 だが意外なことに、早く行こうと俺が急かすよりも先に口を開いたのは川勝だった。川勝はカエルの水槽には見向きもせず、じっと眼鏡越しに俺を見つめる。


「本当に良かったん? うちらの研究のために化学部が割りを食う形になってしまったのに」


 内心何を言うのかと取り乱しかけたものの、研究のことだとわかった俺は安心して「なんや、まだそんなこと気にしてんのか」とけだるげに返した。


「俺は化学が好きや。だからお前が生物好きなこともわかる。そんなお前が研究できひんのが、耐えられへんてん」


「でも、それって化学部の研究をうちらが台無しにしたってことになるやん。白川君も化学好きなら、耐えられへんのちゃうん」


「まあそやけど……お前が一番研究熱心やからな。化学部と生物部、どっちがちゃんと研究してるか考えると、そっちに任せた方がええかって。ほら見てみいうちの先輩を」


 俺は原田やトシちゃんと一緒に、カメ池を覗き込んでいた先輩を指差す。ちょうど水面をぷかぷかと浮かんでいたイシガメやクサガメを見下ろし、アホみたいに手を振っている。


「あんな調子やったら100億倍熱心な生物部に賭けてみたくなるもんや」


 こうやって責任を押し付けるのに、先輩は格好の的だった。


 だが俺は強がっていた。正直なところ、化学部の研究が振り出しに戻ったのは残念だし、また水を汲んで定性分析からやり直すのかと思うと気分は憂鬱だ。


 だがそれでも……川勝が喜ぶならこれでいいかと、そう思えたのだ。生物部の方が熱心だから、なんてのは建前、表向きの理由だった。


 分厚い眼鏡のせいで川勝の顔は見えない。だが小さく「ありがとう」と言った時、彼女の顔は微笑んでいるように思えた。

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