お酒は二十歳になったから

 小学生の頃、同級生の中川と橋下と、怪我をしたカラスの世話をしていたことがあった。

 怪我をして飛べなくなっていたそいつをブラクロと名付けて、子供なりに可愛がっていたと思う。

 狭いところじゃ可哀想だという子供ながらの気遣いはあって、犬小屋程度の檻に天井をつけて、滅多に人が来ない空き地のスペースで飼っていた。

 餌をくれるという認識は持ってもらえて、人が来ると媚びるように鳴き声はあげていた。それを可愛いと思うようになって、より飼育への熱は燃え上がったものだった。

 けれど、傷が癒えてカラスは窮屈そうにしながら羽を伸ばし、物足りない様子を見せるようになった。

 カラスは本来、人に飼われるような動物じゃないのだ。空を自由に飛び回り、人の世界と共生しながらも、過剰な干渉はしない関係であるべきなのだ。

 僕は、ブラクロの鈍く光る瞳を見つめた。

 ここから出して。

 そういっている気がした。

 僕は、二人の了解も得ずに、ブラクロを逃した。

 一度よろめいてうまく飛べていなかったけど、二、三度翼をはためかせて空へと登っていくブラクロは、お礼をいっているような気がした。

 それから中川と橋下とは大喧嘩して、「偽善者」とか「正義の味方気取り」とか罵られた。その当時は体も大きくてやんちゃだった僕は、殴り合いを受け入れた。その結果痛み分けでボロボロになり、その二人とは絶交した。

 若かったと思うし、そもそもブラクロを飼っていた時点で偽善的なことは間違いではないと思う。

 けれども、僕はブラクロを空に帰したことを少しは後悔しているけれど。

 間違っていたとは、微塵たりとも思っていない。






 お酒なんて悪い子の飲み物だと教えられていたカオルは、案の定居酒屋は初めてだった。

 安価な料理と安価なお酒。そして安価なサービスという安いもので構成された大衆居酒屋は、すでに人で賑わっていた。最近は個室居酒屋が流行りの中、仕切りは暖簾のみなので、隣のテーブルから騒がしい声が聞こえてくる。隣どころか、酔った者たちは周囲の環境など御構い無しに騒いでいるから、もうしっちゃかめっちゃかである。

 今日もまた、いいとこ見せようと調子に乗った大学生が、床に無理をした証を撒き散らしていた。あの大学生、さっきはオシャレなイタリアンか何かに行っていたな。吐瀉物までイタリアンだったよ。


「なんか、すごいとこだね」

「こんなのはすごいとはいわない。普通だわ」

「……世の中って、恐ろしいな」

「なに甘ったれたことをいってんだ。世の中を怖いと語るには、まだまだ知らないことで溢れてるってーの。例えばお酒の味とかね。店員さーん」


 呼び出しボタンを押すこともめんどくさくて、声を張り上げて店員を呼んだ。袖を捲り上げてタオルを巻いた、好漢に見える店員さんは、僕たちの前でハンディを構えた。


「ご注文は?」

「あの、お水……」

「生中ふたつね」

「かしこまりました。少々おまちくださいっ」


 カオルは、目に涙を浮かべながらこちらを見つめていた。目尻は上がり気味だった。


「お酒なんて、飲めない」

「そんなの飲んでみなきゃわかんないよ。何事もチャレンジだ」


 ほどなくして、生ビールのジョッキが二つと、お通しの枝豆が僕らに眼前に置かれた。ホップがしっかりとかぶさっていて、ビールの醍醐味を感じた。だいぶ気温は下がってきたけど、ビールは冷えてなければおいしくない。


「カオルの初めて、私がもらうぞ」

「なんかやだな、その言い方」

「それじゃあ……えーと、なんにも思いつかないけど、乾杯!」

「……かんぱい」


 カランとジョッキが音を奏でて、一気にビールを口へと運んだ。一人で飲みに行く勇気は僕にはなかったし、元から少ない友達とはなかなかスケジュールが合わない。だから飲みにくるのなんて、久しぶりだった。

 初めはただ苦くて何がいいのかわからないものだったけど、その苦味に違いがあるんだとわかった時には、気がつけば抵抗なく飲めるようになってきた。それが大人というもの、かもしれない。


「あー。いいねー。カオルはどうだい? 初めてのビールの味は?」


 口元も表情も、何もかもが歪んでいた。はっきりとした苦痛を余すことなく表情で表している。僕はそれがおかしくってたまらなくて、ゲラゲラと笑い飛ばした。


「何がおかしいの?」

「その顏。初めてのビールはきつかった?」

「別に……」


 そういって再びジョッキを口につけるが、見せるのはまた同じ顏。

 僕は再びゲラゲラと笑いだした。


「お酒を飲むのって、不愉快」

「まあビールの味がわかるには、ちょっと大人にならなきゃね」

「大人って、一体何?」


 そんな哲学的な問いに、正しい答えは持っていない。

 けれども、そんなに考える必要なんてないだろうと思う。未成年にはできない大人の遊び、飲酒を楽しめるのって、きっと大人の特権だろうから。


「楽しく酒を飲んで、適度に嫌なことをぶっぱなすのが大人だよ」

「じゃあ、お酒を飲めない人は?」

「知らん。それを自分で考えるのが、大人じゃないか」

「大人って……」


 理不尽だ、と呟いてカオルは顏を伏せる。頬はわずかに朱を帯びている。お酒に弱い体質なのかな。まだビールを二口ばかりしか口にしていないというのに。

 あんまり無理をさせるわけにはいかなさそうだ。次に飲ませるとしても、弱めのカクテルとかにしておこう。いやでもカクテルの方が強いのか……うーむ。

 まあ細かいことを考えない。楽しい飲みの場なのだから。


「ビールは無理して飲まなくてもいいから、次はどんなのが飲みたい?」


 カオルは、恥ずかしそうにちっちゃな声でいった。


「甘いやつ」


 カクテル決定だった。

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