第五話 阿藤凛 前編

 私は幼い頃に母に抱かれていた時のぬくもりを今でも覚えている。とても暖かくて、居心地がよくて、安心するあの感覚は、例え思い出による補正だとしても、何物にも代え難い物だと感じている。

 だが私の母に対する思い出はこれだけだ。たったこれだけなのだ。それでも愛情をたっぷりと注がれていた事は実感できる。愛情を注がれるということが幸福なことだということも、恵まれている事だという事も理解できる。

 しかしその母は、私がまだ右も左もよく分からない時に病で死んでしまった。

 そうして父は私のために働き、私のために家事をした。だがそんな生活も長くは続かなかった。

 その日、私は眠りについていたのだと思う。何しろ「火事だ!」という誰かの叫び声で目が覚めたのを覚えているからだ。父は慌てた様子で私の部屋の中に飛び込んで来た。扉が開いた先には、赤々と燃え盛る炎の姿がある。父は荒い呼吸を繰り返し、私を抱き抱えた。

「大丈夫か」

 鬼気迫る表情をした父の言葉に、私はただならぬ気配を感じて頷いて答えた。

 当時の私たちは三階建てアパートの一番上の階に住んでいた。だが逃げる為の道は炎で塞がれている。

 父の行動に迷いはなかったように思う。父は私を抱きかかえたまま窓際へと向かい、窓を片手で開いた。下の方からは何やら声が聞こえ、それから父は大きな声で返答する。何を言っていたのかは良く覚えていない。しかしこの後の行動を思えば、おおよその察しぐらいはつく。

 父は私を窓から外へ落としたのである。私は下にいた人の手によって見事にキャッチされたというわけだ。けれど本当の問題はこの後だった。父は脱出する事が出来ず、そのまま炎に呑まれてしまったのだった。

 火事の原因は放火。犯人はその後捕まるが、左腕が火炎放射器になっているというのは後から聞いた話だ。

 そうして私は、馬鹿みたいに涙を流し、父の名前を叫びながら、燃え続ける私の家を愕然と眺めていた。何もかもが燃え尽きて、アパートがただの灰となってしまった後も、私はその場から動く事が出来なかった。周囲にいた人々は、私に対して声をかける事がなかった。けれど、

「そんな、馬鹿な」

 と、その人は今来たばかりなのか、息を荒げながら呆然と焼け跡を見つめていた。彼は私に気がつくと、私の名前を呼んだ。聞き覚えのある声だった。よく父に家に遊びにきては、父とお酒を飲み合い、私におもちゃやお菓子などのお土産を買ってきてくれた人だった。その人は、私に私の父について聞いた。

 私は、泣きながら、父の最期の姿を語った。内容は支離滅裂だっただろうし、泣き声と合わさっていたから、酷く聞きづらい事は想像に難くない。それでもその人は、辛抱強く聞き続けて、相づちを打ってくれていた。

 その人は、全てを話してもなお泣き続ける私に対して、全身を抱きしめた。

 暖かい、と私は思った。

 その人は私の耳元に口を寄せて、優しい声で父の親友だと名乗り、「俺の家に来い」と言ったのだった。私は特に反対することもなくあっさりと承諾した。自分でも不思議な事だが、きっとショッキングな出来事が次々と起き、私はまともな判断ができなくなっていたのだろう。

 ともかく、この男は私の義父となったわけだ。

 瞬く間に両親を亡くしてしまった私は、当然の如く義父に心を開こうとはしなかった。それでも義父はとても献身的だった。

 私はいつも何かのきっかけですぐに泣いてしまった。それはテレビで父、あるいは母と言う単語が出た時や、父や母の思い出を不意に思い出した時や、眠っていた時に見た夢の中で、父や母が出て来た時だった。覚えていないが、他にも沢山のきっかけで私は泣いたに違いない。

 私が号泣するたびに、義父は私をあやしてくれた。背中をさすり、頭を撫で、面白い事を言う時もあった。義父は私が泣き止むまで、必ず側にいてくれた。

 そうして、私はいつしか義父に対して心を開くようになっていたのだ。

 ある時私が初めて義父をお父さんと呼ぶと、義父はとても嬉しそうに私を抱きしめた。そればかりか、「ありがとう」と言いながら、義父は泣いていたように思う。私が成長した時にその事を言うと、義父は照れながら「嘘を吐くな、嘘を」などと言ったものだった。

 それからの私と義父の生活の日々は、とても穏やかだった。父と母が私に与えてくれた愛情と同じぐらい、義父は私に与えてくれた。字の読み書きや、簡単な計算の仕方を教えてくれたのも義父だった。

 そんなある日のことだった。義父が一人の男の子を連れて来たのである。

「今日からこの子はお前の新しい兄だ」

 と、義父は私に紹介した。それが洋との出会いだった。人見知りが激しかった私は、義父の足下に隠れて、まともに洋と目を合わせることができなかった。ただ、その泣き腫らした目が、妙に印象的だったのは覚えている。

 私は最初、洋の事を受け入れる事はできなかった。義父には笑顔で話したりしていたのに、洋に対しては一言も喋らなかった。当時の洋は、唐突に私と義父の間に割り込んで来た異分子であり、義父との楽しい時間を減らした憎き敵であったのだ。

 義父はそんな私たちに対して心苦しく思っていたようだ。三人で食事をしていた時などは印象的だった。私は当然義父としか話さなかったが、義父は時折洋に話を振るのだ。だが当時の私はそれを許す事ができなかった。だから私は洋が答えるのをわざとらしく遮って、全く別の話を始めるのである。その度に義父は複雑な表情を浮かべていたのだった。

 我ながら子供じみた抵抗だ。結局の所、私は義父を独り占めにしたかったのだ。義父は私だけの義父であり、義父の家族は私だけでなければならないと、私は頑に決めていた。

 ところがそんなある日の事だった。義父は一計を案じた。私と洋にお使いを頼んだのである。もちろん私は反発した。洋は私の事をわがままを言わない子と思っているようだが、この頃の私は、主に洋に対する嫉妬や対抗心からであったが、よくわがままを言っては義父を困らせていたのだ。

「お使いなら私一人で出来る! こんな奴なんていらない!」

「駄目だ」義父は一も二もなく却下した。「二人で、行くんだ」

 強い口調だった。それ以外は絶対に認めないないと告げていた。

 私は渋々承諾した。洋の事は認めたくなかったが、義父に嫌われたくなかったのだ。

「いーい。貴方は何もしたらだめ。着いてくるだけ。私はお父さんに言われたから、仕方なく貴方を連れているんだからね」

 店への道すがら、私は洋に言った。思えば洋に話しかけたのはこれが初めてだった。しかし洋は、何も言わずに小さく頷くだけだった。きっと洋は、私たちの間に割って入って来た存在だという事を理解していたのだろう。そうして、私が洋の事を迷惑がっていることも。

 この時私は、無事にお使いを終わらせ、私がどれだけ役に立ったか、洋がどれだけ役に立たなかったかを義父に力説しようと目論んでいた。全く浅はかな考えである。そんなことをしても、義父は洋を見放さないばかりか、私の事を叱るに決まっているというのに。だが私はその考えに取り憑かれていた。素晴らしい名案だと息巻いていた。

 だから私は意気揚々と歩いていた。私に怖いものは何もなかった。

 そうして気がついた時、私は道に迷ってしまっていた。ここがどこなのかが分からなくなっていた。

 アンダーシティの路地は細かく入り組んでいる。だが私は、指示されていた分かりやすい大通りよりも、こちらの細かい路地を抜けた方が早いと考えて大通りから外れてしまったのだ。素早くお使いをして義父に褒めてもらおうと考えていた私の目論みは、早くも暗礁に乗り上げてしまったというわけである。

 私は泣き出しそうになっていたのをぐっと堪えていた。洋に弱みを見せる訳にはいかなかったからだ。けれど私は途方に暮れて、ずっとその場でおろおろと辺りを見回していた。

「こっち」

 すると洋が、私の手を取って歩き出した。私は何も言わずに洋の後を追った。洋もそれ以上の事は何も言わなかったけれど、暖かで優しい洋の手の平が、不安だった私の心を慰めてくれた。

 そうして洋の案内の元、お使いを無事に終わらせる事が出来た。それなのに、私は洋に感謝の気持ちを伝える事をしなかったばかりか、義父にお使いを無事に終わらせる事ができたのは私のおかげだと主張した。

 いかにお使いを行っていたかを虚飾に飾り立てられた言葉を並べ立てる間、私は洋の事を横目で見た。洋は無言だった。それがますます私の癪に触れた。どうして本当の事を言わない。どうして、どうして。

 自責の念に駆られながらも嘘の説明をした私に、義父は満面の笑顔を向けて、私の頭をくしゃくしゃと乱暴に撫で付けた。

「よくやった」

 途端、嬉しさで心が一杯になる。私は単純だった。それだけで、罪の意識から目を逸らす事ができた。

 次に義父は、同じように洋の頭を撫で付け、

「ありがとう」

 と、言った。洋が迷惑そうにそっぽを向いて、どこかに歩いていくのを、義父は満足そうに見送っていた。

 前までの私なら、その事に嫉妬や怒りを覚えるはずだった。だが私の心にそうした感情は一切浮かんではこなかった。自覚はなかったし相変わらず自分の兄だと認める気もなかったが、それでも前よりも疎ましく思わなくなっていたのは事実だった。

 一ヶ月か、あるいは二ヶ月か。ともかくそれぐらいの時間が経った頃、私と洋はまたも義父にお使いを頼まれてしまった。私は表立った反対をしなかったし、きちんと指示通りの道を歩いた。洋は私から一歩下がった位置をついてくる。会話はなかったけれど、洋と行動することが嫌ではなくなっていた。

 頼まれた品を購入し、帰路に着いた私と洋は、私たちと同じぐらいの歳の女の子と二十歳ぐらいの男が言い争っているのを見つけた。私が聞いていても明らかに男の方が悪いようであったが、女の子の方は、男の勢いに負けて言い負かされそうであった。

 思わず立ち止まった私は二人を見た。女の子はボーイッシュな髪型で、喋り方がなんだか独特だった。男の方は機械化された身体を惜しげもなく晒し、高圧的な態度で話している。

 一歩、踏み出そうと思った。声を出そうと思った。けれど進む事も、声を上げる事もままならなかった。怒りの感情があった。同じぐらい恐怖の感情もあった。この二つが拮抗して、何も出来ずに足踏みしているのが悔しかった。

 その時、私の脇から一歩進みだした影があった。洋である。

「おい、おっさん」

 と、洋は言った。

 男は洋を睨みつける。

「なんだあ?」

 男が放った鋭い眼光と低い声がとても怖くて、私は洋の背中に隠れ、洋のシャツを握りしめた。

「おっさんが間違ってる」

 洋は男に臆する事なく指摘する。

 私はこのままではいけないと思った。私は決して洋の事に対して嫌悪感がある訳ではない。むしろ頼もしささえ感じるようになっている。だが、私にとって洋は敵だった。大好きな義父との間に割り込んで来た邪魔な存在だった。

 だから私は洋に負けてはいけないのだ。私はその一心で一歩を踏み出し、洋の隣に並んだ。もっとも、私は後ろ手で洋のシャツを掴んだままだったけれど。

「私も、おじさんが間違ってると、思う」

「う」

 男は呻き声めいた声を上げて、きょろきょろと辺りを窺った。周囲にいた人々が、私たちに注目している。

「ちっ」男は舌打ちをした。「すまんな」

 逃げ出すように早足で歩き去る男の背中を見た女の子は、私たちに向き直った。心なしか目が潤んでいたように思う。

「ありがとう」

 女の子は素直に礼を言うと、自分の名前を言った。それが加藤真由美だった。

 私たちは三人で暫く話し込んだ。私たちが義理の兄妹であることとか、今はお使いの帰りだということも。真由美と男が言い争うことになってしまった発端のこともだ。

「またね」

 私たちは明日会う約束をして別れた。帰り道でも私は洋と会話をした。いつの間にか私の中にあったわだかまりが氷が溶けたみたいにすっとなくなっていた。それは私が洋の事を一人の家族として、兄として認めた瞬間でもあった。しかしながら、私がそのことに気が付いたのは、家に帰り着いて義父に「仲良くなったな」と笑顔で言われた時だったけれども。

 一日の出来事を夕食を食べながら義父に話すと、義父は自分のことのように嬉しそうに笑う。私も、きっと洋も、義父の笑顔を見て嬉しくなって、やっぱり同じように笑った。

 そうして私たちにとって初めての友達である真由美とは毎日のように遊び、私はいつの間にか洋の事を兄さんと呼ぶようになっていたのだった。

 

 レイニー・スヴェクルとの出会いは、そんな充実した日々の中で起きた。

 私たち三人が、小さな空き地でボールを投げ合っていた時だ。洋と同じぐらいの男の子が一人で空き地に入って来た。

「おい。お前らここは俺の領土だぞ」

 男の子は両手を腰に当てて、ふんぞり返って言った。自分は王様だと言わんばかりの態度だ。私たちの顔をまるで品定めをするかのように見回した男の子は、凄んで続ける。

「ここで遊ぶんなら、場所代を置いていけ」 

 私は怖くて震えた。だから思わず洋の背中に隠れた。洋は私を庇うような動きを見せ、私の手を握る。すると不思議な事に、私の震えはピタリと止まってしまうのだ。

「……場所代、か。それなら君の領土だと言う証拠を見せてくれ」

 真由美の声がした。真由美は少しも怖がる様子がなかった。同じ女の子のはずなのに、どうしてこうも違うんだろうと、その時の私は思った。

「証拠、だとぉ」

 男の子は、訝しげに言った。私ははらはらしながら、真由美と男の子のやりとりを見守っている。

「そう、証拠さ。確かな証拠さえあれば、私たちも場所代とやらを出すのもやぶさかではない。けれど証拠がなければ、この空き地が君の領土だと示す事ができない。つまり、ここが君の領地ではない可能性が高いってことさ。君の領地でなければ、君に対して場所代を払う義務は生じないし、君は詐欺師、嘘つきだという事になるわけだ」

「しょ、証拠は、ねえ。……だけどここは俺の領土だ。それは間違いない。だからとっとと払え」

「困ったな。君に証拠はない。しかし間違いなく君の領土だと君は言う。ならば、せめてここが君の領土だという論拠を示して欲しい。それによっては、私たちも場所代を支払う事に対して、前向きに善処する事もいとわないさ」

 真由美の言葉の数々に、私は圧倒されてしまった。私には真由美の言っている事の大半がよく分からなかったが、よくもまあ、ここまで並べ立てることができるものだ。

「……なんか、すごいな」

 洋は呆れた様子で呟いた。

「うん」

 と、私は小声で返す。ここまでくれば、むしろ相手の男の子に半ば同情してしまっていた。男の子を見れば、明らかに真由美の言動に戸惑っている。

「うう……、くそ。覚えてやがれ」

 男の子は、そんな捨て台詞を吐いて逃げ出してしまったのだった。

 溜め息を吐きながら振り返った真由美は、表情を変えないまま私たちと向き合った。

「こ、怖かった」

 と、真由美が言うが、私にはとてもそんな風に見えない。洋も同じ感想を持ったようで、

「どこが。全然そんな風に見えなかったぞ」

 などと言った。私は洋の影で、小さく頷くに止めた。

「失礼だな。それに凛ちゃんまで」真由美は口を尖らせる。「大体、問答無用で殴り掛かられたらおしまいだったさ。幸いにも話を聞く馬鹿だったから助かったものの」

「大丈夫ですよ、真由美さん。その場合は兄さんが助けてくれますから」

 私の発言に、真由美はくしゃりと短い髪を掻き、先ほどよりも深い溜め息を吐いた。

「いや、凛ちゃんのお兄さんはそこまで喧嘩が強い訳じゃないさ。それに凛ちゃんにかかりきりだから、私までを守る余裕はなかったと思うよ」

「そんな事ないですよ。そうよね、兄さん」

 洋はハハハと乾いた笑い声で返した。

 明らかに返事に困っていたから、真由美の発言が図星に違いなかったのだが、当時の私は洋に過剰な信頼を置いていた。少し前まで嫌っていたというのに、虫のいいことである。

 次の日も同じ空き地で遊んでいると、男の子がまたもやってきた。もちろん一人である。

「これが証拠だ!」

 男の子は一枚の紙を威勢よく突き出した。それを真由美が受け取り、三人で覗き込んだ。子供らしい大きな字で、『ここは俺の土地であることを示す』と書かれている。私は思わず吹き出しそうになり、慌てて自分の口を塞いだ。

「残念だけれど」真由美は苦笑いを浮かべながら言う。「これは証拠にならないな」

「な……! なぜだ」

 男の子は愕然とした様子で言った。本当にこれで通ると思っていたらしい。

「まず、これは君が勝手に作った物だろう?」

 私はこれから起きるであろうやりとりを期待しながら、真由美が問いただすのを聞いた。

「あ、ああ、そうだ。だが一体どこに問題があるっていうんだ」

 男の子は強気を装いながらも、狼狽えているのがまるわかりだ。

「おおありさ。まず、こう言うのは自分で書いても意味がない。第三者、つまり君や私でない人に書いてもらわなければならないんだ。それに、そもそもこんな物を書いても何の証拠にもならないさ。この空き地が君の物であると言うのなら、それを証明するための、しかるべき機関が発行する書類があるはずさ。だいたい……」

 ひたすらに、容赦なく、真由美は説明を続けている。男の子は、真由美の一言一言に、「うぅっ」とか「なぁっ」とか奇妙な呻き声で相づちを打つ。私はとてもおかしくて、いちいち笑い出しそうになるのを堪えていた。

 そうして、最終的には、

「うわあぁぁぁぁぁぁぁっ」

 と、半べそをかきながら逃げ出してしまったのである。

 私は我慢しきることができず、笑い出してしまった。

「ちょ、ちょっと凛ちゃん、笑うなんて失礼じゃないさ」

 真由美はそう言いながらも、くくくと笑っている。洋も平静を装っていたけれど、装いきれずに表情が笑っていた。

 私は笑いながら、もう男の子は来ないだろうなと考えていた。

 けれど私の予想は、あっけなく外れた。男の子はあんなことがあったというのに、次の日も、その次の日も、毎日やってきたのだ。さすがに自分の土地だと主張する事はなく、端っこの方でじぃと見ているだっけだったのだが。

 日にちが経つにつれて、私は段々と男の子の事が気の毒になってきた。だから私は、義父にその事を話してみたのである。

「それはあれだな。仲間に入れて欲しいんだ」

「だけどあの子、私たちから場所代を取ろうとしていたの。私たちと一緒に遊びたいのなら、最初からそう言えば良いと思うのに。だからそれは違うと思う」

「そこが複雑な男の子心ってやつだ。まっ、試しに一緒に遊んでみようって誘ってみるんだな。きっと乗ってくるぞ」

 なんだか釈然としないまま次の日を迎え、いつも通り三人で遊んでいると、いつも通り男の子がやって来たのである。

 義父が言っていた事は本当なのだろうかと考えながら、私はしばらく遊んでいた。これで話しかけて、もしも義父の考えと違っていたとしたら、私は場所代を請求されるかもしれないと思った。しかし私は、真由美みたいに口が回るわけではない。洋が助けてくれるのは間違いないけれど、万が一ということもあるのだ。

 それでも私は遊ぶのを一旦止めて、男の子の方へと近づいた。

「凛?」

「凛ちゃん?」

 洋と真由美がほぼ同時に私を呼ぶのが聞こえるが、私は気にせずに前へと進んだ。男の子は怯えているのか戸惑っているのかあるいは怒っているのかよく分からない表情をしている。正直少し怖かった。けれども、私は歩みを止めなかった。何しろ大好きな義父の提案なのだ。断る理由なんて見つからない。

 私は男の子の目の前で立ち止まる。すると男の子は一歩だけ後退する。

「ね。一緒に遊ばない?」

 頭一つ分だけ上にある男の子の目を見上げながら尋ねると、男の子の視線が右に行ったり左に行ったりする。それからややあって、

「……仕方ねえな。そこまで言うんなら一緒に遊んでやるよ。言っとくけど、ここは俺の土地なんだからな」

 と、あまりにもあっさりと男の子が答えたから、私は面食らったのだった。

 とにもかくにも、こうしてレイニー・スヴェクルと私たちは一緒に遊ぶようになったのである。


 レイニーが加わった事で、私たちの行動範囲は広がった。それというのも、レイニーが探検と称してあっちに行こう、こっちに行こうと私たちを連れ回すからだ。その提案に真っ先に乗るのが洋だった。女の子に挟まれた状態だったから、男友達ができて嬉しかったに違いない。私と真由美は、やれやれまたか、と呆れた風を装って、二人の後を追うのが常だった。もっとも私も真由美もまんざらでもないのだが。

 レイニーとの思い出の多くは、楽しいことばかりであった。けれども私にとって最も重要な思い出と言えば、レイニーが何処かから持ってきてくれた音楽チップに間違いない。

 それは私にとって初めての音楽だった。音が耳の中へと流れ込んだ時、私は思わず聞き入ってしまった。

 これでまで聞いてきたどの音もその音は違っていた。大通りの喧噪や、誰かの怒鳴り声のような、耳に栓をしたくなるような音とは隔絶していた。

 胸の中にすっと落ちていって、奥底までじんわりと染み渡っていく音だった。

 心地良くて、だけどせつない音だった。

 いつまでもいつまでも聞いていたくなる音だった。

 やがて曲が終わり、レイニーが私が泣いている事を指摘するまで、私は涙を零している事に気が付かなかった。戸惑いながら手で拭っても、涙はなかなかな止まらなかった。

 その後レイニーは私に音楽チップをくれた。

 私は毎日のように音楽チップを再生させた。こんなにも奇麗な声で歌う人はどんな人なのだろうと興味を持つのはもはや当然の流れだった。私は必死になってこの音楽のことを端末を駆使して調べ上げて、ようやくリリー・シュナイゼルの『出発』という曲だと知ったのだった。

 デビュー曲である『出発』を発表した当時、Cクラスのリリーはもちろんアンダーシティにいた。曲自体もリリー自身で作った音楽チップを自主出版というものだったけれど、口コミで徐々にであるが広まっていく。そうしたある日、リリーの『出発』がBクラスの音楽プロデューサーの耳に留まり、あれよあれよという間にリリーはその才能を認められてBクラスに昇格するのである。

 私がリリーに憧れるようになるのも時間の問題だった。何よりも歌でBクラスになれるということが衝撃的だった。Bクラスの人間が住めるというグラウンドシティは、当時の私にとって天国みたいな楽園を想像していたのだ。そんなグラウンドシティに家族みんなで行けるようになれば、義父に対してこれ以上にない親孝行になると考えた私は、毎日のようにリリーの真似をして歌うようになった。

 私が歌い始めると、必ずと言っていい程、洋や義父、あるいはその両方が私の歌を聴きに寄ってきては拍手を送ってくる。

「うまいうまい」

 と、さらに二人は口々に私を褒めてくれる。それがとても嬉しかった私は、歌う事自体がどんどん楽しくなってきたのだ。

 私たちが成長し、義父がお小遣いをくれるようになると、私は殆どのお金を音楽データに費やした。まずはリリーの曲を全て集め、それからは色々な曲を収集する。

 この頃になると、私は真由美やレイニーにも歌を披露するようになった。二人とも私の歌を絶賛してくれた。

 身内にしか歌を聞かせる事はなかったけれど、私は真由美やレイニーが褒めてくれた事で自信を持つようになった。特に真由美が褒めてくれた事が大きい。なにしろ、真由美は誰に対してもずばずばとお世辞を使わずに言うのだ。だから私の歌で駄目だった所は駄目だと言ってくれるし、良かった所も具体的に言ってくれる。義父と洋とレイニーは、うまい良かった綺麗だというような事しか言わない。義父や洋に褒めてくれるのは何よりも嬉しいことなのだけれど、一番参考になったのは真由美の意見だったのである。


 毎日が幸せだった。楽しかった。充実していた。

 だが今思えば、兆しはそんな日々の中から始まっていたのだ。

 最初は、義父はげほげほとよく咳をするようになったな、と感じたことだった。私たちは、それをただの体調不良だと思った。少し休めばすぐに治るような風邪だと。

 しかし咳は中々収まらなかった。そればかりか、どんどん激しくなっていく。なのに、私や洋はそんな変化に気付く事なく、毎日を謳歌した。

 私たちがもっと早く気付く事さえ出来れば、もっと何か出来たのは間違いない。もちろん病を治す事はできなかっだろう。だけれども、今まで貰った恩を返せるだけ返すことはできたはずだった。

 しかし私たちは馬鹿で鈍くて愚かだった。私は相も変わらず毎日歌を歌っていた。それが家族をさらに幸せにする方法だと思っていた。洋はまともに働ける歳になり、早速仕事を探し始めた。私たちは今よりももっと幸せになると、もっと充実した日々を送れると、もっと良い生活を送れるようになると、本気で信じていたのだ。

 全く、馬鹿みたいだ。

 私たちは義父が倒れるまで、変化に気付こうとはしなかったのだから。

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