店の中に入ると温かい空気のかたまりが外の冷たい風によって縮こまっていた身体を包み込んだように感じて、優里はわずかにもその熱を逃さないように戸を急いで閉めた。

 先に店に入っていた美咲は振り返るとなにげなくあたたかいね、と言う。

 優里は返事をせずに微笑んだ。

 それから二人はいつもの席に座ると、ブレンドを二つ頼んでマフラーをほどいた。

 優里はマフラーをほどいて、コートと一緒に椅子にかける。美咲は脱いだコートを几帳面に時間をかけて、途方もなく長い時間ではないが、その行為にかけるには十分に長い時間をかけて、畳んでから、そのうえにマフラーを載せるかたちで空いた席に置いた。

 ぽつぽつと会話がある。その会話はひどく緩慢で、ここに書くにはおよそためらいがあるほどに脈絡のないものだ。

 優里はほどなくして運ばれてきたブレンドに口をつけて、その甘みに頬を緩めた。美咲はミルクを入れたが、優里は入れなかった。

 美咲にとってコーヒーにミルクを入れることは意識せずに行うことで、つまり習慣と呼べる行為であり、これまでの人生において美咲はほとんどすべてのコーヒーにミルクを入れてきた。ミルクを加えることでコーヒーの味がどのように変化するか、その変化は歓迎すべきものか、すべからざるものかを判断することも、また勘案することすらなしに。

 その習慣に対して優里は内心では愚かしさを感じている。美咲の行いに一種の愚かさを見てとりながら、当然のことだが、それを指摘することはしなかった。コーヒーにミルクを注ぐべきかどうかなどということは瑣末なことであり、ましてや自分の口に入るものでもなければ口を出すことそれ自体が野暮な行いだと優里は信じていたからだ。

 ミルクを入れたコーヒーの味は優里も知っている。その味を好む人がいることも知っている。そうした人に、コーヒー本来の味を知るべきだなどと説法をすることは、すべてのコーヒーにミルクを注いでその味をぼやかしてしまい、凡庸なものにならしめる人々よりもずっと愚かだ。

 しかし実際の問題はもっと複雑で、優里は以上のように考えていたが、美咲がこのように話したことはなかったので知る由もないことだが、彼女はミルクの入ったコーヒーの味を好きなわけではなかった。ただ、先に述べたように習慣でそうしていたに過ぎない。では美咲の行為に本来優里が抱くべき感慨は以下のようでなければならないだろう。

 美咲はコーヒーの味について深く考えたことがなく、すべてのコーヒーに習慣的にミルクを注いでいるが、それは個人に許される何を重視すべきか、あるいは重視せずにいるべきかという価値判断の基準に基づいて行われているのであり、優里にとってコーヒーの味が重要なことで、そのために彼女と会うときはたいていこの喫茶店を選んでいるのだが、彼女にとってはその価値判断の基準に基づいて、優里にとって重要で価値が高いと考えられているこの喫茶店のコーヒーの味は、彼にとってのそれに比して大きな問題ではなく、したがってこれまで飲んできたコーヒーと同じようにミルクを注いでいるのである。

 優里は、ミルクを注いでコーヒーを飲むことが好きであろう美咲の好みを尊重するのではなく、彼女がコーヒーの味にこだわりを持たないことを尊重すべきだった。彼女にとってコーヒーの味だけがそうであるわけではなかったが、優里にとってさほど重要でないと思えるものの味について美咲はより重大に考えていることもあった。それは味だけではなく、もっとほかの性質のことでもありえた。

 美咲はミルクを注いだカップの中でゆらゆらと白い模様が揺れるブレンドを飲んでから切り出した。

「今日はどうしたの」

「ひさしぶりに会いたくなったからさ。お互い忙しくてなかなか時間を作れなかったし」

「そうだったね」

 優里は嘘をついていた。小さな嘘だったが優里と美咲のこの会話の中でのみいえばそれは嘘ではないかもしれず、というのもそれが嘘だったかどうかは優里の内心でのみ決定されることなので、会話の主であるこの二人にとってみれば判別はほとんど不可能だった。

 だが、嘘だった。優里が美咲と会わずにいたのは彼が交際している女性と結婚の約束をして、美咲に会うことが後ろめたく感じられていたからだ。結婚のための諸々の準備によって忙しかったことは本当だが、そのことによって美咲と会えなかったというのは嘘になるだろう。何故なら、事物の理由が明確にひとつであることはほとんどなく、複数ある理由のそのうちで最も大きく、最もその事物に大きく影響を及ぼしたものをその最たる理由として、あえて一般に理由と呼ぶならば、美咲に会えなかったことは忙しかったからではなく、後ろめたさによって会わなかったからなのだから。

 何かをかき混ぜる音がする。それは金属製のボウルの中に入っている液体を箸かヘラか何かでかき混ぜていて、そのときにボウルに何かが当たる音がほとんどを占めていて、あとは液体が混ざるときの空気の入った軽い音がともなってくるものだった。そのあとに熱されたフライパンのうえで何かが焼ける音がして、かき混ぜられていたものは卵だったのかもしれない、と美咲が想像していた。

 優里はそうしたことに意識を及ぼすほどの余裕がなかったから、ただ音を聞いていた。

「コーヒー、おいしいね」

 と美咲が言った。

 優里はただ頷いた。

 美咲にとって優里は幼馴染にあたる人物だった。そうであれば、自然と優里にとっての美咲も幼馴染になる。こうした関係は一方向的ではありえず、必ず双方向性を持つ。しかしより精密にとらえれば、馴染むということは一方向的な行為に過ぎず、その度合いはそれぞれに異なる。この度合いというものが大きな問題を孕んでいて、たいていのことには度合いがあって、それぞれに違うのだ。ありていに言えば、誰が誰にどれだけ馴染むかはそれぞれに違っていて、たとえば優里が美咲に深く馴染んで彼女を肉親のように感じていたとしても、美咲が優里に馴染んでいた度合いはそれほどではなく、数ある友人のうちの一人に過ぎなかったかもしれない。このようなとらえかたをすれば、二人の幼馴染という関係は必ずしも双方向的ではなかったのかもしれない。優里が美咲に自分の結婚のことを話していないのも、この双方向性の欠如のためであろうか。いや、そうではない。むしろ優里は、美咲が彼を肉親のように、そして離れることのできない比翼連理の鳥のように感じているのと同じように、彼女のことを感じており、そのために結婚を知らせることができなかったのだった。

 喫茶店の外からは踏切の信号音がぼんやりと聞こえている。この店は駅のすぐ目の前にあって、時間になると踏切がけたたましく鳴って電車の通行を知らせるのだが、店内ではそれほどうるさくはなかった。だから美咲はその音をなんでもない環境音として聴いていたが、優里にとってはそうではなかった。彼はこの音を聴いて、どこか急かされるような心持ちになり、焦りを感じていた。

「そういえば……」

 と切り出したのは優里だった。案の定、焦燥に耐えられず口を開いたのだった。

 だが、いくらその話を続けて聞いてみたところで肝心の、彼の思考の中心を占めている自分の結婚についての話題には、一向に辿り着きそうもなかった。

 美咲は相槌を打って笑っていたが、彼にとってはそのことが一方で楽しく、喜ばしくもあったが、胸をつねにゆるく締め付けられているような気分にさせるものでもあった。

 優里は美咲を愛しているのだろうか。それは彼自身にもわからなかった。だが、彼にとって彼女が、彼の周辺にいる関わりのある人々のなかで最も重要な人々のうちの一人であるということだけは、彼にとっても自明なことで、彼女にとっても彼はそうなのだ。親や兄弟や、恋人と比べてもそうなのだ。

 ブレンドを飲み終えた二人は喫茶店を出ることにした。会計を済ませて戸を引き開けるとこんどは冷たい空気が彼らを迎え入れた。冬だからそうなのだった。冬はしばしば外気温が低いのだ。

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