命を賭けたレース


 二十分後、ロードスターを飛ばした俺は、どうにか床橋スピードウェイの入り口に辿りついた。しかし、いつかのような喧騒は聞こえず、涼しい風が竹林に染み渡る音が響くだけだった。とんだ思い込みだったのかと考えつつも、受付に向かい苑浦の姿を探す。

 ―フィーン

 そこで、妙に静かなエンジン音が無効から響いてきた。間違いない、サンライナーのものだ。

 「あ、ちょっと!勝手に出て行かれては困ります」

 駆け出した俺の背中に、受付から糾弾するようが届く。それを無視してピットに飛び出すと、今まさに発進しようとした銀色のマシンが、鼻先で乱暴に止まった。俺は両手を広げ、その行く手を阻む。

 「エンジン切って」

 返事はない。だが、ヘルメット越しに射抜くような視線が送られてくるのを、はっきりと感じられた。膠着すること数秒、サンライナーのドアがゆっくりと開き、苑浦が現れた。

 「あきれた。今度は何がしたいの? 」

 「とりあえず話そうぜ。な? 」

 懇願するように、宥めるように、俺はその美しい瞳に問いかける。すると彼女は参ったとばかりに小さく笑うと、とんでもないことを口走った。

 「そうね。じゃあ私と三周レースして、あなたが一回でも前に出ることが出来たら、話を聞いてあげるわ」

 冗談じゃない。どう返していいかわからず戸惑っていると、生気のなかった彼女が、急に覇気を帯び始めてる。そこで俺は改めて思い知らされた。

 コイツは誰よりも、速く走ることに賭けているんだと。

 しかし、その条件は絶対に呑めない。

 「どうしたのかしら? 自分の腕じゃ太刀打ちできないとでも? 」

 挑発するように、苑浦。

 「モンテカルロラリー出れるような奴に勝てるかよ」

 思わず本音が漏れた。

 「……調べたのね。私のこと」

 「ああ」

 ここまでポーカーフェイスだった彼女の顔に、迷いの色が生じる。

 「もうやめろよ。こんなことして一体何になる、自分の体を傷つけてるだけだろ? 落ち着いて考え直、」

 「やめて!」

 言いかけた言葉は突然の叫び声でかき消された。唖然とする俺も構わず、彼女は誰にともなしに喚き出した。ひどく、感情的な声で。

 「私の、私の生き甲斐はこれしかないの!まわりに何を言われようと、遠い国に飛ばされようと、そんなことで折れるわけにはいかないの!」

 そして最後に、彼女は少しだけ悲しい眼で俺に視線を合わせた。

 「たとえ体が病気に蝕まれていたとしても、ね」

 そう呟き終わる頃にはもう、エンジンが咆哮を上げ、サンライナーはこちらに向かって突進してきた。それでも、俺は避ける気なんてない。

 「危なっ」

 ふいに腕を引っ張られ、バランスを崩して俺は倒れた。苑浦はギリギリのところで俺をかわし、サーキット本線へと消えてゆく。

 「いきなり呼び出されたと思ったら、一体どうしちゃったのよ」

 起き上がると、目を白黒させた楓姉さんが立っていた。学校よりカフェのほうがサーキットに近いので呼び出したわけだが、結果として俺が命拾いすることとなった。

 「細かい話は後にさせて下さい。今はとにかくアイツを止めなきゃ」

 「ちょい待てって。私も行くよ」

 俺たちはすぐさまロードスターに戻ると、勢いよくピットから発進した。


 苑浦を取り逃がしてからここまで、おそらく三十秒も経っていない。本線に入ってすぐ、俺は特徴的な四灯のテールランプを捉えた。両足に神経を集中させ、ステアリング操作を抑えてコーナーをクリアしていく。皮肉にも、彼女が教えてくれた技術のおかげで、俺は今速く走ることが出来ていた。

 「へぇ。前より運転上手くなってきてるじゃん」

 助手席でニマっと楓姉さんが笑う。でしょうね、前の俺ならミスってはあなたに「ヘタクソ!」とか言われてエルボー喰らってましたし。そうしてる間にも、二台の差はみるみる縮まり、峠エリアに入ってから差は十メートルもない。

 「どういうことだ……? 」

 それが違和感の種だった。

 ド素人の俺と、プロレーサー級の苑浦の腕。

 フツーの車と、最新鋭のマシン。

 どう比べても条件は俺に不利だ。なのに、走れば走るほど、テールランプは近づいてくる。先程のやりとりからして、彼女が手加減しているとも思えない。

 目の前には連続ヘアピン前のブラインドコーナー。そこで、サンライナーはさらに奇妙な動きを見せてきた。 

 大きく前に沈むほど車体にブレーキがかかった後、悲鳴のようなスキール音を響かせて、横滑りした状態でコーナーに進入する。タイヤからは異様なほどの白煙が舞った。あれではドリフトとも呼べない、ただの乱暴な運転だ。

 「睦、気をつけたほうがいい。万一の時巻き込まれるとヤバいから少し間を空けろ」

 「ええ。けどそうも言ってられないんです」

 ブラインドコーナーをパスしたところで俺はようやく気づいた。普段の彼女からは程遠い、常軌を逸した走りの理由がわかった気がした。

 今まさに心原性失神が再発しているのではないか? 

 それを裏打ちするように、目の前のサンライナーは蛇行しながらヘアピンに入り、ガードレールに接触しながら一気に加速した。

 「危ねぇ。こりゃ本当にヤバいぞ」

 もはやまともな人間の運転ではない。差を縮める為に、俺は早めの減速からややタイトに立ち上がりをつける。コースは残すところ最終コーナーのみ。意地でも前に出ようと、アクセルを多めに煽りかけたところで、体中に戦慄が襲った。

 あいつ、スピード出しすぎじゃね? 

 いくら緩いコーナーでも、オーバースピードで突っ込めばクラッシュは避けられない。

 そして予想通り、最終コーナーに進入したサンライナーの姿が突然消えた。いや、違う。

 落ちたのだ、崖下に。

 「……!」

 ロードスターのコックピットが凍りつき、時間がスローモーションで流れた。ブレーキの音、ドアが開いて飛び出す二つの足音、辺りを吹き抜ける冷たい風の音、全てが引き延ばされ、俺の五感をゆっくりと包み込んでゆく。

 サンライナーはエスケープ用の砂場に突っ込んで停止していた。衝撃でバンパーが外れ、マシンのフロント部はかなりのダメージを受けている。点ったままのライトが生々しい。

 「おい大丈夫か!」

 「今行くよ!」

 大声で叫びながら斜面を滑り降る。運転を覗くと、ステアリングに顔を突っ伏して項垂れている苑浦がいた。やはり心原性失神症が発症し、気を失っていたか。ノブを引っ張るとドアが開いたので、俺は彼女を車外に引きずりだして、ヘルメットを脱がした。

 「しっかりしろ。聞こえるか? 」

 反応がない。

 「どうしよう、受付に連絡しないと」

 「無駄ですよ」

 駆け出した楓姉さんを腕で制す。

 「コイツがこうなったのは生まれつきの病気のせいです。まともな治療をしないと意味がありません」

 「じゃあ救急車を……」

 それも厳しい話だった。救急車が現場に到着する時間は平均八分。しかし、ここは入り組んだ場所なので確実に遅れるだろう。さらに、病院へ搬送しようにも、夕方のこの時間帯、市街地の道路は帰宅ラッシュで混雑している。その間に手術が遅れたら……。

 つまり、俺達は何も出来ないまま彼女が苦しむのを見るしかなかった。

 既視感。

 この状況は、話で聞いた賢さんの事故とよく似ていた。きっと、あの人もこうやって苦しみながら終わっていったのだろうか。

 そう思うととてもやるせない気持ちになり、俺はその場に倒れこんだ。無意識のうちに目頭が熱くなり、視界が滲んでくる。

 「諦めちゃダメだ!」

 そう叫ぶ楓姉さんの声も、今はどこか遠く聞こえた。

 ごめんな。

 もっと早く気付くことが出来たら、こんな事にはならなかったかもしれない。絶望の中で、赤い物体ががぼんやりと視界に映った。

 何だあれ。

 近づいてみると、それは工事現場等で見かけるバリケードだった。そういえば、今いるここは元峠道だったんだっけ。当然その先も道は続いていて、このまま行けば確か、

 市街地に戻れる? 

 気づいたときにはもう、俺は苑浦を担ぎ上げてロードスターに向かっていた。助手席の背もたれを限界まで倒して彼女を寝かせてから、錆び付いたバリケードを取り除く。

「ちょ、睦、どうするつもり? 」

「国道沿いの大学病院に電話しといてください。急患が来るからよろしく、と」

 そこで楓姉さんはようやく俺の意図に気づいたようだった。

「やめろ、危険だ!それなら私が運転する!それに」

 そこで一拍置いて、次の一言をかみ締めるように呟く。

「お前まで失いたくないよ」

 ヴォン。

 返事とばかりに、エンジンが唸る。

「今はこれしかないんで」

 ダメで元々の話だ。それでも、飛ばせば救急車よりも遥かに早く着く。

 ギアを一速に入れると、ロードスターは峠の奥へと消えた。

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