洋館には吸血鬼が住んでいる

まつこ

第1話

 その日はうだるような暑さだった。冷房の付いていない部屋で過ごすだなんて、とても考えられないような日本の夏。地球温暖化なんて気にしていては死んでしまう。私はリビングの冷房の温度を3度下げ、冷蔵庫から一口サイズのアイスを取り出して口に放り込んだ。体の外側と内側からの冷たさが心地良い。私は音を立ててソファに沈み込み、テレビのスイッチを点けた。夏休みの昼間、高校生が見て面白い番組なんてほとんどやっていないけど、視覚と聴覚が満たされる雑多な感じが落ち着く。しばらく学生だけに許される怠惰に身を任せていると、今になって起きてきた母親が私に声を掛けてきた。なんでも、回覧板を届けに行って欲しいらしい。


「いやだよ、こんな暑い中娘を外に出すつもり?」


 母親の注文は、親という自分の立場を利用して娘という弱者に断りにくい命令を下したのと同じだ、思春期反抗期真っ盛りだったこの頃の私の心のささくれに、それは敏感に引っ掛かった。私が再び堕落の道を歩もうとすると、回覧板を持っていた母親の手がわなわなと震えだした。


「アンタはそうやって休んでればいいでしょうけどね!アタシには色々やることがあるのよ!これくらいやってくれたっていいじゃない!」


 母親は自分の思い通りにならないことがあると、こうしてヒステリックにわめき出す癖があった。そんな母親としばしば口論を起こして、仕事も下り坂になっていた父親は、母親との生活が嫌になって離婚した。親権は母が必死に主張したために、今私はこうして母と二人暮らしをしているわけだ。


「色々やることって、お金はお父さんが十分な額を送ってくれてるし、家事は私が短い時間を縫ってやってるのに、お母さんが何をしているって言うの?」


「あの人の話はしないで!!」


 論旨をずらされた。正論を言うといつもこうだ、それに、母は父を一方的に嫌っている。悪いのはどう考えても母なのに。彼女は自分の思い通りにならなかった人を悪だと思っている節がある。今私もそう思われているのだろう。


「わかった、回覧板を届ければいいんでしょ?やるよ、暑いけど」


 こうなったら私が折れるしかない。今まで何度も母の癖を治そうとしてきたけど、その全ては失敗に終わっている。私はほとんど諦めてしまっていた。せめてこの人を外に出さないようにして、社会に迷惑がかからないようにしなくてはならない……いつか私も、この人と縁を切ってしまいたいのだけど。


「え、ええそうよ、やってくれるのね」


 私が頷くと、母は表情を一変させてにこやかに笑顔を浮かべた。さっきまでのことがなかったことみたいに。本当に、どうしようもない人だと思う。この人にわめかれた方は、嫌な思い出としてずっと記憶することになるのに。この人の娘でなかったら、もう少し人生は楽しかったのか、いやそんなこともないだろう、他人には他人の苦労があるものだ。そんなことを考えながら、私は炎天の外に出た。


 回覧板を届けるのは、最近越してきたという人の家だった。それだけ言うならありがちなことだが、この家というのが曲者なのだ。なぜならそれは、いつから建っているのかもわからない、巨大な洋館なのだから。

 その洋館は100年だの200年だの前から建っていると言われる代物で、壁にはよくわからない植物の蔦が這い、壁もボロボロ庭もボロボロ塀もボロボロという酷い有様だった。近所の小学生からは幽霊屋敷扱いされており、私も一度、肝試しだと友人達にけしかけられ入ったことがある。その友人達はなんと私を閉じ込めて、瓦礫やゴミの積もる洋館の中で私は大泣きに泣いた。それが近隣住宅の皆さんに聞こえてしまい、危うく警察沙汰になるところだった。そんな苦い思い出のある場所だ。

 様々な噂飛び交う洋館に、この度目出度く買い手がついたらしい。ということは管理する人もいたのだろうから、私の苦い思い出は犯罪行為という更なる忌避したいものが付与されてしまったのだが。

 さて、この洋館の入居者だが、これまた妙な話で、誰も姿を見たことが無いという。そのせいで冗談交じりに、本当に幽霊が住み着いた、とか、いやいやあそこには深夜にしか活動しない吸血鬼がやってきたんだ、とかその他諸々のオカルト話が飛び交っている。このご時世に幽霊も吸血鬼もあるまいに。それこそ小学生じゃないのだし。

 それらのことを思い出し呆れながら、私はその洋館の前にやってきた。蔦も壁も庭も塀も、見違える程に整備されていた。元々の壁の色は白だったのだな、と感嘆する。ここで回覧板を立派な門の横に控えめに設置されている投函すれば目的は完了するのだが、若い好奇心はそれだけでは気が済まなかった。私は思わず、この忌まわしい思い出の眠る館のチャイムを押してしまった。

 リンゴーン、と上品な音が鳴る。が、反応は無い。ジリジリと照りつける日光が、否応なしに肌を焼いていく。大気と自分の境界が曖昧になるような感覚を覚えたところで、私は大人しく帰ることにして、踵を返した。ふう、と大きく息を吐きながら頭を振って、少しでも体から熱を逃がそうとする。改めて帰り道の方を見ると、視界が一人の人間でふさがれていた。


「うわっ!?」


 思わず大声を上げてしまった。近い。数歩後退りすると、ガシャンと音を立てながら鉄柵の門に背中を預けていた。そんな私を見た男(下がって初めて男だとわかった、彼は随分と華奢で女性と見紛うほどだったのだ)は表情1つ変えず、言う。


「僕の家に何か用ですか」


 彼が喋ったところで、私から彼への第一印象が決定した。『不吉』だ。気持ちが悪いとか、そういった嫌悪感ではない。喩えるなら、風に倒され、腐っていく木の、暗い洞を覗いたような。底の知れない怖さ、それが不吉だった。


「えと、あの、回覧板を届けに来て……!」


 私は彼の顔を自分から見えないようにして回覧板を掲げた。彼は無感動かつ無造作にそれを掴んで受け取る。


「ありがとうございます……家に興味があるなら、見ていきますか」


 そう言った彼の表情は、先程までの不吉さが夏に吹く一瞬の涼風にぬぐい去られていた。


「は、はい、見せて貰えるなら、是非」


 さっき感じたことは気のせいだったのだ、夏の暑さが見せた蜃気楼、太陽の光が起こした陽炎だ。自分にそう言い聞かせて、無言で鍵を開ける男の背中を見つめた。

 案内された館の中も、私が幼少の頃見たのとは随分様子が違っていた。人が住めるようにしたのだから当然だが、廊下に瓦礫もガラスの破片も散らばっていない。しかし広さに関しては、子供の時と変わらなく見えた。子供の時見たものというのは、自分の小ささと視野の狭さからやたらと大きく見えるものだが、その時とスケール感が変わっていないというのが、この館の大きさを物語っていた。


「こんな大きな家に、一人で?」


 聞かずにはいられなかった。とても一人暮らしに向いた家とは思えない。こういう家に住むなら、メイドさんとか執事さんとかがいっぱいいて、毎週パーティーを開く、といったことでもしない限り、寂しい上に掃除も行き届かなくて大変だろう。


「はい、一人で。落ち着いたところに住みたくて」


 答えになっているようで答えになっていない気がする。落ち着いたところに住みたいだけなら、もっと小さい家でも良いように思う。余程お金もかかっただろうに。


「お仕事、何されてるんですか?」


 彼は随分若く見える。20代後半というところだろうか。こんなに若い人が、整備を含めて軽く何億とかかりそうなこの館を買うにはどのような職業に就けばいいのか。


「画家ですよ、聞いたことありませんか」


 彼の名前は、美術に疎い私でも思い当たる程有名な若手の天才画家と謳われる名前だった。顔は知らなかった(どうにも、メディアに出るのが嫌いな人だったらしい)から、私は酷く驚いた。


「折角ですし、あなたを絵のモデルにしてもいいですか」


 突然の提案だったが、それはとても光栄なことのように思えた。だけど、


「貴方は風景画の名手として名が知れていると聞きましたけど」


「そうですね、仕事で描くのはそれです。でも僕は元々人物画を描きたかったんです。ですから、今回描くのは趣味の絵です。気分転換のお手伝い、ですね。もちろん報酬はお支払いしますよ」


 それを聞いて私は成程と頷いた。現金な話だが、報酬というのも悪くない。夏休み中のバイトと思えばいい話だろう。


「私で良ければ、お受けします」


「良かった、では早速アトリエに案内しますので」


 画家のアトリエというとごちゃついたイメージをしがちだが、案内された場所は小綺麗な場所だった。そのことを言うと男は微笑して、


「これから汚れるんですよ、まだ使っていませんから」


 どうやら私のイメージは間違っていないようだった。

 こうして、私の奇妙なバイトが始まった。

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