第38話 卑怯者
次の日は少し吹雪いた。11月上旬にしては寒い日が続いている。大陸からの季節風を遮るものがないこの海辺の街は、冬は意外に寒い。
その寒空の下、一縷と涼音は肩を寄せ合ってバイト先に向かい、帰りは抱き合うように一緒の部屋に戻る。冷え切った部屋が温まるまで人肌で暖を取るのは、それだけでふたりを幸せな気分にさせた。
だが、時計が23時を回る頃、ふたりの間を微妙な空気が支配する。何かがこの部屋の隙間に入り込んでいる予感がするのだ。
「そろそろかな……」
「…… 」
涼音の言いたいことに、一縷もずっと前から気づいている。
「あなたから先にすれば? いつ来るか、来るか、って…… 落ち着かないよ」
「…… 平気なの?」
「平気じゃないよ! はっきりして欲しいよ!」
「だけど…… 何度も言うけど、彼女とはそういう関係じゃないし、これからもそのつもりはないよ」
「ふ~ん。あれだけ仲良さそうに腕組んでて?」
「腕を組むって…… そんなに意味深なこと?」
「だって、私はあなたが酔ってアパートに来るまで、腕なんか組んだことないからね。普通、誰が見ても腕を組んで歩くのは恋人同士だよ」
「そうか……」
「相手の身体に触れるってそう簡単にはできないと思うよ」
「…… 」
妙な間が空いた。
「なんかあったな?!…… 信じられない」
確か、
「あなたたちがテラスで一緒のところを見たときから、怪しいと思ってたんだよね。馴れ馴れしいもん、あの子」
舞の姿を思い浮かべる。馴れ馴れしい…… 確かにそう見えるかもしれない。
「あの子が誰にでもそうならまだ許せる。でもあなただけにでしょ、きっと? あなたが特別ってことでしょ? 絶対そんなふうなこと言ってる気がする」
彼女がこれほど舞を気にしているとは思ってもみなかった。一縷は自分が涼音に片思いだと思ってきたが、そうではなかったのか? そう思うと、目の前の彼女が別の女性に変わるような気すらしてきた。
今頃になって、舞の言葉を思い出す。
『私は一縷のもの、一縷は私のもの』
そう語った彼女には、自分が彼女に対して抱いていた居心地の良さ、自分にはない世界を持つ彼女に対する漠然とした憧れとは異なる、何かの拘泥感があったことを、今ならはっきり理解できる。
「でも…… 今さらなんて言う?」
一縷はひとり言のように呟いた。涼音はそんな彼を決して許してはいない。
「知らないわよ、そんなこと…… でも、もし今度、彼女と一緒のところを見かけたら、私、何するか、わかんないからね。ホントだよ。私、自分をコントロールできそうにない。抱き合ってからどんどん酷くなる……」
涼音の顔はみるみる悩み深く険しいものになった。それは、いつか、一縷と舞をバスの中から見かけたと激怒した彼女が、発言の全てを忘れてくれと言い出した、あの焼き鳥屋での顔と同じだった。あれから、彼女は一縷と舞の関係を想像しては、沸々とわき起こる情念を、なんとか理性で押し込めてきたのだろう。一縷にでもそのくらいの想像をさせるほど、彼女の顔は深刻だった。
「誓ってあの子とはこれからも何もない。ただの友達だから」
「そんなこと、私には関係ないよ。ただ傍にいて欲しいとき、手の届くところにいて欲しいだけ」
「じゃあ金曜の夜から月曜の朝までは絶対一緒にいる」
「…… 刺すよ。毎日だからね」
「それ、マジで言ってるなら怖すぎだよ、アハハ」
一縷のバカな冗談に涼音が笑うはずはなく、彼は仕方なく乾いた笑いを続けるしかなかった。
◇ ◇ ◇
会話が途切れたところに突然電話が入る。
「一縷、お前、何やってんだよ!? 授業、全然出なくて大丈夫なのか?
「…… そっか、すまんすまん」
「舞ちゃんロス? アハハハハ」
笑い声がデカい…… 気を遣えよ未来…… 気になって涼音を振り返る。知らん顔しているが、一挙手一投足、絶対に一縷の気配を漏らさない、そんな雰囲気がありありだ。
「彼女、いつ帰ってくるんだ」
「火曜日」
そう言って、もう一度涼音を振り返る…… 平然とスマホを触っている。ひと安心?
「そっか。なんか彼女がいないとクラスに華がないよ」
「…… 」
「お前、明日もバイト?」
「そうだけど?」
「そうか。なんかさ、伊咲の心配はどうもマジだからさ、お前電話しとけよ。で、また一緒に飲もう、って誘えよ。三人で飲もうよ。なっ。土日は無理そうだけど、平日は暇なんだろ? 何曜日ならいいんだ?」
「いいよ…… そっちにあわせるよ」
「うぇ! すげー珍しいこと言うな、アハハ。じゃあ舞ちゃん誘って四人で飲む?」
「…… そうね」
再び涼音を見る。変わらず黙ってスマホを触っている。
「じゃあ舞ちゃんに都合聞いてみて。彼女に合わせよう。彼女は焼き鳥とか、そんなのダメだろ?」
「…… どうかな」
また涼音を見る。変わりない。変わりなく…… 機嫌が悪そうだ。
「なんか煮え切らないなぁ。まあいいや…… じゃあ、伊咲に電話、頼むぞ!」
「了解、じゃあな」
速攻で電話を切った。涼音は相変わらず知らん顔したままだ。
一縷がご機嫌伺いに、下から涼音の顔を覗き込むと、ようやくスマホから目を上げて彼女がポツリと呟いた。
「一縷って意外に人気者なんだね。もっと寂しい人間かと思ってた」
涼音はそれだけ言うとまたスマホに目を落とし、少し寂しそうに笑った。
「高校の時のツレだから。今の電話のやつともうひとり幼馴染だけだから」
「それだけいれば十分だよ。私なんか誰からも電話ないよ。アハハハ」
「…… 」
「でもいいの、これからは毎晩一縷からあるし」
彼女はそこでまた顔を上げた。もっと寂しい顔をするのかと思ったが、意外にいつもの笑顔だった。未来の電話が終わり、ふたりの時間が戻ってくると思ったのだろう。
チリンチリン チリンチリン
「ちっ…… ちゃんと鳴り分けしてるし」
舞からの電話だった。結局、彼女から先に電話が入る。一縷は視線で涼音に了解を求める。
「いいよ、出なよ…… また触ってやるから」
涼音は口にした冗談とは明らかに違う表情で一縷を見つめた。少し迷ったが、結局一縷は電話に応える。
「はい…… 」
「一縷ぅ~~~ 会いたいよぉ~~~」
「うん…… 」
「あれ? 感動がないぞ? 浮気か?」
「…… 」
「一縷? どうかした? まだお腹痛いの?」
「うん…… まあ」
「病院行った?」
「そこまでじゃない」
「そう。私がいたら看病するのに」
「うん…… 」
「火曜日、12時過ぎには着くよ、そっち」
「わかった」
「迎えに来てくれるんだよね?」
「…… うん」
一縷のうわの空に舞の声が少しずつ翳り始める。
「一縷? 」
「うん…… 」
「何か忙しかった?」
「…… うん、ううん」
それからしばらく舞の言葉は途切れた。重苦しい沈黙が続く。
「じゃあね…… 切ったほうがいいんでしょ?」
「そんなこともないけど……」
やや間があった。
「卑怯者〜〜〜〜!!!!!」
急な大声に、一縷は思わずスマホを耳から離してしまう。
「なんで!?…… なんで離れてるときにこんな心配させるの!?」
「ごめん……」
「もういい!」
そう言うと、舞からの電話は切れた。一縷の心はざわついた。万が一にでも自殺…… なんてこと。そう思うと、言い知れぬ不安が募った。
そんな彼を全く無視して、涼音は黙って服を脱ぎ始めると、ひとりでシャワールームに消えて行った。
しばらくすると大声で彼を呼ぶ。
「一縷! バスタオル取って!」
一縷は心を東京に向かわせたまま、バスタオルをシャワールームに持っていく。
「ここに置いとくよ」
その言葉と同時にドアが開き、裸の涼音が恥ずかしげもなくそこに現れた。
「キスして!」
その言葉を無視して、一縷はベッドの脇に座り込んだ。宮代に殴られた頬が、今ごろ痛み始めるような気がしていた。
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