8−3

「久しぶりね、聡介。全然帰ってきてくれないから、きちゃった。はい、おみやげ」

「母さん……」



 硬い表情で、聡介は呟く。

 店に入ってきたのは聡介の母親だ。有馬は素早く立ち上がり、母の重そうなバッグを引き受ける。

「おばさん、お久しぶりです」

「有馬君、本当にお久しぶりね。変わらないわねぇ。ご家族は皆さんお元気?」

「元気ですよぉ。弟も妹も大学生で。いつもおかずの取り合いです。仕事で遅くなると僕の分なんか残ってなくって」

「ふふ。本当に変わらないのね」

 有馬のおかげで少し空気が和らいだ。母も少し笑って、カウンターに腰かけた。

 聡介は珈琲が苦手な母のために紅茶を淹れる。

「どうしたの、急に。くるなら連絡くれればよかったのに」

「いいじゃないの、別に。それより、ちゃんと食べてるの。少し痩せたんじゃない?」

「変わらないよ」

「聡介、少し顔つきが変わったわね」

 言いながら、じっと顔を見つめてくる。

 自分ではわからないが、変身するようになったことで何か、身体に変化があったとしてもおかしくはない。

 それを敏感に察しているのか。それとも、何か探ろうとわざと言っているのか。

「聡介、お願いだから危ないことはしないでね」

 昔からよく聞いた台詞だ。

 遠くには行かないで。危ないことはしないで。

 何度聞いたかわからない。言われるたびに胸が痛んだ。

 母に心配をかける自分は、悪い子なんだと。

 聡介は明るい顔を作り、手のひらを母に見せる。

「しないよ。喫茶店で危ないことなんてないだろ。強いて言えば火傷くらいかな」

「それもそうね。変なこと言ってごめんね」

 大きく息をつき、紅茶を一口飲み満足そうに微笑んだ。

 それから、改めて店内を見渡す。彼女の目に飛び込んでくるのはもちろん、特撮ヒーローのフィギュアたちだ。

「それにしても、ずいぶんと賑やかになったわね。見覚えのある物もあるわ。聡介は今もこういう……ヒーロー物が好きなの?」

「うん、まぁ」

 意外にも母は少し嬉しそうにして、手近にある一体を手に取り、懐かしそうに眺めた。

「そうだ、お客さん用の布団あったわよね」

「えっ、泊まるの、母さん」

「何よ、いけない?」

「いや、泊まりはごめん。困るんだ、実はその……」

「散らかってるの? 掃除くらいしてあげるわよ。急にきたのはこっちだし」

「そうじゃなくて……」

「聡介! やっぱ降ってきたよ、洗濯物取り込んで正解!」

 明るい声で言いながら、パタパタと階段を降りてくる音がする。

 しかし途中で賑やかな足音がぴたりと止まる。

 静かに店内に戻ったヒトミは視線を泳がせ、ひどく動揺した様子だった。

「俺の母さんだよ。こちらはヒトミさん、店を手伝ってもらってる」

 聡介が紹介すると、ヒトミは母のそばまで駆け寄り、深々と頭を下げた。

「初めまして。聡介さんにはお世話になっています」

「あら……なんだ、そういうことなの。早く言いなさいよ。聡介にはもったいない美人さんね」

 母は笑顔だったが、声音にはどこか棘がある。ヒトミは気圧されたように俯いて、言葉に詰まっていた。

 母は遠慮なくヒトミを値踏みするように眺めている。その表情は少し意地悪いものだった。

 母にしてみれば、ちっとも連絡してこない息子を訪ねてみたら、住居である二階から女が降りてきたのだ。しかも洗濯物がどうこうと言って。

 ただの従業員ではないのは察するだろう。親としては、交際している、ましてや同棲までしている相手がいるなら話して欲しいと思うのは当然のことだ。

 聡介も、そういう相手がいてもおかしくない年齢なのだから。

「いつからおつき合いしてるの? 一緒に住んでいるってことは、けっこう長いの?」

「いや、いつからっていうか……その、この人は」

 なんて言おう。ただの居候なんて信じてもらえないだろう。

 いっそ同棲しているとヒトミを紹介するか? どうせご近所の人はみんなそう思ってるんだ。

 だけど母さんにまで嘘をつくのは気が重い。それに、交際していると言えば、ヒトミの素性を知りたがるだろう。そうするとまた嘘を重ねることになる。

 聡介が言葉に詰まると、すかさず有馬が間に入ってきた。

「おばさん、よかったらうちに泊まりますか? 母も久しぶりに会いたいんじゃないかなぁ」

「あら、そんな急にお邪魔しては悪いわ。……だけどそうね、ご挨拶には伺おうかしら」

「どうぞどうぞ、今日は家族揃ってますし。すぐ電話しておきますね。聡介とは明日の定休日にゆっくり過ごせばいいじゃないですか」

 有馬に乗せられて、母はその気になっている。有馬のこういう機転には本当に助けられる。

「じゃあ、ちょっと有馬さんのところへ行ってくるわね。夕食は一緒に食べるでしょう?」

「もちろん」

 聡介が頷くと、安堵したように頬を緩め、有馬に連れられて店を出て行った。

 母が店を出て行くと、二人同時に息をついた。

「……わたし、何か変だった?」

「いや、全然。ごめん、上手く誤魔化せなくて、嫌な思いさせたな」

「優しそうなお母さんじゃないか。よっぽど心配なんだな、聡介のこと」

 そう言ってヒトミは笑う。その笑顔は今まで見たものとどこか違っていた。優しくて、だけどどこか芯の強さを感じさせる。

 少し考えてから、ああ、これは母親の顔なんだと思い至る。

 彼女も母親なのだ。

 店を閉めたあと、ヒトミも夕食に誘ったが、親子水入らずでどうぞと言って二階へ引きこもってしまった。

 母とは、近くの寿司屋で夕食を取ることになった。

 ヒトミのことを詮索されるだろうと思っていたが、意外にも彼女の話は出ず、家族の……聡介にとっての義父と妹の話に終始した。

 その顔は朗らかで、本当にいい人と再婚したんだと安心できた。

 母は結局、二駅向こうのビジネスホテルに泊まることにしたようだ。とりあえずヒトミのことは訊かれずに乗り切れたかと思ったが、それは考えが甘かったようだ。

 別れ際に、母は心は笑っていない笑顔を聡介に向けて言い放つ。

「明日は、定休日でしょう。ヒトミさんと三人で出かけましょう」

「え、いや、でもそんな急に……」

「何か予定があった?」

 問いかけに口ごもると、予定などないとバレたのだろう、母は一方的に待ち合わせの時間と場所を決め、さっさとタクシーに乗り込んでしまった。

 やはり逃れられないか。

 仕方がない、今夜、ヒトミと口裏を合わせるための会議だ。

 母に嘘をつくのは心苦しいが、本当のことを打ち明けるわけにはいかない。

 どこからつっこまれてもいいように、細かく設定を考えなければ。

 ヒトミの生い立ちや人柄、交際期間と一緒に暮らし始めた経緯は必須、他は何を訊かれるだろうか。有馬にも知恵を借りよう。

 ある程度考えておけば、ヒトミは母の反応を見ながら上手く立ち回ってくれるだろう。

 考えながら、はたと気づく。いつの間にか、ヒトミのことを信頼している自分に。

 自分を騙していた女だ。聡介を利用して、戦わせようとしているのだ。

 それなのに。

『好きなんでしょ、ヒトミさんのこと』

 有馬の言葉が蘇り、年甲斐もなくカッと顔が熱くなる。

 いやいやいや。違う。それは違う。

 困っている人を見捨ててはおけないだけだ。第一、男ならあんな美人に頼られたら、誰だって悪い気はしないだろう。

 自分に言い聞かせながらも、なんだかヒトミと顔を合わせるのが照れくさくなり、聡介は扉の前で立ち止まる。

 とにかく、今は明日どうやってやり過ごすかを話し合わなければ。

 そう思い、深呼吸する。自分の家に帰るだけなのに、どうしてこんなに緊張するんだ。バカバカしい。

「ヒトミさん、ただいま。晩飯なんか食ったか? まだなら何か簡単なもの作るけど……」

 声をかけながら階段を上がる。しかし、明かりはついていない。

 二階のどこにも、ヒトミの姿はなかった。

 ソファーの上には、聡介が用意した制服などの衣類が、きちんと畳んで置かれていた。

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