第14話 ふたりの女性

「イヤ! 絶対ダメ!」


 涼音すずねと別れた帰り道、まいに土日の予定を知らせると、凄い剣幕で折返しの電話が入った。


「私、ボロボロだよ! 一縷ががんばれ、って言うからダイエットにも励んだし、つま先から血が滲むほどレッスンしたのに!

 それなのに、私のせっかくのお休みの日に一日中バイトするなんて許せない! 

 一縷…… 私が嫌いになったの?! 才能のない私に見切りをつけるの?! 

 みんな…… みんな…… 誰も私のことなんか知らんぷりして!


 もうイヤだ!」


 舞の声が泣き声に変わったところで電話は切れた。



 ふうっ……


 一縷はため息とともにその場に立ち止まり、歩いてきた道を振り返った。それから、徐ろに顔を元に戻すと、今度はこれから進む方向をぼんやり眺めた。アパートまでの道のりは、来た道よりよほど短い。一縷はふぅ、ともう一度深い息を吐くと、公園のベンチまで少し歩いて、そこで一旦座り込んだ。


『舞、今、そっちに向かってるからね』


 少し悩んで、そうメッセージを送る。だが、本当は濠に浮かぶ月明かりをぼんやり眺めている。



 時計は0時を回っていた。舞の自宅はキャンパスからもほど近い場所。そこまで戻ったとしても、この時間に玄関をノックする訳にも行かず、呼び出すのも変だ。だが、このまま自分のアパートに戻るのも違う気がして、一縷はしばらくどちらにも足を踏み出せないでいた。


(仕方ない、引き返すか……)


 送信済みのメッセージを見つめ、ようやくベンチから重い腰を上げた。もう一度、ふうっ、とさらに深いため息をついて、来た道を戻った。


 月明かりは時々雲に隠れる。見知らぬ場所を訪ねるのは気も重い。それでも一縷は地図ソフトを確認しながら、彼女の自宅最寄りのバス停を目指すことにした。



◇ ◇ ◇


 30分ほど歩いて目的地周辺に辿り着く。


『植物園入り口のバス停に着いた。もう深夜だから出て来られないことは解ってる。ただ、舞を思ってここまでは来たよ』


 そう書き送ると、バス停のベンチにどっかと座り込んだ。酔の回った頭では特に考えることもない。そのまま10分、ただスマホが鳴るのを待った。

 だが、結局スマホは音を立てることもなく、誰かの足音が近づく気配もない。一縷は徐々に眠そうな顔になった。



 風の心地よい夜だった。初夏を間近にした涼やかな風が時折頬を撫でる。


 一縷は目を閉じると、そのまま、誰もいないバス停のベンチに身体を横たえた。朧な意識の中、さっきまで一緒だった涼音の姿が勝手に蘇る。


 ブルーのドビークレリック、パスタを頬張る赤い唇、ライトブラウンの瞳、赤ワインと彼女の白い首筋、とろんとした眼差し…… 別れ際に横目で盗み見た胸の膨らみまでが立体的に現れた。


(彼女を抱き締めると、どんな弾力なんだろう…… )


 無意識に肌の弾力を想像してしまう。やがて一縷は、そこにいるはずのない涼音を中空に描き、両腕をそこに差し伸ばしていた……



 と、突然、ハッとして一縷は起き上がる。



 時計は1時半を回っていた。


 舞からは結局なんの連絡もない。なのにどこかでホッとしている自分に一縷は気づく。不思議に待ちぼうけを喰らったことに苛立ちも腹立たしさもなかった。舞が気分を落ち着けて眠ってくれればそれでいいやと思えた。


 来た道をまた歩いて戻った。いつもの公園を抜けると深夜2時を過ぎていたが、急に空腹を覚え、国道沿いの吉野家で大盛りを注文していた。店の外を眺めると、タクシーと小型トラックばかりが目に付いた。



◇ ◇ ◇


 翌朝9時過ぎ、目覚めるとすぐスマホに手を伸ばした。


 メッセージ、着信ともになし。


(なんの連絡もなしね…… 舞って意外に無神経なんだな)


 なんとなく、スマホに手を伸ばした自分に苛つく。しばらくベッドに横たわったまま天井を眺めた。


 キッチンではなに茶碗の買い方を誤魔化して説明した舞の横顔が蘇る。あの時の彼女はキリリと引き締まって、揺らぎなく自信に満ちていたように見えた。

 その横顔に電話口で泣いていた彼女の声が重なる。だが実際には彼女の泣き顔は見たことがなく、どんなふうに泣くのか一縷は知らない。


 ふと、その姿が涼音に変わる。昨日の艶かしく無防備な笑顔が蘇る。そこに舞のことを聞き質そうとした時の不機嫌な声を重ねてみる。だか、彼女の泣き顔もやはり一縷は知らない。


 ふたりのことを、実は何も知らないのだと気づく。知らなくてもふたりとも気になる存在ではある。気になる理由はそれぞれ違っていて、その明らかな違いを一縷自身ははっきりわかっている。


 素直で穢れのない世界に住む舞にはある種の憧れを抱いている。自分もその世界の住人になりたい気がする。

 他方、涼音には生々しい欲情を抱く。彼女の柔らかなふくらみを、この手で感じたい直截な感情が湧き起こる。


(ダメなのか? そう感じちゃ……)


 やや寝不足の一縷は、そこで考えることを放棄した。




◇ ◇ ◇


 約束の時間に涼音との待ち合わせ場所を目指していると、突然、伊咲いさきから怒った電話がかかってきた。


「何なの! あなたたちの痴話喧嘩に巻き込まないで!」


「えっ? いきなりなに?」


 一縷には伊咲の怒りが何に由来するか、さっぱりわからない。


「あの子よ! 舞って子! 付き合うなら、ちゃんとフォローしなさいよ!」


「付き合ってないよ、前も言ったろ?!」


「じゃ、なんで朝っぱらから泣いて電話があるわけ?! 

 なんで、捨てられる、って話を私が聞かなきゃなんないの!」


 声が出なかった。舞と伊咲? その組み合わせが頭の中でうまく結びつかない。


「朝っぱらからいきなり、一縷に嫌われた、って大騒ぎだわよ!」


「…… 」


 舞の泣き声が蘇る。それと同時に伊咲が流した一筋の涙をも思い出す。


「心当たりあるでしょ! もう、そっちで勝手にやりなよ!」


 伊咲は本気で怒っている。条件反射的に謝罪と言い訳の言葉が口をついて出る。


「すまん! あの子、今、バレエのことで頭がいっぱいなんだよ。許してやってよ」


 伊咲は優しい子だ。言うほど単純に怒っている訳ではないのはなんとなく伝わる。


「…… わからなくもないよ…… すっごい悩み話してたから」


 きっと舞の話もちゃんと聞いてやっているのだろう。


「何だって?」


「それは私からは言いたくない。同じ女性として…… そこまで? って思うような話……」


「よくわかんないな」


 女性にしか解らない悩みなど一縷の想定外だ。


「彼女があなたに言うかどうかわからないけど、あなたが思ってるより、彼女の悩みは深刻だからね。付き合うなら覚悟決めて付き合いなさいよ」


「…… すまん」


 伊咲の言いたいことはイマイチ理解できなかったが、そう言うしかない。


「あのね…… 言いたくないけど、夜中に自宅の近くまで行くなんて、誤解させると思うな。一縷が付き合ってない、と言うのならなおさら。


 彼女はもう一縷を恋人だと思ってる気がする」


「…… 」


「あ〜、バカバカしい。なんか私ピエロだわ」


 そういうと通話はそこで切れた。




 伊咲の話を聞いて、一縷は舞にどう語りかけるべきか、むしろわからなくなっていた。


 だから一言だけメッセージを送った。


『おはよう』


 それ以上の言葉は何ひとつ思い浮かばなかった。

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