第10話 心の闇、そして対峙

 初めて憧れたのは、小さい頃、テレビで見た短距離の陸上選手だった。

 一直線のトラックをほんの10秒そこらで駆け抜けて、ゴール。ハイ、それで試合終了。

 ただそれだけなんだよ?

 でも、なんでだろうね、それだけなのに、すごく、ものすごく憧れたんだ。

 あれくらい速く、走ってみたい。

 そう思って、体育の時間や、昼休みに友達と遊ぶ時は目一杯、全力で走った。

 そうしてれば、少しでも、あの憧れの姿に近づけると思ったから。

 でも––––

 小学校3年の頃、体力測定の時間があった。

 種目は50メートル走だ。

「はい。次のペアは、千歳さんと御岳さんね。スタート位置について。」

 担任の先生がそう声をかける。

 –––どれくらい速くなってるかな?

 幼い頃の私は、この時間が怖くもあり、少し楽しみでもあった。だって、どれくらい自分が速くなってるのかが知りたかったから。

 でも、逆にあんまり速くなってなかったらどうしよう、そんな恐怖感も感じていた。

 –––大丈夫。今度こそ、いける。

 幼い私はそう自分を奮い立たせ、不安を吹き飛ばそうと努めた。

 不安、期待。そんな2つの感情がごちゃまぜになった気持ちを抱えながら、スタート位置に立ち、構える。

「位置について、用意・・・」

 先生が手を上げる。

 神経をとがらせる。そのせいか足に力が入って、じゃり、と砂の音がした。

「どん!」

 口上の号砲と共に、先生の手が振り下ろされるのがわかる。素早く、私は前へ飛び出す。

 走る、必死に走る。足を前に大きく、最大限早く繰り出す。でも、

 前に進まない。前に進めている気がしないのだ。

 私がもたついてる間にも、友達はどんどん前に進む。

 背中がどんどん離れていく。

 あぁ、またか、と心の中で呟いた。

 期待が落胆に、不安が確信に変わる。

 でも、しっかり走らなくてはいけないから、必死に走る。

 友達より2秒強程遅れてゴールした。

 タイムは、確か12秒とか、そんなところだった記憶がある。

 確か後で調べたけど小学校3年生の50メートル走の平均タイムは9秒7から11秒1あたりらしい。

 そう、私は足が遅いのだ。極端に。

 小学校4年生くらいまではずっと、50メートル走のタイムはビリから1.2番目だった。

 でも、それでも、諦めきれなかった。憧れに近づきたくて、毎年体力測定があるたびに、淡い期待を抱いていた。

 小学校6年生になって、ようやくタイムが平均レベルに追いついた。

 その時は少し嬉しかった。なんだ、私でも速くなれるじゃん。その時は、そう思った。

 中学に入って、部活動を選択するとき、私は迷わず陸上部を選んだ。新しい環境と本格的な練習内容、これからのことを想像すると心が踊った。

 でも、どうしようもない壁が、私の前に立ち塞がった。

 みんな、速い–––。

 一番遅い子でも、私より0.5秒ほど速かった。

 考えてみれば、当たり前だったんだ。中学校で部活動に入るとなれば、それこそ全員とは言わないが、足に自信のある人たちが多く集まる。

 そして、みんなは日を重ねるにつれてどんどん速くなっていく。私もついて行こう、追い抜こうともがいた。フォームの改善も試みた。自分で調べて新しい練習法も自主練で取り入れたりもした。

 でも、成果は芳しくなかった。

 部内でドベだったタイムの順位が、1つ2つ上がったくらいだ。

ある時、こんな話をを聞いてしまった。

部活を終えて帰ろうとしていた時、陸上部の女子が何やら話していた。

「千歳さんってさぁ、やっぱり遅いよね」

「うんうん、毎日練習頑張ってるみたいだけどさぁ、全然結果付いてきてないし・・・」

「何のために部活にいるんだろうねー。悲しくなってってこないのかな?あんなに遅いのにさ。」

「ほんとほんと、ある意味すごいよ」

私の、私への、悪口ともとれる内容だった。

もちろんそれに傷ついたのもあるけど、それだけじゃない。

何か、どうしようもないものを突きつけられた気がした。

私は逃げるようにその場を後にして、走って家に帰り、親にすごく心配されたけど、一晩中部屋から出ずに泣いた。声を押し殺しながら。

 結局引退まで、速い人達に追いつけることはなかった。

 短距離は6割方資質だ、と誰かが言っていた気がする。その資質を私は持っていなかったのだ。

 それでもまだ、高校に入って陸上に関わっているのは、未練があるからだ。

 うん、情けないなぁ、と、自分でも思う。

 そんな中、大麦君に出会った。

 彼は中学時代、上手く物が言えず、どこか抜けている性格から、大変な思いをしたらしい。

 そのためか、とにかく変わろうとしていた。

 自分からクラスのみんなと関わり合おうとしていた。部活動も、真剣に取り組んでいた。

 一年の頃、夜遅くまで、よく筋トレルームでバーベルを持ち上げていたのを、よく覚えている。

 前に進もうともがいているけど、空回りしてしまう、そんな姿が、今までの私とダブって見えた。

 だから無性に応援したくなったのだ。

 私からも彼に話しかけたり、会話を弾ませる手伝いをしたり、いろんなサポートをした。


 そして一年経って、彼は飛躍的に力をつけた。


 高校に入って初めて陸上を始めたとは思えないほどに。

 この次に行われる公式大会で、県大会出場、あわよくば上位を狙える程にまで成長した。

 確かに、彼の成長は嬉しい。でも、

 同時に、羨ましかった。妬ましかった。悔しかった。

 私も、その舞台に立てるようになりたかった。

 もっと、速くなりたかった。

 ずっと、それに憧れてたんだ。

 大麦君のその才能が、すごく、すごく羨ましかった。

 本当、自分勝手だ。

 心に闇がじわじわと広がる感触がする。

 気持ちが、沈む。

 –––ほう、いい闇だ。住み心地の良い。

 心の奥底に、響くような声が聞こえた。

 え?何?誰–––

 –––暫くその闇に、住まわせてもらうぞ。

 その声と共に、視界が、深い黒に染まっていく。

 怖い。直感的に恐怖を感じ、必死にもがく。

 だけど、抗えない。もがけばもがくほど、奥へ、奥へと引きずりこまれていく。

 そして、意識が途絶えた。


 ーーーーーーーーーーーーーーー


「おい、まだ追いつかないのか?」

「アホか、敵さんが所定の位置で悠長に待ってくれてると思ってんのか?相手だって移動してんだよ。」

「そういう問題でもないようにおもえるんだが・・・まぁいいや。」

 千歳さんを追い始めてからかれこれ5分。道無き道を駆け抜けるものの、未だに千歳さんの姿が見えない。

 てかさっきから近道だ、とか言って走ってるところ、本当に近道の意味をなしているのだろうか。

 路地裏を走ったり、塀の上によじ登ったり、マジで何やってんだろ。

 一番ひどいのは他人の敷地を横断しようとしたことだ。平然と門扉を乗り越えて進もうとしたので必死で止めた。

 あなたが良くても俺が捕まるから!あなたは見えないけど俺はみんなに見えてるから!

 俺が人間だってことわかってるよね?ね?

「まあでも、そろそろだ。あと200メートルくらいか。」

 あ、そろそろなんですか。じゃあいいけどさ。

 俺たちは細い路地裏を疾走している。

 暫く進むと、視界の先に人影が見えた。

 あの後ろ姿は––––

 間違いない。千歳さんだ。

 ミコト様はたんっ、と高く跳躍して、千歳さんを飛び越え、目の前に降り立つ。

「あれ、誰かな。君。」

 千歳さん、ミコト様が見えてるのか?

 でも、妖が千歳さんの意識を乗っ取っていると考えれば、そのことにも納得がいった。

 俺はすう、と息を吸い、

「千歳さん!!」

 後ろから呼び止めた。

 千歳さんはくるりと振り返り、にこりと笑う。

 でも、いつもの朗らかな笑みじゃない。

 目のハイライトが失せていて、どこまでも、闇に満ちた笑いだった。

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