第50話 新しい生活

 次の日、一縷いちるはカバンに押し込めるだけの荷物を携えてラギに向かった。十二月の冷たい風が海から吹き付け、切れ切れの雲が飛ぶように流れる日だった。


「一応、寝泊まりできるようにはしておいた。塾帰りには寄るから」


 涼音すずねは朝から二階の掃除をしてくれていたようで、一縷が足を踏み入れたときには板張りの床に雑巾掛けの水跡がまだ残っていた。


「ありがとう……」


 一縷は涼音を優しく抱き寄せた。この場所にいる限り、いつか舞のことも伊咲のことも、さらに母親のことも記憶の彼方に消えてしまうのだろうとぼんやり考えた。


「ここが嫌になったら私の部屋に来ればいいだけだから。多分、すぐ嫌になると思う。朝方までうるさいから眠れないよ、きっと」


 一縷の身体にぴったり抱きついて、彼女は静かな表情で彼の顔を見上げた。この距離で彼女の顔を見るのはもう珍しくもないのだが、柔らかみのある頬の弾力を感じると、一縷はなぜか甘噛みしたくなった。その時初めて一縷はキスマークを相手に付ける気持ちがわかったような気がした。


「マーキング…… 」


 心の中で思っただけのつもりがつい口を滑らせてしまい、涼音がキョトンとした顔で一縷の瞳の奥を探った。


「なに?」

「アハハハ、涼音のほっぺた見てたら吸い付きたくなっただけ」

「もぉ〜、やめてよね! これから塾なんだから!」


 そう言われると逆に欲情が昂る。一縷は彼女のシャツのボタンを幾つか外すと、胸に手を滑り込ませ、想像どおりの温かさと弾力を感じた。その手触りは先程の甘噛みよりもっと強いチカラで噛み付きたい衝動を呼んだ。もし、この肌の柔らかさを失うなら、自分はその前にこの胸を噛みちぎってしまうかもしれない、そんな想像が一瞬頭を過ぎった。


「カニバリズム…… 」

「さっきから何言ってんの? 気味悪いなあ…… 」

「ん? 食べたいほど愛してる、って気持ちがわかった気がしたから…… 」

「それ、なんとなくわかるよ…… 私は折れるほど抱き締めて、っていう気持ちになったことがあるから」


「ホントに折れたら痛いだろうね、ホントに折ったら怒るだろ?」

「当たり前でしょ! 噛むのもイヤだからね!」

「涼音が自分はMかもしれない、なんて言うから、そうして欲しいのかと思ってたんだけど」


「…… 優しくイジメて」

「…… 」


 一縷は涼音との相性を疑うことはなかった。言葉にすればするほど、涼音と自分はギリシャの古い逸話に出てくるアンドロギュノスの一対だと強く思うようになった。相手を身体の一部分に取り込みたいという衝動は、他の誰にも感じたことのないもので、もし、自分から理性というを外すと、きっとそれを実行してしまうのではないか、という、ある種の恐怖感も感じた。


 そのことに思い及んだとき、彼女が常々語っている『自分自身がわからない、コントロールできなくなりそう』ということの意味がようやくわかったような気がしてきた。自分たちはいつか破滅するのではないか、そんな底知れぬ怖さを垣間見たようだった。


「一縷? そろそろ行くね。塾に遅れちゃう」

 涼音を抱き締めながらそんな考えに囚われていると、耳元で彼女が囁いた。


「そんな時間か…… そろそろママも来る時間かな?」

「6時過ぎには来るって言ってた。そうそう、明日からはカウンター周りの掃除は一縷がしてね。そういう約束だから、お願いね」


 そう言い残すと、涼音は出かけていった。強い香辛料の匂いが、彼女の淡い残り香をあっという間に消し去った。




◇ ◇ ◇


「おや、キレイに掃除してくれて、初日のお仕事としては満点よ! イチローくん!」

「イチロー?…… ですか?」

「そう! だってなんて、来る人来る人に説明しなきゃならないよ、面倒でしょ?」

「えっ…… 接客もするんですか?」

「当たり前でしょ! ってのは冗談だけど、上に住んでるのにまるで知らん顔、なんてこともできないでしょ? だから誰かに会ったら私の甥っ子のイチローってことにしとくよ。それでいいでしょ?」

「はい…… ありがとうございます」

「いちも、いちも、似たようなもんだよ」


「ですね…… 」


「なんだかその名前からしてこだわりが強そうだから、この際イチローに成り切っちゃいなさい!」


 そんなことは意識したこともなかったが、マリエルの話を聞いていると、肩のチカラが抜ける気はした。もっと単純に生きようよ、彼女はそう言いたいのだろうと思った。


「イチロー、涼ちゃんのこと、よろしくね」

 さり気なく、本当にさり気なく、マリエルはそんな言葉を使った。


「あの子から聞いてる? 家族のこととか?」

「いえ、何も…… 何かあるんですか?」

 一縷の顔に不安な表情が一瞬宿った。

「聞いてなきゃいい。ただ、あの子も色々あったのよ。あなたの白い後ろ姿の話じゃないけどね!」

 それを持ち出されてはもう何も言い出せない。この店を訪れた最初の夜の失態は、本当に失敗だったと、一縷は今さらながら後悔した。



◇ ◇ ◇


 19時頃、マリエルの気分でお店は開けられたが、客足は鈍く、彼女はカウンターでぼんやり週刊誌を眺めていた。彼女から店では余計なことは言わないこと、自分の指図どおりにすること、を約束させられ、一縷も特にすることがない。


「イチロー、焼きそば作ってみて」


 本日唯一の指図はマリエルの夕食ついでに焼きそばを作るだけ。日頃、焼きそばなんて出されたものを食べたことしかない一縷に作り方などわかるはずもなく、解れないままの麺がフライパンの底に焦げ付いた。


「予想通り使えないな、アハハハハ」

 と笑われて一発不合格となった。


「来週までには涼ちゃんにひと通り習っておいてね」

 そう言われて初日はおしまい。21時に涼音が顔を出すと、ふたりで二階に上がった。



「料理? 本格的なエスニックなんて私に教えられるわけないじゃん。バカだな、からかわれたんだよ」

 マリエルに言われたことを涼音に伝えると一笑に付される。


「だって、焼きそば作れって言われて、メニューにもあったし…… あれ、うそ?」

「…… 焼きそば? それ料理に入るんだね…… 」


 そう言うと、涼音は物珍しい生き物でも見るように一縷の顔をじっと見つめた。


「おぼっちゃまくん、ではの焼きそば、お教えしましょうか?」

 明らかにバカにした笑いに一縷はムッとして涼音をベッドに押し倒す。すると、涼音がキャっと声を出し、床も軋んだ音を立てる。


「コラ、二階! エッチ禁止!!」


 下からマリエルが大声で注意する。ふたりはクスクスっと笑うと静かに抱き合い、ゆっくり唇を重ねた。


 こうして、一縷のラギ下宿生活が始まった。彼にとっては目にするもの耳に届くものすべてが物珍しいことばかりだったが、森の中の秘密基地で暮らすような現実逃避にどっぷり浸かり、一縷はこれまでの生活を、つまり、未来や伊咲や舞のいる、普通の学生生活のことをあっという間に忘れた。

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