第52話 ボクの天使

「ひとり?」


 約束の15分前に着いた一縷いちるは、窓際の席にポツンと座るまいを見つけ、一瞬で季節が巻き戻される錯覚を覚えた。夏休み、毎日のようにここで待ち合わせをしたあの日から、何ひとつ変わることなく、ごく自然にその次の日が来たような気持ちになったのだ。大きなお濠に向かうガラス窓の景色は冬色に変わり、彼女の出で立ちも軽やかな軽装から、もこもこしたセーター姿に変わったけれど、この景色の中にある彼女の笑顔は夏の強い陽射しの中のそれと何も変わっていないように見えた。


「うん。もちろん」


 その声も以前のまま変わらず、今にも弾み出しそうな軽やかなトーンだったから、一縷はここに未来みらい伊咲いさきがいない理由を問い質す気にもなれず、むしろ、今日が彼女とふたりきりで会う最後の日であることすら忘れそうになった。


「元気にしてた?」


「うん。いっちゃんも?」


 その呼び方も彼女の家のソファーで聞いたときのままだ。きっとここを出て彼女をけやき並木のバレエ教室へ送り届ける時には、彼女がこの左腕にしっかりしがみついて、嬉しそうな上目遣いになるのだろう……。


「そうだね…… 元気かな」


 そんな曖昧な応え方をすると、徐々に今日の本題の重苦しさが思い出された。いつもならそんな空気は彼女の天然な笑顔と話題がどこかへ追いやるのだろうが、さすがの彼女も今日ばかりは一縷の言葉を静かに待っている。だが、なかなか話を切り出せない一縷を見かねて、彼女は妹のことを話題にした。


はながね…… 昨日から戻ってきてるんだよ」


「そうなんだ。 そっか…… もうすぐお正月か」


「そうだよ。いっちゃん、長いこと冬眠してたからわかんなかったでしょ?」


「冬眠はこれからじゃないの? 今はちゃんと食べて太らなきゃ」


 睡眠不足とロクなものを口にしていないこともあり、一縷は痩せて顔色も悪かった。その姿は春先の頃の彼を知っている人間にすれば病的に不健康で、それがわかる舞は、一縷の冗談を素直に笑えないようだった。


「…… 私がプリマで成功してたら、いっちゃんを取り戻せたのに」


 彼女はそんなことを呟いた。一瞬、なんのことを言っているのかわからなかった一縷だが、やがてそれが彼女のあの空想話の続きだと気づいた彼は、思わず吹き出しそうになった。


「アハハハハ、まだあの空想話の続きがあんのかよ!」


「うん、あるよ! 病気だと思ってたいっちゃんは実は悪霊が憑いてて、お祓いが必要だったんだよ!」


 ほら始まった…… 舞の空想話。夢見る舞ちゃん…… 可愛いもんだ。


「それって プリマにならないと支払えないほどの大金なの?」


「そうだよ! だって世界中から有名な祈祷師の先生を呼ぶんだよ! 億単位のお金が必要に決まってんじゃん!」


 知らぬ間に舞はテーブルから身を乗り出し、大きな身ぶりで話し始めた。



 窓の外ではちらちら小雪が舞い始めている。一縷は楽しそうに空想話を聞かせてくれる舞の姿を、この雪景色の中でしっかり記憶に留めておこうと心に誓った。本当は彼女を選ぶべきだったかもしれない。こんな状況でも何ひとつ変わらぬ愛しい子供のような彼女こそ、自分の抱えてきた不愉快な記憶を忘れさせてくれる唯一の人だったかもしれない…… だが、既に賽は投げられたのだ。


 舞が素敵なところはその姿かたちにあるのではない。彼女は常に未来に向けた話をした。今、目の前で話している作り話も、一縷の過去には一切触れず、これから先のふたりの夢に帰着することだろう。つまり、彼女にとって過ぎ去った辛い日々は、振り返る必要のない礎石みたいなもので、いちいち掘り返さなくてもしっかりその場所を固めているのだ。そんなことを思いながら舞の姿に見惚れていると、舞も夢中になっていた空想話から現実の一縷がようやく目の中に入ってきたようだった。




「お正月は彼女さんと一緒にお過ごしですか?」


 不意打ちを喰らった一縷は一瞬、言葉に詰まった。


「フフフ、困ってる。


 いっちゃん、ごめんね。いろいろ。でもね、いっちゃんが時間をくれたから、私も少しは大人になってこれまでのことを振り返れた。


 いっちゃんのことは大好きけど、あの日、ママに追いかけるのはやめなさいと言われて…… 考えてみたら、いっちゃんのところに彼女さんが来てる時に、私がいたらどんなことになるのかなぁって想像して…… そしたらね、不思議なことに、いっちゃんの顔が思い浮かばないんだよ」


 そういうと、彼女は優しい目で一縷の顔を見つめた。その目は遥か遠くの山並みでも眺めているようで、一縷の表情が間近でどう変わろうとすべて穏やかに見過ごせる、とでも言うように温かなものだった。


「今こうやっていっちゃんのお顔を近くで見て、あ~~~~、好き顔だぁ、と思ったけど、あの頃、本当はちゃんと見てなかったんだね……

 いっちゃんの眉間に皺が寄る瞬間とか、話そうかどうしようか悩んで、口元をもごもごさせるところとか、そういうことにはまるで気づいてなかった…… バカだね、私」


 一縷は今初めて舞と正面から向き合った気がした。確かに、あの頃の舞は、いつもふわっと傍にいて、涼音が挑発的なほど見つめてくる、あの強い視線に似たものを感じたことがなかったことを思い出した。


「だから、お邪魔さんは私なんだって思ったの。で、今日やっぱりそうだったんだって確かめられたから、私はいっちゃんとはお友達以上の何ものでもないと思った。いっちゃんは初めからそうだったんだね。いつか、いっちゃんは私に言ったよ、初めからそうだったって。あ~、こういうことか、ってわかった……」


 穏やかな表情の彼女が、今日ここに辿り着くまでにどれほどの涙を流したかはわからない。ただ、一縷がラギに逃げ込んでからの数週間が彼女にとっても必要な時間だったこと、そしてその時間が彼女の本来持っていた穏やかさを失わせないままに、元の彼女に戻らせたことを、一縷は誰に感謝していいかわからないが感謝したい気持ちでいっぱいだった。


「舞…… 」


 一縷はそう呼びかける以上の言葉を持たなかった。本当は「友達でいよう」というような意味のことを伝えようとしたのだが、友達ならわざわざそんなことをいう訳がないと思い、言葉を飲み込んだ。



 窓の外では静かに雪が積もり始めた。お濠の水面に届いた雪だけが静かにその姿を消す様子を、一縷も舞も、いつまでも眺めていた。

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