破:失う者達が得るもの
港近くに設けられた、巨大なテント。そこはその場しのぎで作られた作戦会議だった。
傷だらけの円卓を囲むのは、いずれも組織のトップを冠する者達で構成されている。
エクソシスト総長、聖歌隊責任者、魔女部隊代表代理、錬金術師局長、戦術歩兵部隊隊長、英国騎士団副団長。そして、大ニホン帝国軍外交官、御河辰之兵。
本来、外交官である辰之兵が帝国軍の責任者として一人だけで出てくるのはお門違いなのだが、なにぶん彼の肩書きは外交官だけではない。軍内では作戦参謀という役にも、関わっているのだ。
辰之兵は眼鏡の汚れを拭いながら、さりげなくため息を漏らす。
――どうしたものであるか。
会議室内は海底のように沈み込み、まともな作戦会議など行われていなかった。
今、しゃべっている錬金術師局長も、内容は被害報告だけ。それも『とある事情』には触れず、地雷原を踏み歩くように慎重に報告を続ける。
とある事情――それは先刻から、会議室で場違いの火花を散らす二人の人物が関わっていた。
今にも食ってかからんとするエクソシスト総長ギード。威力のある眼光に物怖じせずに涼しい顔をする英国騎士団“現”団長タリス。
二人の間で起こる冷戦には、そのとある事情に関与するものだった。
「おい、錬金術師。被害報告なんてどうでもいいんだよ」
視線をタリスに向けながらギードは、錬金術師局長の報告を押し潰す。
「俺たちには、生き残った市民を助けなきゃいけねぇんだよ。港でごった返しになってる市民の誘導と、難民受け入れ先の確保、備蓄した食糧配布に怪我人の治療……やるこたぁ沢山ある」
ギードの台詞は錬金術師局長に向けられているわけではなかった。
「なのに、だ! 同盟国の英国から、何の音沙汰もねぇとはどういうことだ!?」
先ほどから誰もが避けていた話題をギードは突き出す。
「……それは、僕がお答えしてもよろしいのでしょうか?」
ギードではなく、この場にいる全員に向けて質問が投げかけられる。
答えにくい質問だ――そう辰之兵は判断した。
おそらく、タリスが真実を口にすれば、英国騎士団は協力関係は完全に崩れるものとなる。
タリスが口にしようとしている真実……それは誰もが容易に想像がつくことだった。
――英国は、この国を見捨てたのであろう。
英国の考えは、残り少ない大陸の地を犠牲にして、再び悪魔達の抑止力となる結界を作り出す。順当に考えれば、それが最も妥当な答えである。
その答えが、本人の口から言われたらどうなるのであろうか。
結果は目に見えている。
自分達の国を裏切る相手と協力関係など結べるはずがない。
だから、グレーな状態で終わらせるのがベストなのだ。
今は同じ人間同士で争いをしているわけではない。それが、いくら自分の護衛を斬った男であろうと、だ。
ルシアを悪魔に渡したこと。
清六を斬ったこと。
確かに裏切り行為ではあった。それでも、彼らの行為を非難することは誰にもできない。この状況では、いくら裏切り者であっても力と呼べるものは必要だからだ。
「我が輩は聞きたくない」
辰之兵の発言を皮切りに、次々とタリスの提案に否定する言葉が上がる。
「――だ、そうですが、どうなさいますか? エクソシスト総長さん?」
「このっ! 腰抜けどもがっ! こいつはなぁ、俺の大切な姪を――」
「その先は言わない方が賢明だと僕は思いますよ? 悪魔達にこの国を蹂躙されたいというのなら、僕は構いませんが」
「おめぇって奴は……っ!」
ギードの沸点がどんどん近づいてくる。
まずいと思った辰之兵は、話のコマを進めることにした。
「一つ、この状況を打開する提案がある」
「あぁ!? チャンバラ野郎どもが、しゃしゃり出てくんな! 今は、おめぇらの出番じゃねぇんだよ! それとも何か!? おめぇらの小せぇ船で、この国の民を避難させられる“東洋の神秘”ってのがあんのか!?」
まくし立てる暴言に既視感を抱く。思い浮かべるのは、盾を背負った高飛車女……、まさか珠代との口論がここで役立つとは思わなかった。
ギードの高圧に負けることなく、辰之兵は話を続ける。
「策はある。――が、その前に、我が輩達の本当の目的を話すとしよう」
意趣返しと言わんばかりに、重大な情報を放り込む。
途端、ギードは目を剥き、大口を開きながらも罵倒は出てこなくなった。
なにせ、英国に裏切られたばかりの状況下で、これ以上の不安要素を持ち込まれては結束どころではない。
この場が静粛となり、全員の目が辰之兵に注がれる。
場の空気は出来上がる。緊迫感に満たされた状況を作ることは大切だった。
「我が輩達がここにいる理由は、ヨーロッパ共和国に助力することが目的ではない」
くぐもった声が雨音のように生まれる。
集まる視線に敵意が含まれているが、辰之兵は構わずに続けた。
「大ニホン帝国の……陛下の目的。それは悪魔の殲滅だ。いずれ神州の脅威となる大敵を討つ――それが陛下のご意志である」
「たかが軍艦三隻と、ヘタレ軍人どもに何ができるって言うんだよ」
嫌味を含んだギードの言葉に対して、辰之兵は腹を立てるわけでもなく、
「神風特攻である」
当然のように答えた。
「カミカゼ……トッコウ?」
「ニホン特有の戦術で、玉砕覚悟で特攻し、敵を道ずれにする――というものであるな」
「なっ!? おめぇ、馬鹿か!?」
「何を言っているのだ。非常に効率のいい戦術なのだぞ?」
「そういう問題じゃねぇ! おめぇは俺達に死ねって言ってんのか!?」
額に青筋を浮かばせ、ギードが円卓を叩く。
「別に、あなた方にお願いするつもりなどない。初めから我が輩達は自分達だけで行おうと思っていたのだ」
「あの悪魔の数を見ただろうが! 正面から突っ込んでも、そのカミカゼなんとかっていう奴じゃあ、何の成果も挙げらんねぇんだよ! 犬死にでしかねぇ!」
ギードの物言いに、辰之兵は重要なことを説明していないことを思い出した。
「言い忘れていたが、神風特攻は相手の拠点を叩くのが前提である」
何も敵陣に突っ込むだけなら、戦術とは言えない。神風特攻はわずかで大切な命と引き替えに、いかに敵の損害を大きくするかが重要だ。
「それには二つほど問題があるように思えるのですが?」
唐突にタリスが口を挟んでくる。
「一つ、あなたの言う悪魔の本拠地がどこにあるのか不明なこと。二つ目は、本拠地までたどり着く方法が今の我々にはないこと」
投げかけられた質問に、辰之兵は顔をしかめる。
「……ふむ? 我が輩の持っている情報とは大きく異なるようだ。ご説明いただけるかな? 魔女部隊代表代理――アンナ・ストレームさん?」
アンナは口を閉ざし、彫像のように円卓の席に座していた。
「悪魔の拠点は、旧スペイン帝国の地にあります」
目を伏せたまま、アンナは唐突と答える。
「どういう……ことだ? なんで、おめぇが知ってる?」
「エローラが率いる調査団からの情報です」
「調査団だと……!?」
エローラの血を引く者が、ごく少数の部下を従え、結界内部に侵入する。目的は結界内の情報収集だが、その情報が結界内部から届いた試しは一度もない――はずだった。
「悪魔たちが襲来してきたとき、風の精霊による伝達で、魔女ソフィア=カルデナスの居所の情報が送られてきたんです。細かい分析は無理でしたが、本拠地の位置は判明しました」
「なぜ今まで黙っていた!?」
ギードが食いつくが、アンナはゆっくりと視線を上げ、ギードではなくタリスの方向を見る。
「情報は不確かでした。これが本当に調査団からのものであるのかを証明するのに時間がかかり、今に至っています」
口ではそう説明しながらも、本心はアンナの眼が語っている。
問題は英国だ。
このヨーロッパ共和国が陥落すれば、次に英国が矢面に立たされる。我が身を護る必死さゆえに、どのような行動に出るか分からない。
情報を出すタイミングは、慎重にならざるを得なかった。
「しかし、ですね。敵の本拠地が分かっていても、そこに辿り着くのは不可能でしょう」
言い返すのはタリス。静かな口調であったものの、声音には険を含んでいる。
返し手を食らいながらもアンナは動じることなく、用意してあった単語を口にした。
「第五元素です」
「……!?」
会議室内のどよめきが強くなる。静かな水面に小さな波が生まれ、勢いをつけるように大きくなっていく。
「第五元素が『確立』したのか……!」
ギードが椅子をガタリと揺らし、問いかけた。
「いえ、無理です。第五元素において、その“第五元素を司る何か”を『確立』することなどできません」
「……我が輩には何が何だか分からぬのだが……説明してくれるだろうか?」
「御河さん。例えば、あなたが体調を崩しました。そうした場合、元気になるためには、御河さんはどうしますか?」
医者にかかる、という愚直なことを言いかけて、辰之兵は言葉を呑んだ。
おそらく、辰之兵が言おうとしていたことは正しいのだろうが、アンナが求めているのはもう一歩進んだ答えなのだろう。
「体調を崩した原因を探る……ということであるか?」
「はい。その通りです。物事にはすべて理由があります。そこに超常的現象が起きたのならば、何がその現象を起こしたのかを探るんです。
例えば、酸素も火種も燃焼物もない状態で、火を出せたとき、私達はその現象は火の精霊サラマンダーによるものだと解釈しています。この解釈こそが、先ほど話した存在を『確立』する、ということです」
辰之兵は寺子屋の授業を思い出しつつ、アンナの説明を咀嚼していく。
「つまり、第五元素は精霊に適応する存在がいないということか」
「ええ、そういうことです。第五元素は“有って無いようなもの”だからです」
「有って無い?」
「第一元素“火”、第二元素“水”、第三元素“土”、第四元素“空気”……そして、第五元素は“存在”。森羅万象、石ころ一つから人間まで“存在”という元素が関与しています。しかし“存在”を証明することなどできません。今までの魔術研究からは懸け離れた異端の元素なんです。ですから、“存在”の元素が有るということ事態が、不安定で不確定なことなんです。扱いとしては幽霊やUFOなどと同等でしょう」
数時間前のアンナから第五元素について聞いたときには、単なる「大がかりな移動術」としか説明されなかったが、これでは話が違う。まるで半分しか出来上がっていない設計図を見せられているようなものだ。
「ストレームさん、今更だが、そんなものが本当に使えるか?」
「えぇ。大丈夫です」
余分な説明を加えない。自信があるのだろう。
アンナの瞳に宿った力強い意志が全てを物語っている。
こういう眼の持ち主と、辰之兵は幾度となく出会ってきた。そのほとんどが最高の好機に最大の功績を叩き出す輩ばかりだ。
失敗はしない。リスクがない、と辰之兵は判断した。
「っと、余談が過ぎたようであるな」
ギラつくギードを意識して、話題を元の軌道に戻す。
「結論として、我が輩達の作戦は至極単純。第五元素という魔術で敵拠点に突入し、敵の主将を討ち取る」
「無理に決まってんだろうが……!」
「故の神風特攻。我が国が、欲するのは人命ではなく、勝利という結果のみ」
辰之兵が断言する。
他の者達は固唾を呑み、困惑の色を強くしていた。
「余所者だからこそ言わせてもらおう。リスクを厭わずに勝利は掴めん。国を救おうというときに、国を滅ぼすほどの
問う。
だが、誰も答えない。
「いつ、あの悪夢が再発するかも分からない状況で、ただ立ち止まっていろと言うのであるなら、我が輩達は己の力だけで敵陣へと行かせてもらおう」
これ以上、話し合いに参加する必要がないと判断した辰之兵は席から立とうとして――
「勝てんのか?」
その声に動きを止めた。
闇の中で手探りするような問いに、辰之兵は薄く笑う。馬鹿にしているわけではない。ようやく会議室が海底から浮上してくることが嬉しかったのだ。
「神州・大ニホン帝国。我が国の戦に、敗北という結果は知らない。ただ――」
辰之兵は言い放った。
「あなた方さえ協力してくれれば、勝利は約束されたようなものである」
+++
ここがどこだか分からない。
昨日の悪夢が嘘のように、空は青く雲一つない。
しかし、町は悪夢の存在を証明していた。
崩れ果てた家、へし折られた木々、荒れる道、床に転がる――死体。
したい、したい、したい。
進めば進むほど、逃げようと思えば逃げようと思うほど、ルシアの視界には死体が入り込む。
人目を避けて、裏道ばかりを通るのが悪いのかもしれない。
眼鏡のレンズにこびり付いた汚れのように、視界から死体が消えない。
どこに行っても、どうやって逃げても……まるで自分を手招きしているように死体どもは、まとわりついてくる。
こっちへ来いと――言っているのだ。
最初は吐き気がしていた。だが、それもすでに麻痺した。麻痺した感情は苛立ちへと代わり、フラストレーションは物言わぬ死体にぶつけられた。
消えろ。
消えろ。
消えろ消えろ消えろ消えろ!
「私は……死なない!」
死んでやるもんか。
生きたい。何が何でも生きたい。
死んだらそこで終わりだ。楽しいこともできないし、美味しい物も食べれない。恋もできない。
できない。何も。
「うぅ……うぅぅ……!」
胸の奥から、じわじわと溢れ出てくる涙の感情。
ルシアは耐えきれずに、細道の塀に寄りかかった。顔をゆがめ、ぼろぼろと落ちる涙を何度も袖で拭う。
嗚咽が止まらない。
生きたい。
もっと、もっと、やりたいことがある。
楽しく過ごしたい。
ジネットやマルティナ、叔父さん、叔母さん、アンナ先生、魔女科の友達……みんながみんな笑顔でいれば、それでいいのに。
「どうしてっ……!」
こんなことになっているのか。
何が悪いの? 誰が悪いの?
どうしていれば、この悪夢から解放されたの?
「こんなの……あんまりだよ……」
感情が治まらない。
弁が壊れたように涙が流れ落ち、しゃくりあげる。
鳴いて、泣いて。声を嗄らして、喉を涸らして。幼子のように泣きわめいた。
そして。
「見つけたぜ。この馬鹿女、テメェ何様のつもりだ」
突如として聞こえてきた声に、ルシアは身を震わせた。
いつの間にか、目の前に、大盾を背負った和服の少女が立っている。
少女――珠代は筆で描いたような整った眉を傾け、鋭い剣幕でルシアを睨む。
「さっさと帰るぞ。……ったく、なんで俺がテメェなんかを連れて帰んなきゃいけねぇんだよ。マジうぜぇ。死ね、あの七三分け」
ぶつくさと文句を言いながら珠代が歩き出す。だが、ルシアはその場から動こうとはしなかった。
「……嫌」
「あぁ?」
珠代が振り返り様に、不服の声を出す。
「あなたも……私を殺すつもりなんでしょう? 嫌……絶対、私はついていかない」
「テメェ、何言ってんだ? 悪魔にでも洗脳されて……ああ、なるほどな、これが“不和”か」
「悪魔はそっちでしょ! そうやって私をあの塔に戻して、殺すつもりなんでしょ! みんなのために、国のためにとか言って、私を生け贄にして! そんなの……そんなのおかしい! 誰かために死ぬなんて、私は絶対に嫌!」
「……」
剣呑だった珠代の態度が、変わる。
全身の力が抜けるように無気力な珠代の表情。
ルシアをぼーっと見つめ、そして、
「そっか。うん、じゃあ、逃げろよ」
決して突き飛ばすような口調ではなかった。むしろ、表情は穏やかで、優しさが含まれているようにも感じる。
「テメェの事情なんか、全然知らなかったし興味なかったが……なるほどな。テメェの意志がそうなら、テメェ自身が犠牲になる必要はねぇ」
「それ……どういうこと……ですか?」
あまりにも意外な言葉にルシアは呆気に取られた。
「うるせぇなぁ。いいんだよ。いいから消えろ」
ルシアは、目の前の少女について思い出す。
蓬莱珠代はすでに死んでいる。死んでなお、この世に留まり続ける幽霊。そして、彼女が死んだ理由は――兄である清六のため。
「なに見てんだよ。テメェ、死にたくねぇんだろ? だったら、早く逃げろ」
ルシアには彼女の言っていることが信じられなかった。
まるでそれが当然のように、自分がしたことを否定している。
「タマヨ……さん」
「あんだよ?」
「どうして、私を逃がしてくれるんですか? おかしいですよ。タマヨさん、怒らないんですか? 私は逃げてるのに……こんな私を見て、腹立たしくないんですか? あなたと私は似ているのに……」
精霊塔では誰もが口々に、大衆のために死ぬことは当たり前だと言っていた。なのに、酷似した境遇に立っていたはずの珠代は、自分に対して何の怒りも抱いていない。
普通なら羨み、同時に憎むはずだ。自分と同じ末路を辿らないルシアに、憤りを感じるはずだ。
なのに――
「ヴァ~カ」
珠代は口を大きく広げて、そう言った。
「テメェと俺が似てる? ふざけんな。自惚れんな。笑わせんな。テメェと俺は全然ちげぇ。俺は自ら死んだんだ。大好きな……いや、愛してる清六のためにな! 言うなら、あれは婚姻の儀なんだよ! 愛の結晶だ! それを――それを、だ! テメェみてぇな嫌々殺される悪魔儀式と一緒にすんじゃねぇ! 死ぬ必要のねぇ、死にたくもねぇ奴が殺される儀式と、俺達の神聖な儀式を同等にすんな! ヴァァァァァカ!」
息継ぎ無しに珠代は怒鳴り散らし、ルシアの鼻先に人差し指を突き立てる。
「いいか!? 俺はテメェとは違う! だから、テメェは俺とは違う! テメェはテメェだ! 自分の生き方ぐらい、自分で決めやがれッ!」
電流が全身を駆けていくような感覚がした。それでいて、視界が開けるような不思議な感覚。
二元論でしかなかった自分の考えが砕かれていくようだった。
罵倒がピリオドを迎えた途端、珠代は肩で息をし始める。幽霊であるはずなのに。
「はぁはぁ……あぁ……クソッ! はっ……ふぅ……なんか…………ムカついてきたぜ……」
「あの……私は、どうすればいいんですか?」
「あ? 知らねぇよ。自分で考えろよ。自分の考えを纏めて、固めて、ひっくるめて……全部が良い方向になる方法を自分で見つけ出せよ。テメェとは違う俺は、そうしなかったけどな」
「すべてが良い方向になる方法……」
そんなものはない、と思った。
その考えと重ねるように、
「カカカカッ! コンチハー! ルシアちャん、ムカえにキたよッ!」
甲高い声音が割って入る。
死体の山の傍に立つ、隻腕の悪魔――アンドラス。
翼を隠し、一般人になりすましたアンドラスは、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
「テメェ……!? 結界の中に戻ったんじゃねぇのかよ!」
「へッ? だッて、そもそもボクがモドらなきャいけないリユーなんて、ないでしョ? カカカカカカッ! オバカだね、バケモノちャんは!」
「チッ! クソがッ……! おい、逃げろ! 今の俺じゃあ、こいつの相手なんかできねぇ!」
「んんー? そうなのー? それはイーこと聞いちャッたなァ!」
アンドラスは目を弓にして笑う。
「じャあ、オトナシく指をくわえて、ルシアちャんがツれされていくトコロをミててネー!」
背中を向け、珠代はルシアをかばうように前に出た。
「トロトロしてんじゃねぇ! テメェは、ここで死にたかねぇんだろ!?」
「――!?」
珠代の行動に息を呑んだ。
「でも、タマヨさんが――」
「ヴァカ! これはテメェが決めたことだろうが! 生きてぇんだろ!? 死にたくねぇんだろ!? そのために逃げてきたんだろっ!? だったら、さっさと逃げやがれ! どんな犠牲も払っても、テメェが生きるために逃げやがれ!」
叱咤されても、ルシアは動けなかった。
足が震える。テントから逃げ出したときは、あれほど簡単に走れたのに、今は神経が通っていないように両足が石化している。
「駄目。タマヨさんが……死んじゃう」
自分がここで逃げ出したらどうなるかが明確に分かっているから、動けない。
ここで逃げれば珠代が死ぬ。幽霊であろうが、その世にいる限りは、終わりというものが存在するはず。
つまり、それは自分が殺すようなものだ。
だから動けない。
「キャー! バケモノちャん、カッコイー! ボク、惚れちャいそうだヨッ!」
「あいにく、俺には超かっこいい夫がいんだよ。つうか、テメェに惚れられるとか、マジ気持ち悪ぃんだよ。死ね」
「あァ。夫ッて、もしかしてサムライ? シんでないんだ?」
「ヴァカ。清六が簡単に死ぬはずねぇだろ。俺の夫だぞ」
会話を交わしながら、珠代は背に回した右手でルシアを追い払うようなジェスチャーをする。
行け、と言っている。
そうなのにも関わらず、ルシアは逃げ出せなかった。
――足が動かないから。
――怖くて逃げ出す勇気が出ないから。
心は体のせいにして、体は心のせいにする。その矛盾した輪の上で、ぐるぐると意志がさまよう。
珠代を見捨てれば、命は助かる。彼女とは数えるほどしか言葉を交わしていない間柄だ。死んでしまっても胸を痛めるのは一時だけ。
逃げてもいい――彼女は、それを許容している。
『全部が良い方向になる方法を見つけろよ。テメェとは違う俺は、そうしなかったけどな』
そんな都合の良い方法は存在しない。
だから、ルシアは何の決断も下せなかった。
小さく蹲り、譫言のように答を求める。それくらいのことしか、今の彼女には出来ない。
アンドラスと珠代が動く。
ルシアは、動けなかった。
+++
誰かに呼ばれるような声を聞き、清六は目覚めた。
見知らぬ天井が視界一面に広がる。布地の天井から察するに、屋内ではなく、ここはテントであるようだ。
身を起こそうとするが、倦怠感に襲われる。まるでずぶ濡れになった服を身に纏っているかのような気だるさに、一度持ち上げた頭を再び枕に埋めた。
空白な記憶に、流水の如く気を失うまでの情報がなだれ込んでくる。
「ルシア殿……! あぐぅ!」
跳ね起きた瞬間、腹部に突き刺さるような激痛が走り、背を丸めた。
痛みに堪えながら、清六は奥歯を噛みしめる。
自分の記憶にあるのは、背後からタリスに斬りつけられ、ルシアが連れ去られていく光景だった。
「…………拙者は……何もできなかったでござるか……」
苦渋の念が胸を締め付ける。
「あんただけじゃねぇよ」
独白に対する答えが返ってきた。
「……珠代?」
ベッドの脇――清六に背を向け、ベッドに寄りかかるようにして地べたに座る珠代。
「何もできなかったぜ、俺も。ただあの女が連れ去られていくのを指くわえて、見てるしかなかった……」
なぜか、珠代はこちらと顔を合わせずに言い続けた。
「俺ってダセェな」
自虐の言葉を口にする珠代に対して、清六は慰めようとはしなかった。不用意な気遣いは珠代のプライドを傷つけるだけだ。
「なぁ、清六……」
「何でござるか?」
珠代は立ち上がり、清六と目を合わせた。
彼女の瞳には、決意の灯火が映っている。そこに、負の感情は一欠片もない。
「あのクソ悪魔、ぶちのめすぞ。さんざん、俺をバカにしやがったことを後悔させてやる」
弱まっていた声に活力が戻る。
「だから、あんたは本気を出せ。何も怖がんじゃねぇ。俺がついてる」
背中を強く押してくれる言葉。それはいつも弱気な清六を支え、導き、奮い立たせる万能薬である。
清六は傷の痛みなど忘れ、珠代に拳を突き出す。
景気な拳打が返ってきた。
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