無言の転生者と感情のない国

@infinity5506

プロローグ

 最期の瞬間は気持ちがよかった。

 男は見知らぬ空間で意識の欠片を取り戻す。

 俺はちゃんと死ねたのだろうか。

 最後の記憶は視界に入っただらしなく伸びる自分の足と言い知れぬ快楽。全てがそこで終わったはずだった。

 しかし、今こうして男は確かにそこに存在していた。そして、手も足も当たり前のように動かすことができ、左胸に右手を当てるといつも通りに心臓は脈を打っている。ここが首を吊ったあの1DKのしがないアパートではないことは間違いないが、どうやら生きていることも間違いではないようだった。

 ではいったいここはどこなのだろうか。

 なにか手掛かりはないかと男は周囲に目を配る。しかし、目に映るものは何もなく、あるのは深く重たい闇。あまりの暗さに目を開けているのかどうかさえもわからなくなるほどだ。また、耳を澄ましてみても聞こえるのは自分の呼吸と心臓の音だけ。身じろぎひとつの音さえも気になるほどの静寂に包まれていた。

 男はそんな異次元のような空間に浮かんでいる。深い水中を漂う感覚に近いがそれよりも身体は軽い。無重力というものを体験したことはなかったが、その表現が最も適当な気がした。

(おい、冗談だろ……)

 思わず発したはずの言葉は何故か声になる前に消えた。

 これは夢なのだろうか。それにしてはあまりにも意識がはっきりとし過ぎている。もちろん、頬をつねったところで目は覚めない。だからと言って現実というには問題が多過ぎる。

『永遠の闇』

 ふと、そんな言葉が男の脳裏によぎる。

 まだ男が現実世界にいたころ、ネットでくだらない都市伝説を漁っていた時期があった。それは本当に荒唐無稽で、根も葉もない、真面目に語れば異常者扱いされるような記事ばかりだった。男が思い出したのはその中で見かけた死後の世界の話だ。

 その記事では、現世で善行を行った人間は天国へ昇り、悪行を重ねた人間は地獄へ堕ちるといったありきたりな死生観が書かれていた。しかし、そこには例外があるとも書かれていたのだ。その例外とは自殺者。現世で自ら命を断ったものは殺人以上の罪とされ、地獄へ堕とされることもましてや天国に昇ることも許されず、永遠の闇を彷徨うことで罪を償うのだと。

(いや、そんなことって……)

 恐ろし想像に背筋が寒くなる。もしそんなことが本当に自分の身に起こっているのであれば、それはどこまでも救いのない話だ。

 無限に続く苦悩から逃れるために自分を殺した。しかし、それでも終わることは許されないということなのだろうか。確かに、それは自殺者への最も過酷な罰には違いないが。

(そんなのありかよ! ふざけんなよ。 耐えられわけないだろ。ここから出してくれ! 誰かいるだろ! )

 声にならない叫び。男の精神は早くも蝕まれていく。純然たる闇の中で正気を保てるはずがない。ましてやそれが無限に続くとなればなおさらだ。


 幾ばくかの時間が流れた。それがどのくらいの時間だったのかは男にはわからない。終わりのない無の空間は男から時間の概念を奪った。また、理由はわからないが空腹になることもなければ、眠くなることもない。残酷なことに意識ははっきりと保たれ続け、この暗闇から逃れることは許されなかった。

 やがて現世での記憶も薄れ始め、自分が何者であるのかさえも最早あやふやになった。そして、男の精神は完全に崩壊し、発狂に至る。

(おい! お願いだ……神でも悪魔でも何でもいい。聞こえてるなら応えてくれよ。お願いします。応えて下さい。俺の声を聞いて下さい。頼むから……なぁ、頼むからざぁ! 聞げよ!! ぐそがぁぁぁぁあああ! こだえろぉぉ! あぁぁぁあ?! バカにすんなよ?! ふざげるなぁぁあああ! ここから出せよ! はやぐじろおおぉ!はやぐしろよぉ……)

 涙、鼻水、涎、尿ーーあらゆる液体を撒き散らしながら男は叫ぶ。頭を抱え、身体を芋虫のように激しくうねらせながら。しかし、その叫びは先程までと同様に声にはならず、虚しく消える。誰にも届くことはないーーそう思われた。

「愚かな罪人よ。苦しそうじゃな」

 突如男の耳に女性の声が届く。その声色は幼く、凪いだ海のように優しかった。男はすがる思いで呼びかける。

(誰かいるのか? いるんだろ! 助けくれよ! ここから出してくれ。頼むから。頼むよ…)

 懇願する男の前に光を纏った何かが姿を現わす。いつぶりかの光に思わず目を覆った。眩し過ぎて直視することができない。しだいに目が慣れ始め、男はようやくその姿を捉えた。

 目の前にいるのは少女と呼ぶにふさわしい年頃の女性。足下まで長い銀色の髪を垂らし、紅い宝玉のような両眼でこちらを見下ろしていた。一糸纏わぬその姿は神秘的で、いやらしさは微塵も感じさせない。

(神……様……?)

 もし神が存在するのであればきっとこのような姿なのだろうと思い、自然と言葉が紡がれた。

「神か……あながち間違いではないじゃろう。ぬしらが想像する存在の中では、なるほど。確かにそれが最も相応しいかもしれぬな」

 少女はまんざらでもない表情を浮かべ、ふむふむとひとり納得したように頷いた。

「まぁ、わしが何者であるかなどどうでも良い。取るに足らぬ些末な事柄じゃ。それよりもわしが何のためにぬしの前に現れたか。そのほうがよっぽど重要じゃろ。違うか? 」

 見た目に似つかわしくない言葉遣い。しかし、そう問いかける少女の顔は子供っぽい悪戯な微笑を浮かべていた。

 茫然と見惚れていた男はその言葉で我に返り、助けを請う。

(そうだ……あなたが誰だって構いはしない。助けてくれ。救ってくれ。ここは耐えられない。出ることが叶わないのならば……殺してくれ)

「ふむ。ぬしの願いはわかった。しかし、そう簡単にここから出すことはできぬ。これは命を冒涜したぬしへの罰じゃ。万物の理を穢す罪人に相応しい罰よの。ましてや殺せとな。可笑しなことを言う。ぬしはすでに死んでおるのじゃ。殺せるはずなかろう」

 少女は男の言葉に声をあげて嘲笑う。そして、ひとしきり嘲笑い終えたあと続けた。

「とは言え、このままぬしの願いは何も聞けませんではわしがわざわざ出張った意味がないというもの。充分な罰を受けているぬしへの嫌がらせにしては度が過ぎる。わしはそこまで性格は悪くないのじゃ」

 わかるな? と言わんばかりに少女は男の目を覗き込む。肯定する以外の選択肢はないだろう。男は黙って頷いた。

「ふむ。そこでわしは考えたのじゃ。ぬしの願いを聞きながらもぬしに罪を償わす方法を! 」

 聞きたいじゃろ? と言わんばかりに少女は……中略。男は黙って頷く。

「素直なことはいいことじゃ。ぬしに選択肢を与えよう。もう一度生きるかこのまま永遠の闇を彷徨うかじゃ」

 少女の提案に男は目を見開く。

(生きる……? もう一度人生をやり直すのか?)

「ふむ。やり直すといってもぬしの世界ではないがな」

(どういうことだ?)

「ぬしが生まれ変わるのは、第四の世界『セラ』。ぬしはそこで感情を取り戻す旅へ出るのじゃ。そして、そこへ行く条件は三つ。

 一つ.靭やかな絹の如くぬしを護る表情は失われる

 一つ.深い霧の如くぬしを隠す言葉は失われる

 一つ.自らの命を絶てば無間地獄へ堕ちる

 ぬしは何故自ら命を絶ったのか。その真の理由を知らなくてはならない。人間は何故生きていくのか。その真の意味を知らなくてはならない。

 それを知ってはじめてぬしは自らの咎を償えるのじゃ。その旅路は決して甘いものではないぞ。場合によっては永遠の闇よりも過酷な旅になるかもしれぬ。さぁ、どうする?」

 少女の言葉に男は沈黙する。

 そして、微かに残る現世での記憶。その残骸を拾い上げた。

『道化』--それはどうしようもなく愚かな存在。それが現世での男の姿。巧みな話術と多彩な表情はいつしか真実と嘘の境界線を曖昧にし、感情を堅い檻の中へと閉じ込めた。表面だけを取り繕い、あたかもうまく生きているかのように自分も他人も騙し続けた。他の生き方を知らなかったのだ。道化でなければ人と接することができなかったのだ。それほどまでに男にとって他人は理解し難い異質な存在で、いつ牙を剥くかわからない彼らを恐れていたのだ。

 しかし、その徹底した道化振りは見事なもので、周りには自然と人が集まった。無論誰とも分かり合うことはできなかったが、男なりに精一杯生きた。繰り返す仮初めの日々に苦悩しながらも懸命に。たとえそれが偽りだとしても積み上げたのだ、ひとつづつ。いつしかそれは男の誇りになり、自信となった。そして、いつか自分の元にも『幸せ』という名の救済が訪れるのではないかと信じたのだ。

 しかし、それは思い過ごしであり、甚だしい勘違いだった。偽物はいくら積み上げても偽物のままで、些細なきっかけひとつで無惨にも崩れ去ってしまう。いつまで待っても救われることはなく、世界は驚くほど簡単に自分を拒絶する。そのことをいやというほど思い知らされた。自分の人生に意味などないと気付かされた。これ以上無駄に傷付き、価値のない日々を過ごすくらいならばいっそ--そして、男は自らの命を絶ったのだった。

 だからこそ少女の提案には躊躇してしまう。仄暗い生に対する不安が選択を鈍らせる。

 しかし、男の心の奥底には未だに微かな希望があった。

『幸せ』を知りたい。

 それはかつて男が何よりも求めたもので、決して手に入れることができなかったもの。もし生きることから逃げ出した自分にもう一度機会が与えられるのであれば……。

(一応聞いておくが、無間地獄っていうのは?)

「地獄の最深部じゃな。人類破滅レベルの大罪を犯した者だけが行ける所よの。簡単に言えば、この永遠の闇が天国に思える場所じゃ」

(なるほど。凄まじくヤバい場所なのはよくわかった。あと、第四の世界って何だ? 感情を取り戻す旅っていうのはどういうことだ? 何をしたらいい? 取り戻したらどうなる?)

「第四の世界は数ある世界のひとつじゃ。それ以上でも以下でもない。世界は平行していくつも存在しているのじゃ。とは言っても三次元に囚われているぬしには到底理解が及ばぬ話しよの。あとの質問は行けば分かることじゃ。そして、旅の結末はその目で見届けるのじゃ。わしからはこれ以上は何も言えん」

(確かに話が飛躍し過ぎて到底理解できないな。でも、この状況がすでに理解の範疇を越えてるせいで何となく信じてしまう自分が恐ろしい……。あとは答えてくれないか。まあ、何もかも教えてくれるのだったら罰にはならないよな。じゃあ最後に、何で俺に選択の余地を与えた? あなたが何者かは知らないが、別にこのまま俺を永遠の闇に閉じ込めておいてもいいはずだ。それが本来の罰なんだろ? それに、俺以外にも自殺者なんていくらでもいるだろう)

「質問の多い奴じゃ。別にたいした意味などないわ。単なる暇つぶしじゃ。ぬしを選んだのも単なる気まぐれ。だからぬしは何も考えずただアホみたいに選べばいいのじゃ。まったく、いつまでチュートリアルをしているつもりじゃ? 説明書の端から端まで説明書を読まないとゲームを始められないタイプか? 石橋を叩き壊すまで渡らないつもりか? そんなんじゃから人生に迷って自殺するのじゃ。もう答えは決まってるのじゃろ? だったらさっさと選ぶのじゃ!」

 男の質問責めに少女は少々苛立ち気味だ。マシュマロのように白い頬を、ぷっくらと膨らませている。それに言葉にもかなりの棘を感じる。

(いや、そこまで言わなくてもよくない? こっちは新たな人生掛かってるんだよ? 慎重になってもよくない? )

 ギロリと少女の鋭い眼光が向けられる。

(わかった。俺が悪かった)

 少女の言う通りだった。わけのわからない状況でわけのわからない提案をされ戸惑う気持ちがあった。生に対する言いようのない不安が踏み出すことを躊躇わせた。しかし、それよりも永遠の闇を永遠に彷徨うのはごめん被りたかった。また、何よりも新たな生に対する漠然とした希望が上回っていたのだ。

(人生やり直させて下さい。すぐにでも。超特急で)

「ふむ。最初からウジウジと悩まずにそう言えばよいものを。世話のかかる奴じゃ」

 どこか満足げに少女は頷く。

「では早速ぬしを転生させる!」

 そして、少女が目を閉じ祈るように何かを唱え始めると、男の身体を暖かな光が包み始めた。

(何だこれは……暖かくて、優しくて、なんかとっても……気持ちいい!)

「気持ち悪いから黙るのじゃ。いや、はなから声は出しておらぬか」

 少女から皮肉めいた笑いがこぼれる。

「今一度条件を確認しておく。

 一つ.靭やかな絹の如くぬしを護る表情は失われる

 一つ.深い霧の如くぬしを隠す言葉は失われる

 一つ.自らの命を絶てば無間地獄へ堕ちる」

(わかった)

「ぬしが取り戻すのは感情じゃ。その意味するところはぬし自身の目で確かめるのじゃ。過酷な旅路になるじゃろうが、決して諦めるのではないぞ」

(二度とここへ戻ってこないように頑張るよ。ましてや無間地獄なんてたとえ死んだとしても、死んでもお断りだからな)

「その意気じゃ。さて、そろそろ時間じゃ。間もなくぬしの魂は第四の世界セラにて転生する。最後に、心優しいわしから餞別として【一振りの剣】と【一欠片の安らぎ】を与えよう。きっとぬしの旅路の導となろうぞ。ぬしの前途に幸多からんことを!」

(あなたが誰だか結局分からなかったけど、とりあえずありがとう。行ってくる!)

 そうして男の身体は完全に光に呑まれて消えていく。それは長い過酷な旅の始まりを意味していた。

「頼んだぞ……」

 永遠に繰り返される闇の中で少女の発した言葉は

 、誰の耳にも届くことなくふわりと消えた。

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