第七話 阿藤凛 後編

 義父が亡くなった後、私は何もする気が起きなかった。けれど毎日の習慣という奴は、特に考える事をしなくても勝手に身体を動かし、料理を作り、掃除さえした。しかしそれは洋も同じのようで、義父を葬った後も、今まで通り工場に通っていた。

 だけど私は、歌を歌うことはしなかった。別に歌う事が嫌いになったわけではなかった。単純に気力が湧かなかった。無気力で怠惰。それが今の私だった。

 そんな毎日を過ごしている時、洋が私を連れ出した。義父が死んでからは初めての事だった。

 聞けば、社長とその奥さんに食事を誘われたそうである。

 案内されたお店は、当時、アンダーシティの中でも特に美味しいと評判であった中華料理店で、貧乏暮らしの私たちにとって未知の存在であった。酷く場違いな気分に陥っておろおろしている私や洋を尻目に、社長とそのご夫人は、慣れた様子でお店の中に入っていく。私たちは慌てて二人の後を追うしかできなかった。

 円形のテーブルに着くと、社長は私たちに何でも好きな物を頼みなさいとメニューを渡してくれたのだが、何しろ私と洋にとってこのようなお店は初めてで、一体何を頼めばいいのか分からずに困惑していた。そんな様子を見て取ったのか、社長夫人が、

「良ければこちらで適当に頼んでおきましょうか?」

 と申し出てくれたのだった。もちろん私と洋は快諾した。

 料理が出てくるのを待つ間、社長は洋の仕事の様子について語ってくれた。とても一生懸命で、仕事を覚えるのも早く、とても助かっているとの事だった。しかし最近は、つまり義父が死んだ後は、どこかいつもの元気がないのだと言う。精神的にも肉体的にも疲れているのだろうと考えた社長は、洋に休みを取るのを勧めた。それは洋が使えないとかそういうわけではなく、むしろ逆で、ここで倒れてしまったら今後の仕事に差し支えるだろうからという、善意からの勧めだそうだ。しかし、洋は断った。

「だって僕らみたいな貧乏人は、働かないと生きていけないんですから」

 と、洋は言う。

「まあ、そういうわけで、お父さんが亡くなったという事もあるわけですし、ちょっとした慰労会をかねてこうした食事会を企画したわけなんですね」

 社長は柔和な笑みを浮かばせながら言った。

 そうこうしていると、料理が運ばれて来た。丸いテーブルが埋め尽くされる程の量だった。

「さ、どうぞ遠慮なさらずに」

 と夫人は促す。

「では……いただきます」

 私は手近にある一品を見た。合成エビにオレンジ色のソースがかかっていて、見た事のない料理だった。私はそれを恐る恐る箸で摘んで、口の中に入れる。それは今まで感じた事のない美味しさだった。合成エビを噛むと、程よい弾力で押し返そうとするし、強い辛さが舌を刺激し、食欲をそそらせる。私は思わずもう一度合成エビを摘んで、気持ちのよい食感とやみつきになってしまいそうな刺激を楽しんだ。

「お、おいしいです」

 私の顔が綻んでしまうのを、いったいどうやって止められようか。

「それはね、エビチリって言うのよ」

 と、夫人は嬉しそうに教えてくれた。続けて夫人は言う。

「ここのオーナーはね、少し変わっていて、実はBクラスの人なのよ。レシピは彼が直に教えたそうよ。だからこの料理が食べられるのは、まさにここだけなのよ」

 聞いた事はある。一部のAクラスやBクラスの人間がここアンダーシティにまで降りて来て、商売をしているという話があるのは。どのような制度があるのかまでは分からないが、細かい規則を守り、ある厳しい基準を認められることでアンダーシティで商売をすることが認められるらしい。リリー・シュナイゼルをスカウトしたプロデューサーも、そうした人物であるというのはあまりにも有名な噂だ。

 たわいない雑談を続けながら美味しい料理に舌鼓を打つ。社長と夫人は様々な事を知っていて、話は多岐に渡った。聞いていて飽きない程面白かった。そうして、食事も終わりが近づいた頃の事だ。音楽の話に移ったのである。

「そうそう、洋くんから聞いたよ。凛さんは音楽が好きで、歌がとても得意だそうじゃないか」

 と、社長が切り出した。

「そんな、私なんてまだまだで」

「そんなご謙遜なさらずとも」夫人が言う。「一度あなたの歌を聴いてみたいわ。だってこうやって聞いているだけでも、あなたの声はとても綺麗なんですもの」

「確かに興味深いが……無理強いするものじゃないぞ、お前。ほら、困っているじゃないか」

「あら、ごめんなさいね。私ったら悪い癖なのよ」

「全く……。まあ、ところで好きな歌手などはいないのかな? 私も音楽が好きでね、毎日聴いているよ」

「はい。リリー・シュナイゼルさんが特に好きなんです。なにしろ初めて聴いたのが彼女の『出発』という曲で、それまで音楽というのがどんな物なのか良く知らなかったのに、その、感動してしまったんです」

「なるほど」と、社長は言う。「リリーの『出発』か。あれは確かに名曲だ。静かで、深くて、それなのにどこか力強い。あれがデビュー曲とは私も信じられないよ」

「私もそう思います」

 と、言いながら、私は義父のことを思い出していた。私が毎日聴いていたおかげで、義父も一番好きになってしまった歌。一番沢山歌い、義父が聴き、そしてリクエストした曲。一番最後に歌った歌。

 自然と、私の目線は机上に落ちた。泣きたい気分になっていた。

「あーすみません」ふと洋の優しい声が横から聞こえた。「その、それは父の命日の日に歌った曲でして。あれから凛は、歌う事もしなくなってしまいまして……」

 余計な事を、と私は思った。

「まあ」

 夫人は目を丸くし、

「そうか」

 社長は目を細める。

 同情する視線が私に注がれているのを感じ取った。

 私はとても嫌だった。同情をされるのも、気を遣われるのも、未だ義父の事を引きずっている私の事も。

 違う話題へと移り変わっても、私はもう話さなくなっていた。


「なあ、凛」

 ある日の事だった。仕事が早く終わった洋は自室にいる私に話しかけた。

「久しぶりにさ、一緒に音楽を聴かないか?」

「いいよ」

 私はあっさりと承諾し、壁掛けの端末を起動させる。

「何にするの?」

「そうだなあ。まあ、ランダム再生でいいんじゃないか?」

「分かった」

 私は言われた通り、音楽をランダムで再生させる。始めは激しい曲だった。歌手は叫び、ドラムは力の限り叩かれ、ギターが激しくかき鳴らされた。狂乱的とも言える嵐のような音楽だ。元来、静かな曲を私は好んでいるのだが、時たま激しい音楽を聴きたい気分になるのだった。

「こんな曲も、聴くんだなあ」

 と、洋はぎょっとした様子で言った。そう言えば、家の中でこの音楽を聴く時は、必ずイヤホンをして、一人で聴いていたのだ。だから洋が驚くのも無理はないのだろう。

 次に流れたのはヒップホップだった。シンプルなリズムはまるで心臓の音を思わせ、韻を踏んだ哲学的な歌詞を歌手は淡々と歌い上げる。

 ヒップホップが終わると今度はジャズが流れた。ピアノだけの音は、静謐な空気を作り上げる。歌が大好きな私ではあるけれど、こういった音だけの音楽も良い物だと私は思う。

 移り変わっていく音楽をただ聴きながら、私は本当に色々な音楽を集めて来たのだと改めて思う。

「凛は、本当に音楽が好きなんだなあ。こんなに色んな音楽を凛が集めていたってことが、僕は驚いてるよ」

「うん。音楽って一言で言っても、色んなのがあるんだよ。ロック、ジャズ、ヒップホップ、ポップミュージック、クラシック……。激しいの、静かなの、笑えてくるの。私、全部好きだよ」

「そうだな。聴いてると分かるよ。凛は本当に音楽が好きなんだってことがさ」

「……兄さんさ、私に歌って欲しいの?」

「本音を言えばね。けど、凛が歌いたい時に歌えばそれでいいんだと思うよ」

「そう……」

 ひたすらに陽気で、底抜けに明るい歌が、軽快な楽器の音と共に始まった。だけどそんな音楽とは裏腹に、私の心は曇っていた。今、ここに義父がいたら、どう言うのだろう、どうするのだろう。そんなことを私は考えてしまうのだ。

「でまあ、凛は音楽が好きなわけだ。で、歌うのも今でも好きなんだろ?」

 洋の質問に、私はほんの少しだけ逡巡した。義父が死んでから歌っていない今、歌が好きだと言っても良いのだろうかと。けれど私は、嫌いだと伝えることが出来ないのだった。

「うん。今でも好きだと思うよ。少なくとも嫌いになれるわけがないよ」

「良かった」

 と、洋は胸を撫で下ろす。私はそんな洋の仕草を、訝しげに眺めていた。洋は背後に腕をまわし、何やらごそごそし始める。そうして取り出したのは、白い箱だった。

「誕生日、おめでとう」

 洋は満面の笑顔を作って言った。すっかり忘れてしまっていたのだが、今日は確かに私の誕生日だった。

「あ、ありがとう」

 私は礼を言いながら白い箱を受け取った。思ったよりも重たい。

「開けても?」

 と聞くと洋が頷いたので、私は丁寧に箱を開ける。中から出て来たのは、マイクだった。

「これは?」

「見た通り、マイクだよ」

「そうじゃなくて、どうしてこれを?」

「凛はまだ歌が好きなんだろ?」

「まあ、うん」

「それに、プロになりたいって言ってたしさ、これは後々必要になるだろうと思ったんだよ。今、歌うのはきついだろうし、もうプロになる気はなくなっているかもしれないけど、でも歌うのは好きなわけだ。だからきっと、これを使って歌う日が来るかもしれないと思ってね」

 プロ、という言葉が私の胸に突き刺さった。そう、確かにそう思っていた。私はプロになり、ゆくゆくは義父と兄をグラウンドシティに連れて行きたかった。本気でそう考えていた。

 けれど義父があの世に飛び立ってしまってから、私は毒気が抜かれたようになって、プロになりたいという気持ちが何処かに行ってしまったのだった。

 だから私は、洋の口からプロという言葉を聞いてハッとしたのである。私は自分のために、そして何よりも家族のためにプロになりたかった。当然それは義父一人だけのためでなく、洋も含まれているのだ。なのに私は、まるで義父がいなくなったことがプロを目指す理由がなくなったかのごとく、歌うのを止めていた。

 駄目だ、と思った。私にはまだ洋がいる。未だ洋は一生懸命に働いている。社長は休みをとる事を洋に勧めた。だけど洋は拒否し、働く事を選んだ。残業だってそうだ。これも社長から聞いた話なのだが、大変な時期だし、定時で上がってもいいと洋に提案していたりしたのだ。もちろん、洋は残業した。なぜか。

 考えるまでもない。

 私のためだ。

「ど、どうした? マイクは嫌だったか」

 何も言わない私に対し、洋は困惑した様子で言った。そんな様子が何だかおかしくなって、私はくすりと笑い首を横に振った。

「ううん。とっても嬉しいよ。ありがとう」

 私は決心した。絶対にプロになると。そうして洋をグラウンドシティに連れて行くのだ。





 翌日になると、私は早速行動に移した。

 通勤する洋を笑顔で見送り、やるべき家事を全て済ませた私は、洋のプレゼントであるマイクを持ち、マスクをはめて外に出た。

 辿り着いた場所は、アンダーシティで最も人通りが多く、最も広い大通りだ。

 私はマスクをしたまま深く息を吸って、吐いた。

 心臓が高鳴っていた。あまりの緊張と不安で、今すぐここから逃げ出したい気持ちだった。

 だけど駄目なのだ。いつもみたいに家の中で歌を歌っているだけではプロにはなれない。行動しなければいけないのだ。例えば町中で音楽データを配ったリリー・シュナイゼルみたいなインパクトのある行動を。しかし知識も、費用もない私には、音楽データを用意する事はできないだろう。洋を頼れば可能だと思うけれど、それはしたくない。そうすれば洋は無理をするに決まっているからだ。だから私自身の力でどうにかするしかなかった。

 私は気持ちを落ち着かせようと再び深呼吸をした。今思えば、私は家族や友人たちの前でしか歌ってこなかった。大勢の、それも全く見知らぬ他人の前で何て、当然歌うことなどなかった。

 私はプロを目指そうとしている癖にそうしたことをしなかったことを恥じた。馬鹿にも程がある。プロは人前で歌ってこそなのだから。

 携帯の端末を私は起動させた。それから操作。意を決してボタンを押すと、最大音量で音楽が流れ始めた。曲名は、『出発』。

 人々の注目を浴びた私はマスクを外す。どよめきが周囲で沸き立つ。

 私はさらに深く息を吸った。だが今度は吐かずに溜めた。

 マイクを口元に寄せる。

 そして歌った。

 人々が私の前に集まってくる。私の歌を聴いてくれている。

 私は必死になって歌った。初めて行う路上でのライブだけですぐにプロになれるとはもちろん思っていない。それでも一曲一曲を大切に歌わなければ意味はない。一つ一つのライブが大切なのだ。

 やがて歌い終えると、聞いてくれていた人たちが拍手を送ってくれた。

 私は嬉しかった。今まで身内にしか聞かせてこなかった私の歌を、全く知らない赤の他人が受け入れてくれたのだ。だから私は、自然と礼をしていたのだった。

 それからほぼ毎日、私は場所を変えながらライブを行った。何度も何度も歌っていると、私のライブを聴きに来てくれるお客さんの中に、よく見かける顔があることに気付く。

 ファン、というものだろうか。自意識過剰なのかもしれないけれど、もし本当にそうならとても嬉しい。

 そうして、私はさらに歌い続けるのだった。しかしBクラス以上の人間に声をかけられることはなかったし、ライブに慣れてしまった今では、これまで感じ続けて来た手応え以上の物を実感する事がなかった。それでも私は歌う事に関して一切手を抜いたつもりはなかった。

 だが、私はどうしても、この方法を続けて何か意味があるのだろうかと自問してしまう。当然解決策は何も浮かばない。進展はないのだった。

 そうした日々の事だったのだ、レイニー・スヴェクルと再会したのは。

 長袖の服を着たレイニーは、前に見た時よりも体格ががっしりとしているように思えた。

「ひさしぶりだな、凛ちゃん」

「うん、そうだね」

「前に会った時は……オヤジさんが亡くなった時だったか。惜しい人を亡くしたよな。あの人は本当にいい人だったよ」

「……うん」

「それでまあ、なんだ。これから時間あるか? 大事な話と見せたい物があるんだ」

 私は承諾した。レイニーは本当に真剣な様子だった。そうして私を連れて行った先は、レイニーと初めて出会った場所だ。不思議な事に、そこは今でも空き地だった。

「目を瞑っててくれ」

 と、レイニーは言った。私は言われた通り目を閉じた。衣擦れの音が私の耳に届く。

「もういいぞ」

 私はレイニーの許可を得て瞼を開くと、そこには長袖の服を脱ぎ、派手なイラストがプリントされた半袖のシャツを着ているレイニーの姿があった。だけれども、私にとってそれはささいな問題でしかなかった。

 私の目はレイニーの右腕に釘付けになっていた。レイニーの右腕は、驚くべき事に機械になっていたのである。

「どうだ? 格好いいだろう?」

 レイニーは自慢げに言った。

「どうしたのよ、それ」

「すごいだろ? こいつのために仕事して、一生懸命に貯めたんだ」

「見せたいのって、それ?」

「ああそうさ」

 したり顔で言うレイニーに覚えた感情。それは、嫌悪感だった。けれどレイニーは友達だ。私は自分の内に沸き上がってくる感情を押し殺す。そもそもどうして嫌悪感を抱いているのか私には理解できていなかった。

「で、大事な方の話って、何?」

「ああ、そうだ。それだ。実はさ」

 と言いながら、レイニーは口ごもる。

 私は苛ついた。しかし感情を表に出さないように努力しながら、私はレイニーに対する嫌悪感の正体について必死になって考える。

 そもそも嫌悪感を覚えたきっかけというのは、レイニーの機械化された右腕を見た時からだ。つまり私の嫌悪感の正体は、機械化につきた。

 疑問という氷塊が、瞬く間に解け切ったのを私は感じ取った。

「俺さ」

 レイニーはそんなタイミングで口を開く。あるいはもう少しだけ早かったなら、結果は少しだけ変わっていたかもしれない。ともかくレイニーは、意を決して声を出す。

「凛ちゃんのことがさ、好きなんだ」

 それは告白だった。生まれて初めての経験だった。もう少しだけレイニーの告白が早かったなら、私は驚き、戸惑っていたに違いない。最終的には断っていたと思うけれど、少なくとも真剣に考えることはしただろう。

 だが、私はもはや嫌悪感しか抱かなかった。

「無理」

 と、私は簡潔に告げる。

「ど、どうして?」

「私ね、考えられないんだよ。自分自身を機械にすることがね。だって考えてみてよ。自分の身体は一つだけで、それは親から受け継いだ大切で何物にも代えられないものなんだよ。それなのに」

 私はあえて言葉を区切ってレイニーの反応を窺った。レイニーの戸惑っている姿が滑稽に見えて、私は思わず薄い笑みを顔に張り付かせた。

「それなのに機械化するなんて、最低」

 硬直するレイニーを尻目に、私は踵を返したのだった。


「大丈夫か? 凛。何だか顔色が悪いぞ」

 いつものように遅い晩ご飯を二人で食べていると、洋は心配そうな顔をして私に聞いた。

「ううん。大丈夫。気のせいだよ」

 私は無理矢理にでも笑顔を作って答える。私は疲れていたのだった。さすがに毎日全力で歌い、家事もおろそかにしないというのはとても大変なのである。しかしこんな苦労、今までサボっていた分のツケだと思えば大した事はない。もちろん私が今やっている事を洋に伝えれば、何かしらの協力を得られることは間違いない。だけれど、それはできない相談だ。洋に今以上の負担をかけたくない。

「そうか? 無理はするなよ」

 洋の優しい声が、嘘を吐いた私の心の中で、じんわりとした心地良さと痛みを伴いながら染み渡る。

 私は報いたかった。洋の働きと、洋の心遣いに。それに生前の義父に私はがんばると言ったのだ。義父は私に才能があると言ってくれたのだ。だからこそ私はがんばらなければ。

 それから、私を生んでくれた両親のためにもだ。

「ありがとう。でも本当に大丈夫だから」

 と、私は念を押すように洋に言った。

 その後、私と洋はテレビを眺めた。特に面白いとは思わないけれど、洋と一緒に時間を過ごしているだけで満たされているような気持ちになる。だけど、私のそんな大切な時間を邪魔するかのように、全身が漆黒の機械と化している英雄、フェクト・アンダーソンが映ったのである。

 私の全身に悪寒が走り、嫌悪感で身を震わせる。画面上のフェクトを怒りを込めて睨みつける。

「私、身体を機械にする人が嫌い」

 私が思わずそう口走ると、洋はぎょっとしたように私を見た。驚くのも無理はないだろう。

「どうして?」

 と、洋が尋ねる。私はどう答えるか迷い、はぐらかすようにチャンネルを変えた。一分一秒だってフェクト・アンダーソンの顔を見たくないという事もあった。

 それに私の考え方が、少なくともこの町においてマイノリティーだという事は理解していた。しかしいつだって多数が正しいとは限らない。

 だから私は、私の考えの方が正しいと思っているし、洋にもいつか私の考えが分かる日が来ると信じている。

 それならもちろん嫌いな理由をきちんと説明すべきだった。けれど私はしなかった。なぜだろうか。もしかしたら怖かったのかもしれない。洋に自分の考えを否定されるのが。





 私は相変わらず街頭に立って歌を歌う。もちろん進展らしい進展はない。それでも私は歌う。歌う。歌う。

「げほ」

 私は咳をした。最近、多くなったと思う。調子の悪さも感じている。でも、休んでなんかいられない。一分一秒だって無駄にしたくない。

 だから私は街頭に行く。不思議な事に歌っている間は咳が出なかった。調子の悪さも感じない。けれど歌い終わって、マスクをして、街頭から離れると、私はやっぱり咳をした。今日のはいつもよりも激しい咳。口の中から何かが出て、マスクに付着したようだ。痰、だろうか。嫌な感触がする。最悪だ。

 家に帰ると、マスクを外して早速確認してみる。

 血だった。

 私は咳で血が出たことを洋に隠す事にした。当然だ。言える訳がない。心配をかけるわけにはいかない。それでも、私は街頭に出て歌った。もはや意地だった。私が歌えなくなるか、スカウトされるかの勝負なのだった。

 しかし、

「凛」ある時真剣な表情で洋は言う。「病院に行こう」

 私は断った。けれども洋は半ば強引に私を病院へと連れて行く。

 そこは義父が行った病院で、私は義父と同じような検査を受け、医者に義父に言った事と同じような事を言ったのだった。

「やっぱりそうだったか……」

 と、洋は言った。愕然とした表情を隠そうとしているけれど、隠し切れていない。

 しかしそれは私もだろう。平静を装っているけれど、どこまで装うことができているのか自信がない。

「凛、機械化をするか?」

 家への道すがら、洋は聞いた。

「知ってるでしょ兄さん。私は絶対に機械化はしない」

 早すぎる、と私は思った。無茶なことを繰り返していたのは自覚していた。だけどまだ何も成果を出していないのだ。悔しくて泣きたかったけれど、私は涙を流さなかった。ただ、静かに道を歩いた。

 病気になってしまった以上、もはや私には何も出来ない。今すぐにでも自殺をして、これ以上洋に迷惑をかけないようにしたかった。だがそんなことをしたら洋は悲しむ。きっと自分を憎む程に。だから自殺は出来ない。だからただ静かに死んでいこうと思う。私に出来る事は、たったそれだけだ。

「……ちくしょう」

 不意に、洋が呟いた。消え入るような声だった。独り言なのだろう。自分で出した声に気付いていないように思えた。

「なんでだよ、なんでなんだよ」

 私は気付かれないように洋の顔を盗み見た。洋は涙を流していた。

 ごめんなさい。私は心の中で呟いた。私は最低だった。最悪な親不孝者だった。おまけに卑怯者だった。

 ごめんなさい、と泣いて謝りたかった。病気になってごめんなさい。迷惑ばかりかけてごめんなさい。私が病気になってしまったのは完全に自業自得なんです。外でマスクを外して歌っていたんです。ごめんなさいごめんなさい。

 決壊しそうになる気持ちを無理矢理押し止めて、私は口を開いた。

「兄さん、そんな辛気くさい顔しないでよ。見てる私がつらいでしょ。もー元気を出してよ全く。大丈夫大丈夫。病は気からって言うでしょ。もしかしたら治っちゃうかもしれないじゃない」

「……無理するな」

 努めて明るく言う私に対して、洋は優しく言った。

 それは強力な言葉のハンマーだった。

 たった一撃で私の防波堤は崩れてしまった。

 私は大声で泣き叫んだ。悔しくて哀しくて空しくてつらくて。

 だけどごめんなさいは言わなかった。

 ただ泣いた。子供みたいに。


 それから、ベッドの上で寝たきりの生活が始まったのだ。

 歩く元気は残されていた。けれど何もする気が起きなかった。

 できれば洋に嫌われたかった。だけどそんなことが起きるはずもない。

 私はできるだけ無為に過ごす事に決めた。夢は語らない。音楽は聞かない。私の世界は私の部屋だけ。

 ただひたすらベッドの上で過ごす毎日。寝たきり老人になった気分で、つまらないテレビを見続ける。それが私だった。

 できるだけ早く自然に死にたかった私の身体は、日に日に弱くなっていく。それは私の意志を反映しているかのようだった。

 洋は仕事に行く前には必ず私の部屋に入って、寝たフリをしている私に向かって「行ってきます」と言う。それから残業をしなくなり、いつも早く帰ってくるようになった。それだけが私の毎日の楽しみだった。

 日時の感覚は、もはやなくなっていた。今日が何日で、何曜日なのか全く気にしない日々のせいだ。一日が過ぎていくのはあっという間で、その癖、私の身体はなかなか死ねなかった。ただ苦しいだけ。

 何年か経過した。詳しい日数なんて私には興味がなかった。昔に比べて身体が随分と衰弱していることだけが分かっていた。

 洋が真由美と一緒に帰って来たときは驚いた。半袖の服が長袖に変わっていたのにもだ。私は思わず二人はようやく付き合い始めたのかと思った。しかし詳しく聞いてみれば、告白した真由美は洋に振られ、それでも自分の気持ちがどれだけ本気かを示すためにも服をプレゼントしたらしい。

 信じられない話である。何しろ私は、洋と真由美はゆくゆくは恋人同士になって、やがて結婚するんだろうなと漠然と考えていたからだ。しかし今までそうした関係にならなかった事を思い、一つの考えに辿り着く。それは私が足枷になっているせいなのではないかということだった。その事について洋は否定したが、どうしてもそんな考えが私の頭の中でへばりついていて、離すことができない。それに真由美は、恐らく冗談で言ったのだろうけれど、洋は私しか眼中にないと言う。もしも本当にそうなのだとしたら、私はとても嬉しいのだが、同時にとても哀しくなる。私は死ににいく中途にいるのだから。

 そうして私は、洋が真由美と付き合わないことに対して疑念を持つに至った。それは小さな違和感として、私の脳裏に刻み込まれたのである。

 違和感というのは、積み重なれば大きな疑惑へと発展していくものだ。

 洋が真由美を振ってから数日後。唐突に洋は音楽を聞きたいと言って来た。それも私と一緒にだ。凄まじい誘惑だった。洋と好きな音楽をただ聞けたなら、それはとても素晴らしい時間になる。しかし病気になってからというもの、私は徹底的に音楽という音楽を遠ざけた。自主的に音楽を聴かないのはもちろんのこと、テレビで音楽番組が映れば即座に変えたし、真由美や洋と音楽の話題が出た時点で私は酷く怒った風に見せて話題の変更を迫ったのだ。その度に洋や真由美が心苦しい顔を見せるのが、本当に申し訳ない気持ちで一杯になる。しかしそのかいもあって、私が音楽に触れるのを嫌がっていると認識させる事ができたのだった。

 けれどその日、洋が私と音楽を聴こうと誘う。当然、私は断った。「嫌だ」と。それが違和感。洋が私に音楽の事を触れることは久しくなかったから、とても奇妙に感じたのだ。

 しかしその違和感も、次の瞬間に吹き飛んでしまった。あまりにも突拍子な事に、洋が歌い始めたからだ。しかも凄く下手だった。音痴ってこういうのを言うんだなと実感する程に。笑える程に。

 そう、私は笑ったのである。病に犯された時から一度も笑わなかった私がである。だけど久しぶりに笑えて、私の心は不思議と軽くなっていた。病は気からという言葉は、あながち馬鹿にできないことかもしれない。もっとも、洋の荷物になっている現状から早く脱出したい私にとって、それは歓迎できない事でもあったが。


「さようなら、凛。僕はいなくなるよ」

 私の部屋の入り口で立っている洋は、暗い顔をしながらそう言った。

「え?」

 一瞬、私は何を言っているのか分からなくて、呆然とした。しかし洋は、寂しそうな笑みを浮かべながら踵を返すと、ゆっくりとした足取りで部屋から出て行く。部屋の外は黒一色で、洋が遠ざかっていく姿だけが見えた。

「待って!」

 私は思わず手を伸ばしながら言った。けれど洋はどんどんと離れていく。

「兄さん! お願い! 待って!」

 私は喉から声を振り絞って叫んだ。手を精一杯伸ばす。それから身体を起こそうとして、追いかけようとして、力を入れて、だけど私の身体は手を伸ばすだけで精一杯だった。そうして、ついには洋の姿が闇の中に完全に消失してしまった。

「兄さん、兄さん、兄さん」

 私は泣きながらひたすら唱える。しかし唱えれば唱えるほど、私の声は掠れていき、最終的には全く出なくなっていた。

 いつの間にか、部屋の中は暗くなっていた。見えているのは、白いベッドだけだ。

 涙は枯れ果てて、私は自分の両腕を胸の前で交差させて両肩をぎゅっと掴む。そうしなければ孤独に耐えられそうになかった。

 声は出ない癖して、お腹は空腹を訴えて鳴き続ける。一人で居続ける事がこんなにも寂しくて怖くて恐ろしいことだとは思ってもみなかった。

 人がやってくる事は、もはや期待できそうにない。レイニーはもちろん、真由美でさえも来る気配がない。

 ただ一人で、文字通り何もせずに過ごす。食べる事もできず、自ら命を絶つ事すらできず、ただ勝手に心臓が動き、肺が呼吸する。

 そんな空虚で痛苦な日々も、やがて終焉を迎えようとしていた。

 私は仰向けになった状態で、真っ暗闇の天井を眺める。苦しくて嫌だった。寂しくて嫌だった。何よりも側に洋がいない事が嫌だった。

 こんな最期は、嫌だった。


 私は意識が覚醒すると、慌てて身体を起こした。荒々しく息を吸っては吐きだし、顔にへばりついている冷たい汗を腕で拭う。

 ここ最近よく見る悪夢だった。怖くて怖くて仕方がなくて、目が覚めた今も、自分で自分の身体を抱く。そうでなければ、不安と恐怖とでどうにかなってしまいそうだった。

「洋」

 と、呼んでみる。か細い声だ。自分の声ではないみたい。かつての声量も、声質も喪われてしまっている。

 暫く経っても洋は現れない。当たり前だ。洋は今、仕事に行っている。このまま悪夢みたいに洋が帰ってこないのではないか。そんな想像が頭によぎり、ますます怖くなって身体が震えた。

 だけど同時に、これでいいのだ、と思う。それは、洋が、私を忘れてくれたということだから。洋の人生に私はもう必要ない。こんな荷物は置き去りにしてしまえばいいのだ。

 それでも、怖いものは怖くて、私はただベッドの中で震え続けていた。洋を求め続ける私が嫌だった。まともな声が出せない私が嫌だった。ああ、私は本当に情けなくて弱い人間なのだと、私は自分を抱きしめる腕に力を入れた。


 それからも悪夢を見ない日はなかった。怖くて怖くて、私は早く目覚めるようになっていった。

 そんなある日の事だった。夢の怖さで早くに目覚めてしまった私は、部屋の中にノックもなく入ってきた洋の存在に気がついた。

 私は寝たふりをしながら、洋の動向を気配と足音で探る。洋は無言で私に近づいてきて、じいっと私を見つめているようだった。

 どこか、様子がおかしい気がした。

 洋は右手を伸ばしてきて、私の頭を撫でる。心地よい感覚に身を任せながらも、やはり様子がおかしく感じた。

 洋には悲壮な決意があるようだ。隠し事をしているのは間違いないだろう。

 背中を見せた洋の姿を、私は薄目を開けて確認する。

 洋の左腕と右腕に、何か違いがあるみたいだ。強いて言うなれば、形がおかしい。長袖で隠れているから、確かな事は言えないけれど、左腕は妙に角張っているように見えた。それに、右腕よりも若干長いように感じた。嫌な結論が、決してあって欲しくない答えが、頭に浮かんだ。

 ……嘘、だ。

 私は、愕然とした気持ちで、洋の右腕と左腕を見つめていた。

 そうしてその日はもう、そのことだけで頭が一杯だった。だが追い打ちをかけてくるように、洋が帰ってきた。先週と同じように、真由美と一緒にだ。

 真由美はすぐに帰っていったが、私は洋の身体を観察し続けた。そうして再び気がついた。洋の右腕が、今朝と違って角張っている事に。

 私は洋を信じたかった。私は自分の目を信じたくなかった。

 正面切って聞くべきかどうか、あるいは直接触って確認するべきかどうか、気がつかない振りをすべきかどうかで迷って、迷って、三日ほどが経った。

 相変わらずの悪夢に苛まれ、最低最悪の目覚めをしながら、私は、これはきっと好機なのだ、と思った。

 洋に嫌われるチャンス。洋に見捨てられるチャンス。洋の荷物でなくなるチャンス。悪夢を現実にするチャンス。

 洋が真由美を連れて帰ってきた。二人とも煤だらけで、疲れた顔をしている。だから二人がどうしてそうなってしまったのかを聞いた私は、その日洋に真実を確かめるのを止めた。

 私は未だ、迷っているのだ。私にとって洋はとてもとても大切な、かけがいのない存在なのである。失いたくなかった。

 だけれども、次の日が来た。

 私は泊まってもらった真由美を必死になって食い止めた。

 一緒に午前を過ごし、昼食を食べる。

 決断を、しなければ。

「ねえ、兄さん」

 私は洋に呼びかけた。

「どうした?」

 洋は心配そうな顔で答える。

「頼みがあるの」

「頼み?」

「手を、握らせて欲しいの」

 洋の表情が、一変した。けれどそれは一瞬の事で、すぐに平静を装ったようだった。だけど、長年ずっと一緒だった私には、それがごまかしだと言う事が分かってしまった。

「……どうして?」

「最近、不安なの。それで兄さんの手を握って、安心がしたい」

「真由美のじゃ駄目なのか?」

「だめ。兄さんのがいい」

 洋は、黒い手袋に包まれた手を差し出した。小刻みに震えているようだった。私は、一瞬躊躇しながらも、洋の手を握った。

 堅かくて、冷たい感触だった。もちろんそれは鍛えられた手の堅さではなくて、冷たい空気に晒されて冷えた体温でもなくて、鉄の塊であり、鉄の冷たさだった。

「……やっぱり」

 と、呟いてから、洋は機械化をしていないなどという期待を抱いていたのが分かった。しかし、違っていた。私の予想通り、洋は機械化をしていたのである。

 私は、心の中でごめんなさいと謝った。そうして、あらんかぎりの力で洋を睨みつけて、

「裏切り者」

 と、言った。

「……ごめん」

 そう謝る洋を、私はこれ以上見たくはなかった。

「――出てけ。もう二度と来るな。顔を見せるな」

 私の強い言葉に対し、真由美は何か言おうとしていた。しかし洋が手で止める。それから、真由美にしか聞こえないような声量で何か呟き、洋は部屋からあっけなく出て行ったのだ。


 私の頬は、風船が割れた時みたいな音を立てた。遅れて、鋭い痛みとひりひりとした熱さ。私は頬を手で擦りながら、平手打ちをした真由美を見た。真由美の目には、涙が一杯に蓄えられていて、今にもこぼれ落ちてきそうだった。

「ばかっ!」

 と、真由美は怒鳴った。いつも冷静な真由美が感情的になっているのを見るのは、これが初めてだった。そんな風にさせたのは私で、これは私に対する罰なのだった。

 私が真由美に家にいて欲しいと懇願したのは、その時は自覚していなかったけれど、私自身を罰する誰かを必要としていたからだった。そうしてそれは、真由美以外にありえないのであった。

「洋は! 洋は! 一体誰のために機械化をしたと思っているんだ!」

 唯一、不可解な点。それはなぜ洋が機械化をしたのかという事だった。私は何も言わず、けれど耳は傾けた。

「洋は! あんたのために! アドバンスレースに参加したんだ!」

 真由美の答えは、まっすぐ私の胸に突き刺さった。それは少しでも考えれば、出せるはずの答えだった。


 私は、最低最悪の馬鹿だ。

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