第四章 その6 迷子の化学生物部

 石垣の前でアリジコクのごとく動かなくなった川勝を男ふたりで引きずりながら、俺たちは山道を通り抜けようやく薬力社にたどり着いたのだった。


 鬱蒼と茂る森の中、突如現れた立派な社。その周囲には奉納された小さな朱色の鳥居がうず高く積み上げられ、異様な神々しさを放っている。信心深くない人間であっても、ここで騒ぐようなことは自然と慎んでしまうだろう。


「わ、湧き水は……どこや?」


「あれやで!」


 先頭を行く先輩が指差す。大量の鳥居と祠の間、突き出した竹筒の先から麗らかな水がとうとうと流れ出している。足元の石畳に跳ね返り、その脇に透明な水の流れを作る様はちょっとした滝だ。


 これぞ薬力の滝、稲荷山の中でも最も奥にある行場である。


 よくこういう風景を見てマイナスイオンが出てるからリフレッシュ、みたいなことを宣伝する輩がいるが、理系の俺たちから言わせれば空気中の微粒子が負の電荷を帯びたところで具体的にどういう原理でどのような効果があるのか、しっかりと問い質したい。ここで身体に悪いプラスイオンを取り除いてくれる、なんて言ってる奴がいたら目の前で腐卵臭の硫化水素発生実験を敢行してやる。


 川勝と水のタンクの重みでふらふらになっていた俺は、湧き出す水に真っ先に手を伸ばす。皮膚を突き刺す冷たい水の清涼感を堪能しながら、そのままじゃばじゃばと掌で顔を濡らす。


「ぷはー、うめえ!」


 水しぶきを散らすいい男。だが女子たちの反応は冷ややかだった。


「被写体がシロやから全然絵にならへんな」


 原田が両手の親指と人差し指で四角形を作って俺を覗き込む。


「もっと逞しい雰囲気の男子おらへん?」


 そう言う先輩の顔をわくわくと目を輝かせながらトシちゃんが覗き込む。が、完全にスルーされている。男子諸君への散々な扱いはどこの部活でも普遍的に見られる事実だろう。


 先輩は俺を押しのけ、空の容器に湧水を入れる。10リットルのタンクはあっという間に水で満たされ、たぷたぷと聞き飽きた音を立てる。


「ふと思ったんですけど、これ誰が運ぶんですか?」


 じっと目を細めた俺の一言に、先輩が「まあ」と小さな悲鳴を上げる。


「白川君、うちらみたいなかよわい女の子に押し付けて平気なん?」


「女の子はいてもかよわいのはここにはいません」


 こんな時だけわざとらしく白川君て呼ぶな。


「んまっ、失礼な!」


 頬を膨らませて憤慨する先輩。おおい、胸とあわせて4つも丸袋できてるぞー。


 がははと大口を開けて笑う原田。やっぱりここには女子なんかいないような気がする。


「シロには女心なんて理解できませんよ」


 そんなもの姉ちゃん見てたらわかりたくもないと思うわ。男兄弟しかいない男子が憧れるほど、女子の生態は神秘に満ちているものでもないぞ。


 何せテレビ見ながら横になってたら上にのしかかってきて、すね毛抜いてくるからな。姉なんてそんなもんだ。


「トシちゃん、これ持ってくれ」


「はーい」


 ようやく頼りにされたことを喜んでか、トシちゃんは少し嬉しそうに俺からタンクを受け取る。


「さあ、かきご……やなくてサンプルも採集できたことやし、山を降りよっか!」


 今かき氷って言いかけただろ。この部長は化学生物部の活動を何だと思っているのか。




 今しがた通ってきた道を下山する俺たち5人。水の量が増えたせいか、余計に時間がかかっているような気がする。代わりばんこで水を運んでいるので、全員汗だくで無駄口を叩く気力も起きない。


「なあ、思ったんやけど」


 ただ黙々と山道を歩いていた時。原田がぜえぜえと息を切らしながら重々しく口を開く。


「うちら、道に迷ってへん?」


 全員の足がピタリと止まる。そして俺はずっと言い出したいのに言い出せない言葉を口からこぼしたのだった。


「……俺もそう思ってた」


 全員の冷たい視線が先頭を進む部長に注がれる。部長はわざとらしい笑みを浮かべて振り返った。


「こういう時はスマホで検索や」


 慌ててスマホの地図アプリをいじる。そして青ざめた笑顔をこちらに向けたまま、ゆっくりとスマホの画面をこちらに向けたのだった。


「見事に、木曽路はすべて山の中でございまーす」


 現在地は完全に道なき山の中だった。そりゃ当然だ、いくら地図アプリでも車の入れないような山道まで記載されているほど詳細なはずがない。


「ちょっと、こんな稲荷山で遭難しました、なんて笑えない冗談ですよ!」


 原田が呆れたように叫びながらへなへなと崩れる。


「水は20リットルあるから、しばらくは生存可能やで」


 部長が俺の手に提げたタンクを指差して宥めるが、原田は「誰のせいやと思ってんですか」と口を尖らせる。


「そんな大逸れた話でもないでしょ」


 俺はため息を吐きながら近くの木にもたれかかった。迷子とはいえ整備された山道、このまま進み続ければどこかに出られるだろうという安心感はあった。


「いや、わかりませんよ。隣のしょぼい滋賀県でも毎年遭難者は出てますし」


 神妙な面持ちでトシちゃんが呟く。滋賀県がしょぼいのは周知の事実だが、それとは関係ないだろ。


 メンバー各々がグダグダに疲れ果てる中、ひとり少し先に進んではじっと木々の間を覗き込む川勝。こんな時であっても珍しい昆虫を探しているのだろうか。


「あ、このクモの巣! ナミアゲハがきれいにひっかかってる」


 ほら、やっぱりな。俺が「こんな時にまで虫の観察なんかしない!」と叱りつけるが、川勝は嬉しそうな顔をこちらに向ける。


「これ、来た時に見た覚えあるわ」


 全員が「ええ!?」と声を揃える。ほんまかいなと驚きの方が、もしかしたらという期待を上回っていた。


「確か……この道!」


 川勝が指差したのは明るい方ではなく、むしろ暗く踏みならされていないような道だった。本当にこんな道、通ったっけな?


 だがこのまま座り込んでいても埒が明かない。俺たちは頷き合って男たちで水のタンクを抱え上げ、川勝を先頭に山道を進み始めたのだった。


 そんなこんなでしばらく歩く。やがて道が開け見覚えのある売店が見える。見事に新池にまでたどり着いたのだった。


「智子ちゃん、ファインプレー!」


 背の高い原田が小柄な川勝を後ろからぎゅっと抱きしめる。女子同士はなぜこうもスキンシップが激しいのだろう。


「智子さんは虫が絡めば恐ろしいまでの記憶力と集中力を発揮しますからね」


 そんな原田を羨ましそうにトシちゃんが眺めながら、すかさず川勝ageを挟み込む。


 だが俺は妙に静かなことに違和感を覚え、周りをきょろきょろと見回した。こんな風にめでたいときなら、絶対に騒ぎ出すはずなのに。


「……なあ、部長はどこ行った?」


 俺の一言に全員が「あ!」と固まる。青を通り越し緑になった顔を互いに向け、震えながらはははと小さく笑い合う。


「そういえば……いませんね」


「うち、さっきまですぐ後ろにいたと思ってたのに」


 その時だった。俺のポケットに入れていたスマホが震えたのだ。


 画面に表示されていたのは『丸岡部長』からの電話着信。慌ててスライドし、通話を始める。


「うえーん、シロー、今どこー?」


 涙混じりの部長の声だ。ざくざくと足音も聞こえるあたり、まだどこかを歩いているらしい。


「部長、俺たちもう新池まで着きましたよ。そっちはどこです?」


「ここ? ええと……東福寺やって」


 東福寺。京都の誇る世界遺産のひとつで、紅葉の名所。そんな臨済宗の大本山は、稲荷山を北川へと下った位置、JR奈良線でいえば伏見稲荷の最寄り駅からひとつ隣の駅に当たる。


「全く違う方向歩いてますやん!」


 初夏の空の下、俺はスマホに向かって怒鳴りつけた。


 結局、スマホで指示を出しながら駅まで先輩を誘導し、俺たちはJR京都駅で再会したのだった。それまでの間ずっと水のタンクを担がされていた男ふたりは合流した頃にはすっかりゾンビのようになっていたのは言うまでもない。

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