天錦宝史伝 〜新戦記編〜

花歌

序章 〜紺碧の空 暗紅の大地~

第1話 碧の国

世界は百年前から変化を続けていた。不吉や災厄が増えたのもこの頃からで、証明するものは史記でしかないが、少なくとも、三千年近く続く歴史を持つこの国にとっては、そのことはまだ記憶に新しい。村々は守りを固めるために巨大な柵囲いを要し、年の若い者は故郷のため、あるいは国のために、自ら剣や槍を用いて訓練に努め、戦った。そのせいあってか、禍の世と言われる時代なのにもかかわらず、碧の国は四大国の中で最も豊かであり、安全であると言われている。青々とした木々や色を持たないくらいに透き通った川、湖。それらが平和を象徴し、同時に営みを育んでいた。

 それらはあいにとって嬉しいことであり、誇りでもある。

「――重い」

「やはり藍姫には少し大きいですかね?」

「柄の部分はいいと思うんだ。握りやすくて。だけど刃が長いかも」

 鞘からつるぎを抜き取り、見聞する藍を見て、店の主は肩をすくめずにはいられないようだった。藍は十日に一度開かれる市を必ず訪れては武器屋を訪ねる。お目当ての物は剣で、藍はどうしても良いものがほしかった。

「もっと軽いのは?新しいのはないのか?」

 剣を鞘に収め、それを店の主である隆生りゅうきに返しながら、藍は問う。隆生は大きく溜息をつくと、藍をひたと見た。まだ若いのに、隆生の少し白髪交じりの髪は、あっちこっちに跳びはねている。その髪を撫で付けながら、彼は苦笑いして言った。

「藍姫。俺はまだ聞いてないんですが、一体全体本物の剣を買ってどうするんです?」

「はぁ?」

 あまりに分かり切った質問をする隆生に、藍は間抜けな声を出した。

「剣を持つのは敵を斬るために決まってるだろ」

「敵ってのは、夜叉のことですか?」

「他に敵がいるか?」

 地面に敷かれた敷物の上に並べられた幾本もの剣の中から、少し小さめのものを手に取り、藍はさっと眺めてみる。

「私ももうすぐ十五だし、そろそろ自分の剣ぐらい持った方がいいかと思うんだけど……」

 その言葉を聞くなり、隆生は更に重い溜息をついた。

「あのですね、あなたは姫ですよ?」

「そうだな」

「この世に存在する四つの国の一つ、碧の国の姫君なんですよ?」

「うん」

「更に言うと、あなたは唯一のおさの御子おこで、巫女でもあって、長姫おさひめでもあるんですよ?この国の姫君なんですよ?」

「ああ」

「ではなぜそんな高い御位におられるあなたが、村の市のこんな小さな武器売り場に来るのですか。いや、むしろ姫が、ましてや巫女が剣を持つなんて」

 その言葉に、藍はしかめっつらで隆生を見た。

「じき長の位につくのは私だろ?剣ぐらい扱えないと」

「姫が自ら太刀を振るわずとも、近衛のものがあるでしょう」

「あいつらは真面目すぎるうえにつまらないんだ。しかも私を守るはずなのに、実際は私の方が剣術に慣れてる」

「……一体おいくつになったらほうや男物の袴を脱がれるのですか」

「隆生、お前は説教姥か?どんな格好をしてようと、私は……って嘘!もう昼餉!?まずい。これから会議だ!」

 高く登った太陽を仰ぎ見、藍は驚いて声をあげた。あたふたと持っていた剣を置き、隆生に礼を述べると、足早にその場を去った。

「ったく、信じらんねえぜ」

 ぽつねんと残された隆生は呟く。

「あれがこの国の宝なんてな……」


 碧の国。この世界に存在する、四大国のうちの一つ。東側に位置し、国色は青。四神の一つである青竜を祭り、国頭くにがしらであるおさを中心として、国は成り立っている。代々この国のかしらである長の姓は克羅かつら、そして、今の長の名を芝韋しばいと言った。芝韋には妻と、一人の娘があり、妻はかつての碧の巫女で、今では瀬那せな様と敬愛を込めて呼ばれている。そして、この国の跡目を継ぐ長姫の名を、藍と言った。

 約十五年前、藍姫が誕生した折、国中が嬉しさと感動で包まれた。長の芝韋は、あまり若くはなく、姫が生まれた年には、既に四十のよわいを過ぎており、子供はなかなか望めなかったのだ。しかもその年は、嵐や干ばつ、夜叉の増加などによって国は幾分か乱れていた。それが、藍姫の誕生と共にピタリと止まり、翌年には、稲の穂が重みで垂れ下がるくらいの収穫が得られ、その後も大きな災害はなく、いつの間にか碧の国の人々は、藍姫のことをこう呼ぶようになった。

 ――碧の宝。

 実際、藍姫は宝と言っても過言ではないほどのものを兼ね備えていた。玉のような白い肌に、黒く大きな瞳。すっと通った鼻筋に、形のいいうすい唇。特に褒められたのは、その髪で、漆黒と表すに相応しく、滑らかで柔らかで、軽かった。陽に当たると、深い青に見えるのも、その言われだった。

 そしてその少女は、長の屋敷、克羅邸に向かって、言わば自分の家に向かって、大通りを全力疾走していた。

「まずい……本気でまずい……父上にどやされる……」

 時々藍の姿を見て、あら姫様、とか、ご機嫌いかがですか、などと声をかけてくる人もいるが、藍は手を振るだけで精一杯だった。走っていると、手を振っている間にその人の姿が見えなくなるのだから、仕方がない。市が開かれているためか、今日は人が多い。時々ぶつかりながらも、やっとのことで岡台の上にある屋敷に着いた。

 衛士えじは苦笑いをして出迎えた。藍は荒い息を押さえるため、胸に手を押し付けて、息も途切れ途切れに問う。

「父上は……会議はもう始まって……?」

「芝韋様は急用で会議を遅らせると言い渡しました。それでもすぐに始まります。急いで議院へ」

「ありがと!」

 言うなり、藍は衛士の脇を通り過ぎた。邸内に入るまでに、屋敷を囲む木柵は三重にもなっていて、その中で開いている場所が、唯一の通り道だ。そこには衛士がたくさんいて、どれも藍を見ると、気の抜けた様子で笑ったり、呆れたりしている。しかし、藍にとってはいつものことなので、全く気にせずに邸内へと足を踏み入れた。

 ――でも急用ってなんだろ……。

 克羅邸には、宮が八つある。議院ぎいん守院しゅいん内院うちいん國院こくいん智院ちいん正殿しょうでん空殿くうでん東殿あずまでんで、院は国務のための宮で、殿は長の私有宅だ。議はその名の通り、話し合いを行う場。守は国の防衛、内は国内の情報、國は国外情報、智は儀式や祭を司り、それぞれの院に一人、担当である将がいる。大体の場合、守、内、國、智の四人のことをまとめて、四将と呼んでいた。院にはその担当の家族や家来が住んでいて、それぞれの家と同じ役割を果たしている。正殿は、藍の父母、つまり、長とその妃の住まいで、藍の住まいは、空殿だ。ここには、長の子供が住まうのだが、芝韋の子供は藍しかいない。故に一人で住んでいる。もちろん本来なら、使え人である女人が、何人も住み込みで身の回りの世話をしてくれるのだが、藍がそれを嫌ったので、芝韋は藍に近い年の女人一人と、五十になる女人の計二人を置いているだけだった。この二人の女人は、藍の話し相手でもある。そして、東殿には、国の守り神である青竜が祭ってあった。

 藍は空殿に向かっていた。ぼんやりと、父の言う急用について考えながら、慣れた道を歩く。

 ――急用のために会議を遅らせるなんて……なんだか父上らしくないな。

 桜の木が並ぶ道を右に曲がり、やっと自分の生活している宮が見えた所で、藍は足を止めた。

 廊に腕を組んで立ち、こちらを睨み付けている者がいたのだ。

「げ……」

 思わず声に出したが、その小さな声が聞こえる位置に彼女はいない。だが、藍の口の形から、何を言ったか察したようで、途端彼女はその場で大声をあげた。

「一体全体何処で何をしてたのよ莫迦藍ー!!」

 屋敷中に聞こえるのではないかと言うほどの声量に、藍は無意識に半歩下がったが、すぐに彼女のもとに走り寄った。下手に逃げれば、後が怖い。

「ごめん琴音ことね。あ、えっと……市でですね……」

 両手を顔の前で合わせて、琴音の機嫌を取ろうと試みるが、相変わらず藍を睨み付ける目は細い。あれで見えているから不思議だ。

「剣を見てて……時間に気付かなくて」

「さっさとあがって。着替えなきゃ」

 藍の言葉を完全に無視し、空殿の女人である琴音は、くるりと背をむけた。怒ってはいるが、少なくとも今は急ぐ時だと理解しているらしい。藍はほっと胸を撫で下ろし、靴を脱いで廊に飛び乗ったが、またもやそこで藍を見た琴音から怒声が飛んだ。

「階段から登りなさい階段から!」

「は、はい!」

 藍は慌てて廊から飛び降りて、少し離れた場所にある階段まで走って靴を脱ぎ、廊を走って琴音のもとに戻って来た。琴音はプリプリして、奥の部屋へと先に入って行ってしまった。藍もおとなしくして後に続く。 部屋に入るなり、琴音は藍に巫女用の官服を突き付け、着替えろと言い付けた。ここは黙って受け取るのが得策だろう。藍は、怒りを買わない程度に苦笑しながら受け取り、急いで着替えた。

「全く、何で藍はいつも大事なことを忘れるの。会議は昼からって決まっているでしょう」

「今日は十日に一度の市が開かれてたんだぞ。夢中になったっていいだろう」

「夢中になりすぎると後でとんでもない目を見るわよ。何これ、緩いわ」

 ぐい、と琴音はいきなり裳の紐を引っ張った。藍は息詰まり、思わず呻く。

「痛い」

「痛くない」

「……なんでこんな格好してまで、私が会議に出なくちゃならないんだ」

「そんなの決まってるじゃない」

 ――そうだよなぁ……。

 ぼんやりと藍は声に出さずに呟いた。会議に出るのは、藍が巫女だからだ。巫女は、四大国全ての国にいて、それぞれに重要な役割を果たしている。碧の国では、先見と吉凶占い、東殿への祈り、国祭くにまつりの際の舞姫としての仕事があり、藍はその仕事をそれとなくこなしていた。

 白の小袖こそでを着、はなだ色のをはいて、上から空色の表着うわぎを羽織ると、巫女の官服は完了する。髪を結わなくてならないので、もう一人の女人である弥春みはるが、櫛で藍の髪をとかして束ねていた。藍は頭を動かさないように気をつけながら、横にいる琴音に聞く。

「ねぇ、琴音」

「何よ」

「父上が会議を遅らせたのは急用が出来たからだと言ってたんだけど……急用って何か知ってる?」

「いいえ。知らないわ」

「弥春は?」

「そうですねぇ……」

 髪の結い上げはすぐに終わった。藍は振り向いて弥春を見た。弥春は頬に手をあて、考え深げに言う。

早馬はやうまが来たというのは聞いておりますが……」

「早馬だって?」

「ええ。正殿に仕える女人からお聞きしました」

「何処から来たんだ?」

「さぁ……そこまでは存じておりません」


 議院に続く廊を通りながら、藍は弥春の言う早馬について考えた。ここ数年、早馬をとばすほどの緊急事態に陥ったことは碧の国内ではない。十年くらい前だろうか、藍がまだ巫女になったばかりの頃に一度だけ、北東の小さな村が夜叉の襲撃に合って大きな被害を被ったが、それぐらいだ。

 ――夜叉か?

 しかし、それにしては、藍は何も感じていない。奴らが何らかの行動を起こすと、なんとなくわかるのだ。それについては、多分巫女としての力がそうさせているのだろうと、勝手に決め込んでいる。

「失礼いたします。藍です」

 議院の入口に立ち、藍はそう言うと、御簾を片腕であげ、部屋の中へ入った。守、内、國、智の四将は、既にそれぞれに決められた座に胡座をかいていて座っていた。藍が立ったままの状態で頭を下げると、彼等も頭を下げた。待っていた者に先に礼をするのは、この場では礼儀となる。藍が座席にあぐらをかくと、國院の将である圭久けいくが早速聞いてきた。

「巫女姫。昼餉に克羅邸に入った早馬のことはご存知でございましょうか」

「先程、空殿の女人から聞いて参りました。会議が遅れたのもその早馬のためだとか」

「では、内容の程は?」

「申し訳ないのですが……何も……」

「やはり巫女姫も聞いておられんのか」

「圭久殿、長から聞いていないのですか?」

「圭久だけではない」 

内院の将である剛山ごうさんが、腕を組んだまま言う。

「巫女殿が来る前まで、我らは話していたのだが、誰一人としてことの次第を知らぬ」

「誰一人知らない?」

「わしが長の元へ行き、話を請おうとしたのじゃが無理じゃった。芝韋様は使いから事を聞き出しておられた。手が放せぬらしい。女人の話によると、大怪我をしておるとか」

 六十歳にもなる、智院の将である疾風はやてが、深刻そのものの表情で語るのを、藍は無言のまま見つめた。――大怪我だって?

「巫女姫、夜叉の行動と思われるか?」

「いや――」

 剛山はやはり腕を組んだまま動かない。それでも、目を爛々と光らせて、藍を見据える。

「――それはないと思います。気配がない」

「では内乱?」

「まさか。圭久、戯言はよすのじゃ」

「しかし、夜叉ではないのなら、それしか考えられないのでは?」

「それは……」

「まだ決まったわけではない」

「剛山殿、夜叉の襲撃ではないのに、怪我をした使いが早馬をとばしてくることがありますか?」

「圭久殿、やめて下さい。じきにその使いの者から長へ、長から私達の元へと事の次第は知らされます」

「俺、なんとなく予測つきます」

 突然、今まで口を開かなかった守院の将、たかが声をあげた。四十代から六十代と、高年な将が多い中、彼だけは二十代と若い。藍は喬を兄のように慕っており、喬も藍の面倒をよく見てくれる。実は空殿の女人の琴音と付き合っているのを藍は知っているので、よくからかいの種にしているが、議院で話し合う時に、そんなことは関係ない。

「夜叉の襲撃でも、内乱でもない。たぶん――」

「――紅南国からの宣戦布告だろう」

 低い、良く通る声が、議院に響いた。藍は御簾のかかる入口を見、慌てて頭を下げた。父、かつ長である、芝韋が姿を現した。

「長」

「遅れてすまなかった。例の使いから――」

一つ開いた座敷に座り、芝韋は深く溜息をつく。

「――事の次第を聞いていた。彼は……つい先程息を引き取った」

 その場に驚きと緊張が走った。全員が全員、凍り付いたように、芝韋を見つめる。

「な、亡くなったのでございますか?」

「三日間馬をとばし続けたそうだ。南西にある村の者で、襲撃を受けたことを知らせに来たのだが、酷い怪我と出血もあって……」

「村は?」

「壊滅したらしい。生き残った女子供が何人か近くの山へ逃げ込んだらしいが、それも今では生きているか分からぬと」

「そんな……」

 藍は声に出して呟いた。村が壊滅。一つの村に一体何人の人が住んでいると思っているのだ。十単位では数え切れない人々が、一週間前に命を失っている。

「各村や間道には警備の者を配置しているはずです。彼等はどうしたのですか」

「殺されたと考えるより他ないだろう」

 剛山の問いに淡々と答える芝韋が、藍には信じられなかった。国の民の百以上が、命を失ったというのに。それとも既に、事実を受け入れているのだろうか――。

「長、先程おっしゃられたことに間違いはないんじゃな?」

「先程?」

「紅南国の……宣戦布告……とか」

 疾風の言葉に、芝韋は真剣な表情になる。

「攻めて来たのは夜叉ではなく、人だったそうだ。それも紅の鎧を着、朱雀の旗を持っていたと。巫女姫」

 突然呼ばれ藍はビクッとしたが、すぐに姿勢を正して父長を見上げる。

「はい」

「一週間前に東殿で祈りを捧げた際、夜叉の気配を感じたか?」

「いえ……」

「その後は?」

「今日の祈りはまだでございますが、昨日までに夜叉の気配を感じた時はありません。それに、村一つを滅ぼすほどの夜叉の群れなら東殿にいなくとも分かります」

「――やはり事実のようだ。夜叉でないなら人であろう。内乱の可能性もありうるが……」

 それはない、と藍は思った。芝韋が治めるこの国の者は、誰であろうと内乱を起こさないはずだ。紅、緑、白の三国は夜叉の出没が相次ぎ、王も民も苦労しているのに、碧だけは平和で美しい。長は贅沢を好まず、祭の夜などは気軽に村々を訪問しては民と酒を飲む。故に、民と長の距離は近い。いや、それ以上に、元々碧の国の人々は団結する傾向にあるのだ。昔からの習わしでそうなっているのが、この国の良い所で、碧の国が立ってから起こった内乱など、数えるくらいしかないだろう。

 ――だけど……その碧の国も……。

「しかし芝韋様、碧と紅は同盟を結んでおります。故に――」

「故に何だ。あの国が突然攻撃をしかけてくることはないと思っていたか?」

 圭久は恥じ入った様子で俯いた。芝韋は背筋を延ばし、威厳ある態度そのもので全員を見回した。

「何れはこうなることを私は予測していた。紅南国は戦の国だ。白西国と、緑北国との戦いはそなた達の記憶にも新しいであろう。順番から言っても、次は碧だった」

 藍以外の全員が俯いた。藍だけが戦を知らない。紅と緑が十五年前まで戦をしていたのは知っているが、実際に見たことも経験したこともなかった。

「まずは真実を確かめねばならぬ。國将は紅南国と連絡を取ってみろ。内将は民がこのことがどれぐらい知れ渡っているかを。智将は紅南国の軍歴、守将は我が軍の状態、軍資を調べておくよう。それから早急に壊滅した村へ行き、山へ逃げたという女子供を救い出せ。しばらく会議はなしで、後日また開く。よいか、……慌てるなよ」

 芝韋が頭を下げたので、全員がそれに習った。会議終了の合図だ。腰をあげ、それぞれが御簾のかかった入口から出ていく。芝韋はまだ腕を組んで居座っていた。藍は立ち上がり、傍へと歩み寄った。

「父上」

「……藍、お前はどう思う」

「……わかりません」

 会議の時は長と巫女でもそれ以外の時は父と子だ。藍は腰を降ろし、覇気の強い父親を見上げる。

「父上の方が詳しいでしょう?」

「若い者の意見が聞きたい。どう思う?」

 藍は口を閉ざした。四大国で最も豊かで大きく、結束力の強い碧と、戦の国と呼ばれる程戦を好む紅。兵力も強いだろう。接戦となり、犠牲が大きいのは間違いないはずだ。

「――出来れば戦は避けたい……」

「……やはりそうか」

 会議の時や、民の前では絶対に見せない表情を、芝韋は見せた。苦渋が、彼の顔の皺一本一本に満ちているようだった。

「だがもはや確実であろう。碧がほうっておいても、紅は必ず来る」

 それは藍にも分かっていることだった。父は、会議の場でこそ四将に真偽を確かめるように言っていたものの、それだって形的な体裁だけで、真実はとうに決まっているのだ。次代の長となるべく幼い頃から教えられ、父を見て来た藍には分かる。

「たくさんの血が流れます。回避するすべはないのでしょうか?」

「ないであろうな」

 藍は唇を噛んだ、史記や人伝えにしか聞いたことのない戦がはじまる。見たことはなくても、聞けば分かる。戦なんて、残酷で無意味だ。しかし、藍は口には出さなかった。言っても仕方のないことだと分かっている。代わりに話の論点をすり替えた。

「紅南国は何が目的なのでしょうか。白を攻め、緑を攻めましたが、結局は講和を受け入れています。そして今度は碧……」

 芝韋は黙ったままだった。藍の質問に答えない。沈黙は池の水面を揺らす事なく続き、そこに、唐突に石が投げ込まれた。――芝韋が立ち上がった。

「藍、東殿から出来るかぎり離れるな。夜叉以外のことも注意するよう心掛けよ。出来るかぎり先見をしてほしい」

 立ち上がり、議院から出ていく芝韋の背中を、藍は座り込んだまま見ていた。


 国と国との争いが始まるという噂が碧の国中に流れるまでに、そう時間はかからなかった。國将の圭久が紅南国に連絡を取ろうと試みたが、向こうは頑として応じなかったという。

 守将の喬は、逃げた女子供を救うため彼自ら軍を指揮し、壊滅させられたという村に向かって周辺地域を捜索した。結果、山中に逃げのびていた女四人と、子供五人が救出された。今は藍の空殿の別室で、保護を受けている。彼女達の話からしてみても、やはり紅南国が攻めて来たということに、間違いはないようだった。

 藍はというと、救出された者達の世話を自ら請負、剣術の稽古を今までの倍に増やし、そして、それ以外の時は東殿で巫女としての仕事をしていた。本当に戦が起こるなら、剣が使えないで何が出来よう、と藍は思う。

「腰が高い!気が緩みすぎだ!」

 早馬が来てから数日後の、太陽も沈みかけ、空も赤く染まり始めた夕刻時、克羅邸屋敷の中庭には木剣と木剣のぶつかる音と大声が響いていた。

「くっ……」

 衣が汗を吸い、身体にまとわりついて気持ちが悪い。一つに束ねただけの髪も解けかけている。しかし、そんなことを気にしている余裕はなかった。藍の剣術のしょうである喬は次々に剣を振るってくる。

「どうしたんだ!それじゃ戦どころか、人妖にんように食われても仕方ないぞ」

 人妖とは、人の形をした、弱く脳のない夜叉の種類のことで、藍は実物を見たことはないが、その姿や特質などはもちろん知っているし、喬が言った言葉は、人をばかにするための決まり文句だと知っている。

「なん――」

 思わずカッとなって、藍は剣を大きく振り上げた。そこへ喬が、隙あり――と言わんばかりに己の剣で、藍の手元の辺りをはじく。痺れるような感覚が腕を伝ったと思ったら、次の瞬間には、木剣が宙を舞い、カラカラという音を立てて遠く離れた地面に落ちた。喬は剣を藍に突き付けると、頭に来るほど冷静に言う。

「挑発に乗るな。藍の悪い癖だ」

 藍は汗びっしょりだというのに、喬は息一つ乱れていない。――この大差はなんなんだ?悔しくて、藍は無言のまま、弾き飛ばされた木剣を拾いに行った。その背中に向かって、喬は更に追い打ちをかける。

「戦場に出たら剣を拾うのなんか誰も待ってくれないぞ」

「そんなことは分かってる!」

 サッと剣を拾い上げ、藍は素早く走り寄った。

――こんな余裕な表情のまま終わらせてやるものか。

負けず嫌いな藍は、喬の懐に走りこむ。

「おわっ!?」

 まさか突っ込んでくるとは思わなかったのか、喬は一瞬怯んだ。その間を藍が逃がすはずもなく、素早く喬に顔を近付けると勝ち誇った笑みを浮かべた。

「戦に男も女もないぞ」

 再び剣が宙に舞った。先程飛んだものより少し大振りなその剣は、中庭のすぐ近くにある正殿の階段下まで飛んだ。喬は地面に背を向けて横たわっている。その襟元を左手で掴み、右手に持った剣を彼の首に突き付けているのは藍だった。

「――国一番の剣術士として名高い喬守将がこの有様か?」

「卑怯だぞ!その手はなしだと言っているだろ!」

「問答無用!私の顔が近付くことに慣れてない匠が悪い」

「あのな、俺は青春真っ盛りの男だぞ?女の顔が近くにあって驚かない理由があるか?」

「そんなこと言ったら琴音が怒るんじゃないかなぁ?」

 藍はおどけながら笑顔で言う。しかし全く気を抜いてはいなかった。その証拠に、喬は身動き出来ないでいる。

「……分かった。まいった。俺の負けだ。だから離せ。背中が痛い」

 その言葉に、藍はようやく剣を引き、服を掴んでいた手を離した。喬はと言えば、藍が女じゃなければあんな無様なことには――と一人呟きながら、砂埃を掃っている。

 ほっと一息ついてから、藍は空を仰ぎ見た。東の空は、既に闇が架かりはじめていた。熱い体に風が気持ち良い。背中で髪が揺れているのがくすぐったかった。稽古を始める前に一つに束ねていたはずの髪は、今や完全にほどけている。

「よし。今日は終わりだ。ご苦労ご苦労!」

 振り向けば、喬が藍の髪結びの紐を差し出しながら、笑んでいるのが分かった。喬は忙しい。守将としての仕事をする合間をぬって藍に稽古をつけてくれている。藍は髪結いの紐を受け取り、それの意味も含めてありがとうと礼を述べた。

「いや。それよりもだな……藍、お前あれやめろ。心臓に悪い」

 喬の言葉に、藍はキョトンとし、そして数秒の後に吹き出した。

「だって、喬に勝つ方法ってあれぐらいしかないし」

「だからって近付きすぎだろ。鼻と鼻がくっつく紙一重の距離だぞ」

「数少ない女の特権を活かさない手はないし、それに言ってるじゃないか。私の顔が近付くのに慣れてない匠が悪いって」

 腰に手をあて、少し挑戦的に喬を見上げながら藍は言った。それとは対照的に喬は溜息ついた。

「あーあ。嫌な弟子を持ったもんだぜ俺も」

「私も嫌な匠を持ったな。彼女に怒られっぱなしのヘタレ男なんて……自分がかわいそう……」

 ほう――と息をつき、明らかにわざとだと分かるように悲し気に言う藍を、喬は細い目で見た。

「こんの~。言ったな!」

 喬は藍の首に腕を回し、頭を拳でグリグリと押さえ付けた。藍はと言えば、痛いー!と叫んで、必死に逃れようとしている。二人が暫くじゃれ合っている間に、女人に議院の廊から声をかけられた。

「またお二方ともそんな所で!もうすぐ夕食ですよ!」

 喬と藍は女人を見、そして二人して顔を見合わせ、何がおかしいのか分からなかったが、ひとしきり笑い合った。

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