アドバンス!

うなじゅう

第一話 ファーストステージ

「私、身体を機械にする人が嫌い」

 数年前のことだ。僕と義理の妹である凛はテレビを見ていたのだが、その時彼女が憎々しく言い放ったのである。 

 テレビに映っていたのはフェクト・アンダーソンだった。全身を機械化した彼の身体は、人工皮膚を纏っていない。だから黒光りした無骨な機械の身体がそのまま剥き出しになっていて、サイボーグというよりもロボットそのものにしか見えなかった。機械の権化、そんな言葉が似合うような容姿をフェクトはしていたのだ。

「どうして?」

 と尋ねると、凛は黙ってテレビのチャンネルを変えた。話題にされることすら拒否する素振りだった。

 それから凛は並々ならぬ憎しみを隠さずに見せるようになった。もちろん今でもそれは続いているし、僕にも詳しい理由は分からないままなのである。



 

 何に使うのかよく分からないような部品をひたすら組み上げ続けることが僕の仕事だった。給料は安く、力仕事ではないけれど、同じことをただひたすらに続けるだけで、何の面白みもなく、単調だった。もっともこの町はこんな仕事ばかりだし、仕事にありつけない人が多い事を考えると、そもそもあるだけマシなのだ。だから決してこの仕事が嫌になった訳ではなかった。

「どうして辞めるのかね? 君はずっと頑張ってきたじゃないか」

 辞表を提出したとき、社長は残念そうに言った。僕に期待していることを、かつて遠回しな表現で言っていたのを思い出す。社長の表情や声音は、とても演技には見えなかった。

「妹のために、です」

 少しばかり申し訳ないと思いつつ、僕は言った。言葉が圧倒的に足りていないのは承知だが、詳しく説明しようとは思わなかった。言っても反対されるのは目に見えていたからだ。

「そうか。君には病気の妹さんがいたんだったな。残念だが、仕方あるまい」

 この社長には、とてもお世話になった。義父が死んだ時も、凛と一緒に食事をご馳走してくれた。他にもいろいろと良くしてもらった。だから仕事を辞めることは、社長に対する裏切り行為のように思えてならなかった。しかしだからといって、唯一の家族である凛と天秤にかければ別だった。どうしようもないのだと思う。

「長い間、お世話になりました」

 礼をした僕は社長室を後にして、同僚たちに最後の挨拶をした。

 それからシンプルなデザインの、僕愛用のマスクで口を覆って外に出る。

 通りに出てから上を見上げると、薄汚れたグレーの天井の空が相も変わらず頭上を覆っている。淀んだ空気でよく見えないのもいつものことだ。

 通りはマスクをしている人たちや機械化をしている人たちが行き交っていた。肌が黒い人がいれば白い人もいる。色々な色に髪を染めた人たち。例えば赤や緑や黄色だ。それから派手な服装な人たちだっていれば、地味な人たちだっている。だが様々なヴァリエーションの人々は、みな一様に険しい顔つきをし、辺りに注意を払いながら歩いていた。スリ、強盗、殺人と、犯罪が日常茶飯事に起きているためだ。誰もが隣人を疑っていた。そうでなければ、数秒後に命を落としてしまう危険が常にあるからだった。

 大通りの途中では、若い男たちが威勢良く不満を訴えている。曰く、「この世界の仕組みは間違っている。我々は平等であるべきだ」「諸君、我々は決起すべきである」「諸君、我々は今こそ革命を起こすべきである」

 彼らが属する組織は、悪く言えばテロ組織であり、よく言えば解放戦線と呼ばれている。しかし現状では、何の革命すら起こせないことを僕は知っている。僕は彼らの訴えを無視しながらさらに歩を進めた。

 目的地に辿り着くと、そこは古ぼけた店だった。銃器などの護身用の武器を扱っている店で、棚には様々な銃器が陳列されている。奥には気難しそうな店主がいて、僕を一瞥するなり、煙草を吸いながら手元の新聞紙を読み始めた。事故でなのか僕には分からないけれど、店主の右腕は機械化されていた。もっとも、この町ではごくごく普通の姿ではあるが。

 僕は拳銃が並べられた棚の前で足を止めた。棚は分厚いガラスで覆われている。大きな銃から小さな銃まで様々だ。大型の銃はいかにも強力そうだが扱いづらそうである。小型の銃なら僕でも難なく使用することが出来そうだけれども、どうにもピンとこない。悪人を殺すためならばこれ以上とない武器になるだろう。だが、目的が違う。

 僕は店の奥へと進む。そこはナイフ置き場だった。飛び出しナイフ、サバイバルナイフ、と視線を移していく。ナイフはちょうどいいかもしれないと考えていたところで、一本のナイフで視線が止まる。ヒートナイフだ。熱で対象を切り裂くことが出来る代物で、説明によれば、鉄ですら切断することが可能らしかった。

 僕は一目見て気に入り、これを購入することに決めた。予算の限度ぎりぎりの値段であったことも決め手の一つだ。僕はヒートナイフを手に取って、仏頂面の店主に渡して購入した。

 貯金は当面の生活費分しか残っていないし、生命保険には加入していない。僕に何か起きれば、凛は酷い不幸をさらに背負うことになる。そうなってしまった時のことを考えると、自分の選択が間違っているのかもしれないと思ってしまう。……いや、きっと間違っているのだ。僕がやろうとしているのは、一か八かの賭け事でしかないのだから。

 しかし、それでもやらなければならない。凛の夢を叶えさせてやるためには。


 四角く、灰色の建物が並んでいる通りに出た。その中にある一つの前で僕は立ち止まる。僕と凛の家だ。汚らしいし、まともにデザインする気が欠片も見当たらない小屋みたいな家。しかしその代わりに、格別に安かった。

 暗証番号を手持ちの携帯端末に入力し、扉に向けて送信すると、鍵が開いた。

 家の中に入ると、まずは自分の部屋にいらない荷物を放り込み、それから凛の部屋に行った。

 ネズミ色の壁に囲まれた小さな部屋は、女の子らしいとは言えなかった。これといった装飾がされておらず、誰もが持っている壁掛けの端末が一つあるだけだった。ただそれだけのシンプルな部屋なのだ。

 思えば凛は、わがままを言わない子だった。義父は貧乏であったが、それでも僕らに小遣いを渡してくれた。凛は小遣い以上の要求を言うことはなかったし、貰った小遣いの大半は、音楽データに費やされていた。可愛らしい衣服が欲しいなどといった女の子らしい訴えは、義父が生きている時でさえ聞くことがなかったのである。

 凛は白いベッドの上で寝息を立てながら眠っていた。凛の安らかな寝顔を確認した僕は、ベッドのそばにある丸椅子に座った。

 凛の肌は昨日よりも青白くなり、頬は痩せこけ、頬骨が浮き出ている。背中の半ばまで伸びた長髪は、今では糸みたいにか細くて弱々しくて、元の美しい艶のある黒髪には到底及ばない。元気だった頃の面影は、僅かにしか残っていなかった。

 地中にあるここアンダーシティでは、空気の換気をまともに行っていない。だから有害なスモッグで満ちている。そのせいで凛は肺をやられた。症状が義父と同じだ。

 僕は日に日に弱っていく凛の姿を見るたびに、やるせない気持ちになってしまう。何も出来ないことが歯痒かった。医者ですら役立たずなのだからなおさらだ。なにしろ医者は機械化することにしか能がない。それは機械化が嫌いな凛にとって死刑宣告にも等しい。凛は嫌悪感をあからさまにして、機械にするぐらいなら死んだ方がマシと主張した。それ以外の考えはあり得ないとでも言うように。

 僕は機械化の提案はしたが無理な説得は試みなかった。なぜなら凛はたった一人の家族だから、その意志を尊重しようと思うのだ。

 そんな話を幼なじみの加藤真由美にしたら、可愛い妹を見殺しにするつもりなのか、と僕を静かに怒った。兄なら、機械化するように説得をするべきではないのか、とも言っていた。全く以て正論である。きっと僕と凛が間違っていて真由美が正しいのだ。

 しかし、たった一つだけ誤りがあった。僕は凛を見殺しにするつもりはない。凛を助けるためならなんだってやると心に決めている。幸いにもそのための希望がたった一つだけあるのだ。

 僕は視線を壁掛けの端末へ向ける。片隅に表示されている時刻は、もう出発しなければならないことを示していた。

「いってきます」

 僕は凛が起きないように小さな声で言って、立ち上がった。


 

 幅広で長い階段。ここを上れば目的地に辿り着くのだが、階段の一番下には加藤真由美がいた。

 肩の上あたりまで伸びている茶色い髪を掻き上げた真由美は、真っ直ぐな瞳を僕に向ける。ジーパンに白いTシャツといういつもの出で立ちは、決して派手ではないけれど、真由美にはよく似合っていてとても格好いいと思う。

「奇遇だね、阿藤洋」

 芝居かかったいつもの口調で、真由美は言った。

 はっ、と僕は笑う。

「なにが奇遇なもんか。分かってたんだろ」

 真由美は不敵に笑んだ。

「なにしろ腐れ縁だからね。洋の考える事は、私にとってはとっても分かりやすいんだよ。洋は、とんでもないシスコンだから、なりふり構わずに凛ちゃんを助けようとするに違いないってね」

「それで、どうしよっていうんだよ」

「安心してよ」真由美は寂しそうに微笑んだ。「……私はもう、洋を止めるつもりなんてさらさらないんだ。洋は凛ちゃんのことに関してだけは、途端に頑固になっちゃう手遅れなシスコンなんだから、私の言う事なんて聞く訳がないんだ。ただ、一言だけ……私は、阿藤洋に伝えたいことがあるから、ここに来たんだ」

 よほど言いにくいことなんだろう。真由美は言い淀んで、視線を足下に向けた。それから持ち前の強さを持って、顔を上げる。僕と目が合う。

「私は……、私は阿藤洋のことが、好きなんだ」

 真由美は決然と言った。実に真由美らしいストレートな告白だと思った。

 僕は返事をしようと口を開きかけたが、真由美の声がそれを遮った。

「返事は、いい。分かってる、分かっているさ。何を言うかぐらい。言っただろう? 腐れ縁なんだからね」真由美の顔が再び俯く。「……私は、私は振られるんだろう? どうしようもないことさ。状況が、運が、悪かったんだからさ。最も……こんな状況でもなければ私は言わなかっただろうし、例え言ったとしても、結果は代わらないんだろうからね」

「……そんなことはないさ」

「いいさ。いいんだ。余計な気は遣わなくてもさ。私はただ、すっきりしたかっただけなんだ。この告白は、独りよがりな、自分勝手な、とてもうっとうしい自己中心的な、自己満足な、告白なんだから。ただ、加藤真由美という女の子が、阿藤洋という男の子が好きなんだっていうことだけを、心の片隅にでも置いてくれれば、私は満足なんだ」

「僕が、……僕が忘れる訳がないよ。僕らは腐れ縁なんだ。真由美のことは、脳みそにずっと残り続けるに決まってる。真由美がいやがっても、忘れてやるものか」

 と、僕は返すと、真由美は不意に背中を向けた。

「……うん、ありがとう。足を止めさせて悪かったよ。私は、きっと洋は、“アドバンスレース”を無事に完走して、グラウンドシティに行って、凛を助けるって、信じているよ。だから、もう……行ってくれ」

「……分かった」

 僕は階段を登り始めた。真由美の顔はあえて見なかった。その代わりに、僕は真由美の横を通り過ぎた時に、言葉をかけた。振り返らずに。

「凛が病気にさえならなかったら、もしかしたら、僕は真由美と家庭を作ったかもしれない」

 返事の代わりに、鼻をすするような音が背後から聞こえたのだった。


 5世紀ほど昔は、全ての人が平等な地位のもと、地上で暮らしていたという。しかし今では、A~Cまでの階級に分かれており、僕らCクラスの人間は、アンダーシティにしか住む事ができない。Bクラスから上の階級で、ようやく地上の都市、グラウンドシティに住む事が許されるのだ。

 ここアンダーシティは、数十キロメートル程の広さしかない。そこから先は壁で囲まれている。そのため僕らは数十キロメートルの範囲外のことを知らない。そこから先はただ土しか存在していないのかもしれないし、もしかしたらまた別のアンダーシティがあるのかもしれない。

 僕らの外に対する知識は、グラウンドシティについてのみのそれもほんの僅かだけだ。他の知識、例えばここは地球のどの辺りに位置しているのだとかは情報規制によって得ることが出来ない。もし何らかの間違いで知ってしまった場合、僕らは捕まってしまう。そうして捕まった人々は、二度と帰ってくることができなくなるのだ。

 グラウンドシティはアンダーシティとは何もかもが違う世界である。アンダーシティにはない高度な医療技術や知識が、グラウンドシティにはあるとされている。凛の病気もグラウンドシティでなら治せるはずだ。

 しかし、そのためにはBクラスにならなければならない。

 階級をあげるための方法はいくつかある。経済的な成功を遂げ、多額の税金を政府に納め続けるとか、ある種の才能が認められることであるとかだ。だが僕には、その両方が足りていない。そこで、たった一つだけのチャンスに挑戦することにした。

 それが、“アドバンスレース”である。

 3年に一度だけ催されるアドバンスレースは、様々な障害を乗り越えつつ、三つのステージをクリアすることで初めて完走となる。そして、その中で最もタイムが速かった者と、その家族がBクラスになることができるレースだ。参加者はステージをクリアするごとに賞金が与えられ、レースを継続するか、リタイアをするかを選ぶことが出来る。ここでリタイアを選べば賞金は貰えるが、二度とレースに参加することが出来なくなる。また、レース中はリタイアをすることが出来ない。レースから降りるとき、それは障害によって参加者が死んだときだけなのである。

 仕事を辞めたのは、アドバンスレースに参加するため。ヒートナイフを買ったのは、アドバンスレースでは武器の所持を認められているからだ。

 僕は仕事を辞めたことも、アドバンスレースに参加することも、凛には内緒にした。理由は簡単。絶対に反対されるに決まっているからだ。


「ルールは分かっていますね?」

 受付に座っているポニーテールの女性は、酷く事務的に言った。にこりとも笑わない。

 僕は「はい」とだけ答える。

「結構です。それでは奥にある部屋にてお待ちください。始まりの時刻になりましたら、放送にてお知らせいたします」

「わかりました」

 僕はまっすぐ歩き、受付の女性が言った部屋の中に入った。真っ白で真四角な、簡潔な部屋。座り心地が良さそうなソファーが一つだけぽつりと置かれている。

 僕はソファーに座り込んだ。ソファーは僕の身体を優しく包み込むようにして受け止めた。体験したことのない、気持ちのいい座り心地。こんなソファーは、これまでの生活の中で一度たりとも体験したことがなかった。きっと最後の晩餐のようなものなのだろうと、ふと思う。

 僕は時間までの間、ぼんやりと白い壁を眺めていた。これほど白い壁は、アンダーシティの中ではそうそう見れる物ではない。たいていの家の壁は、灰色で染まっているのだ。それに塵も埃も部屋の中には見当たらない。きっとアンダーシティの住民の中でも、Bクラスの人間の部屋でしか拝見することが出来ないだろう。普通はどんなに清潔に保とうと掃除を繰り返しても、どこからやってくるのか、すぐに埃や塵がたまってしまうのだ。

 僕は果たしてBクラスの一員になることが出来るんだろうか。そう思うと、今更ながらに緊張する。もしかしたら、僕は失敗してしまうかもしれない。失敗は僕の死を意味し、凛の死を確定させる。許されないことだ。特に、凛を悲しませ、そして、何の希望も見せることなく死なせることに関して。

 それならば、僕は今すぐに辞退するべきなのだ。それが最も正しい選択に違いない。そして、凛が死んでしまうまで、なるべく同じ時間を過ごすのだ。

 しかし、凛には夢があった。凛は歌手になりたがっていた。

 かつて凛が元気だった頃、凛は、リリー・シュナイゼルのような歌手になりたいと、しきりに言っていた。リリー・シュナイゼルは、僕たちと同じCクラスの人間であるにもかかわらず、圧倒的に美しい歌声をグラウンドシティの人間に認められ、歌手としてBクラスに成り上がることができた希有な人物だ。その影響もあって、凛は幼い頃から歌うことが好きだった。兄馬鹿を抜きに考えてみても、凛には歌の才能があったし、何よりも美人だった。

 けれど今、凛は歌うことが出来なくなっている。そればかりか、毎日のように聞いていたリリー・シュナイゼルの歌を聴くこともなくなっていた。自分の夢も語らない。端から見ても、凛は絶望しているように見えた。なによりも凛の笑顔をここ最近見た覚えがなかった。

 僕は凛の笑顔が見たい。凛が楽しそうに歌う姿を見たい。凛の夢を叶えさせてやりたい。それが、きっと僕の夢なのだ。

 そのために僕は退くわけにはいかないのだ。死ぬわけにもいかない。

 アドバンスレースに参加するのは凛のためではないのだ。むしろ、僕自身の利己的な理由によるものだ。そのことを、僕は始まる前になってようやく理解したのだった。


『時間です。辞退されるなら、そのまま引き返してください。始めるのなら、目の前の壁に触れてください。壁が開いた時が、始まりの合図でございます』

 どこからともなくアナウンスが聞こえてきた。

 僕は立ち上がって、壁に近づき、指先で軽く触れる。それだけで、壁は上下に分かれて開いた。白い壁に囲まれた一本の白い道が、緩やかに曲がりながら下っていく。

 僕は走り出した。ジョギング程度のスピード。どれほど走れば辿り着くのか分からなかったし、どこにどんなトラップが待っているのかも分からない。だから常に警戒が必要だった。

 おそらく螺旋状になっているのだろうと、走りながら構造を分析したときだ。

 かちり。

 警戒していなければ聞き取れないほどの、小さな金属音が鳴ったのである。僕はスピードを緩めるために、踏ん張ろうと足を前に出す。

 しかし奇妙に手応えがない。踏み出した足の先にあるべき床がないと気がついたのと、重力のままに身体が落下しようとしたのは同時だった。

「あっ」

 僕は咄嗟に右手を伸ばす。床の縁にどうにか指が引っかかった。僕の全体重が五本の指にのしかかる。続いて左腕を伸ばし、手をかける。僕はそれでようやく一息をついた。

「……いだい、いだい、いだい……」「……ぐうううう……」「た、たす……け」

 死にかけのミミズみたいな声が下から聞こえた。

 恐怖と興味が合わさった心境で、僕は足下を見やった。暗闇。なにも見えない。ただ痛々しく苦しげな声が聞こえてくる。何が起きているのか見当もつかない。だが、確かめるためには落ちるしかない。どうなるのか分からないが、いい結果が待っていないことだけは確かだ。

 僕は心の中でごめんと謝る。彼らにしてやれることは何もない。呪うなら呪ってくれてもかまわない。僕には果たさなければならないことがあるのだ。僕は何が何でも進まなければならないのだ。

 懸垂の要領で身体を持ち上げると、足を引っかけて床に上る。

 一息つくと、タイミングよく左右の壁から床が伸びてきた。おそるおそる足で踏んでみる。床は変化しない。

 全身から冷や汗をかいていたことに気づいた僕は、レースの恐ろしさを肌身で感じ、思わず身体が震えた。

 僕はもっと慎重になるべきだ。タイムを縮めることはもちろん大事に違いない。しかし、それよりも確実にクリアすることのほうが重要なのではないか。なにしろこのアドバンスレースは、完走した者はごく僅かしかいないし、複数の人間が完走する例は皆無だった。つまり、完走することは、Bクラスになることと同じことである。もちろん今回も一人だけとは限らない。初の同時完走もあり得ない話ではない。だがそのことを気にするあまり、クリアすることが出来なければ本末転倒なのである。

 そのことに合点がいった僕は、なお一層に周囲を警戒しながら、早歩きで進むことにした。

 しばらく歩くと、通路上にきらりと光る線状の物が張り巡らされているのに気がついた。よく観察してみると、それは電磁ワイヤーであるようだった。強力な電流が流れており、触れただけで、僕はきっと感電死していたに違いない。もしも走っていたなら、気づくことが出来なかっただろう。僕はヒートナイフでワイヤーを切断した。

 またある時には、踏み込んだ床が凹んだと思うや否や、頭上から鋭い棘がいくつも降り注いだ。僕は慌てて前方に飛び込んでかわした。

 さらに進んで、つい壁に軽く手が触れてしまった時だった。触れた壁とは反対側の壁から、先が尖った棒がいくつもいくつも飛び出してきたのだ。僕は全力で走ることで、ようやく難を逃れることができたのである。

 まったくもって恐ろしい。一歩でも間違えれば、どれも死んでしまうトラップのオンパレードだ。それでも僕は、注意深く進むことでトラップの一つ一つをクリアしていく。警戒さえ怠らなければ、どの罠も攻略できる程度の難度なのだ。事実、僕は未だかすり傷一つ負っていない。

 これならいける。そんな確信を抱いた矢先だった。

 緩い曲線の通路が終わり、空間が開けた。筒のような部屋だ。上にも下にも広がっている。僕がいるちょうど正面に通路があり、その奥には扉がある。あそこに行かなければ行けないようだった。足下には梯子がかけられ、向こう側にも同じような梯子があった。

 この部屋にも罠があるに違いないだろう。床の中心には、太く短い円柱を土台に、細く長い円柱が付いている白い何かがある。恐らくあれが罠だ。しかしあまりにもあからさま過ぎる。これまでの罠は、いずれも隠れていた。一見してそれと分かるようにはしていない。ならば、あの円柱はダミーなのかもしれない。もしかしたら、別の所に本命の罠が仕掛けらているのかもしれない。

 ともかくも、考えていても進まないのだ。僕は梯子に足を掛けて、慎重に降りて行く。

 そうして、床に辿り着いた。

 同時に、かちん、という音がなる。

 ハッとした。思わず僕の足は走り出そうと一歩前に進んだ。しかし、急激な動きに身体が付いて行くことが出来なかった。足がもつれ、身体が倒れる。

 急激に落下する視線は、眼前の円柱に黒い丸があることを捉え、そこから、白い棒状の物がいくつも連続的に射出されたのを見た。

 だだだだだだん、という音が響く。続いて、左腕に猛烈な痛みが走った。

「ぐわぁっ」

 激痛に耐えながら、僕は左腕を見た。左腕に、何か棒状の物が突き刺さり、壁に縫い付けられている。そこから赤い血が、壁を伝って流れて行く。

 視線を上に移す。頭上に棒状の物が突き刺さっている。それが6メートルぐらいまで一直線に続いていた。

 背中を氷で撫でられたみたいなおぞましい寒気を感じた。転倒しなければ、まず間違いなく頭にあの棒が突き刺さり、僕は死んでいたに違いない。

 キリキリ、という、まるで何かを装填しているような音が、僕の耳に入ってくる。まるで死刑宣告の秒読みだ。

 目の前の円柱にある黒い丸が、僕を見つめた。あまりにも無機質な狩人の目。

 痛みをこらえながら、左腕に力を込めた。しかし、棒はしっかりと腕と壁とを繋ぎ止めていた。まるで抜ける気がしなかった。

 冗談じゃない、と、僕は心の中で毒付く。こんな所で死ぬわけにはいかないのだ。脳裏に、凛の顔が浮かび上がった。

 僕は懐からヒートナイフを取り出した。両膝で鞘ごとナイフを固定させる。柄の尻を回し、ヒートナイフの電源を入れ、一気に引き抜いた。

 僕は不自由な左腕を凝視した。生唾を飲み込む。ナイフの熱気が伝わり、汗が流れ落ちる。手に力を入れ、歯を食いしばった。

 ヒートナイフを左の二の腕めがけて振り下ろす。

 驚くほど簡単に、左腕が肩から切り離された。

 獣の咆哮が僕の口から迸った。切り口から多量の血が吹き出る。

 意識が消えてしまいそうな痛みを、歯ぎしりをして堪えてみせ、それからすぐに走り出す。前へ。

 そして一刹那後に、かちん。

 僕をめがけて、棒が飛んでくる。しかしその頃には既に、僕は右へと移動していた。棒は空しく空を切る。

 だが、無機質な狩人の目は機械的にぼくを追う。棒が容赦なく吐き出され、襲いかかってくる。僕は右に左に進路を変えながら、前へと走る走る。

 当たりそうになった棒を、僕はナイフで薙いだ。飛んだ破片が僕の右腿に突き刺さる。さらに飛来する棒が、頬をかすめて飛んで行く。さらにさらに飛来するいくつもの棒。そのうち一本が僕の左肩に突き刺さる。激痛。呻き声。

 だが、こんな痛み、なんてことないのだ。凛はもっともっと苦しいはずなのだ。つらいはずなのだ。痛いはずなのである。

 すぐ目の前まで白い円柱が差し迫った。

 僕はすかさずヒートナイフで何度も斬りつける。

 円柱はとても簡単に切り刻まれ、もはや獲物を狩る狩人ではなくなった。白い機械だった塊となっていた。

 息を吐き、吸う。猛烈に痛み続ける左腕を見やる。赤い血球がぼたぼたと滴り落ちて行く。ぼう、とする頭。このままでは、失血死するかもしれない。

 僕は傷口にヒートナイフの腹を当てがった。

「うぐうっ」

 白い煙が立ち、肉が焼ける音と匂いと痛み。

 強引な応急処置だと我ながら思うが、ともかく血は止まった。

 僕はぼろぼろになった身体をひきづって、前へ歩を進める。全身を苛む激痛は出来る限り無視する。そうやって梯子の前にまで辿り着いた。だが登ろうにも左腕はない。考えている暇もない。

 死体となってここから出るか、クリアしてここから出るか。このレースにはこの二つしか選択肢が用意されていない。しかしここでこのまま立ち往生し続けていたら一体どうなるのか。そのことを僕は、レースが始まる前に考えていた。なにしろ僕の次にも走者が必ずいるはずだ。そしてその走者が来るまでに、僕を片付けなればならない。そうなれば、クリアできず、しかし死にきれずに、コース上に居続ける選択をした者を掃除するためのトラップが必要になるはずだ。

 このレースに明確な時間制限はない。だが、それが実質上のタイムオーバーになるのは間違いがないだろう。

 どちらにしろ、僕に選択権はない。進まなければならないのだ。凛のために。

 右腕で梯子を掴む。足を梯子に掛る。登る。それから、顎を梯子にひっかけて、再び右腕で上の方の梯子を掴んだ。その動作を繰り返すことで、梯子を登った。

 やがて3分の一ほどを、その要領で登った時だった。

 かちん。

 もはや悪夢を告げる音。死刑宣告に等しい音。

 こんな状況で。いや、こんな状況だからこそなのか。

 血の気が引いて行く音を聞きながら、僕は思わず下を覗き込んだ。あまりにもあからさまに凶悪なトラップが発動しようとしていた。

 床面が螺旋を描くように収納された。代わりに現れたのが、垂直に突き立てられている刃。それが新たな床の上を敷き詰めている。それだけならばまだ可愛げがある。落ちなければ良いだけだからだ。しかし、この程度の簡単なトラップな訳がない。恐るべき続きがあった。床面は、強烈無比な勢いで回転をし始めたのだ。しかもそれが、徐々に上に向かって上がってくるではないか。巻き込まれてしまえば、一瞬にしてミンチが出来上がるだろう。せめてもの救いはスピードが遅いことだ。しかし僕のこの現状では、いかにも危険だ。

 僕は慌てて梯子を登り始めた。だが、速くなるわけがなかった。せめて今の速度がこれ以上遅くならないように努めるだけで精一杯だった。

 額から流れ落ちた汗が、目の中に入って染みた。べたつく汗が気持ち悪い。けれど汗を拭う暇は、片時も許されていなかった。

 徐々に、しかし確実に、下から迫ってくるトラップ。耳元で鳴る蚊の羽音みたいに、鬱陶しい音を奏でている。

 梯子は、半分以上は登ったはずである。もうすでに、足も、右腕も、限界だった。特に右腕は、痙攣さえ起こし始めていた。

 左腕さえあったなら、こんなトラップは簡単にクリアできたというのに。

 だが、無い物にすがっても意味は無い。特に自分で斬った腕に対してはなおさらだ。僕はさらに登って行く。

 回転する刃は、いよいよもって近くなっている。下を顧みている余裕などはないが、やたらと大きくなった音でそれは分かった。

 梯子もあと少しだ。五本ほどの先に、梯子の終わりが見えた。

 ペースは最初に比べれば格段に落ちている。残されている力はごく僅か。それでも、その僅かな力を振り絞って登る。

 落ち着け。とにかくこんな所で失敗するわけにはいかない。何も知らない凛が待っている。今の僕は仕事をしていると凛は思っているのだ。その僕が、死んでどうする。凛を悲しませて、どうする。

 最後の一段だ。腕をかけ、足をかける。文字通り死力を尽くして身体を上げる。

 もはや数メートルとないであろう、回転する刃。

 右腕が床面を捉える。僕の目が通路の先にある扉を視認する。足が床に辿り着く。

 登った。登りきったのだ、この僕は。

 そしてその一瞬後には、背後でけたたましい轟音が捲し立てた。ようやく僕は後ろを振り返る。剣の床が、猛烈な勢いで回転しながら上に上がって行く。あと数秒でも遅れたなら、あの中でぐちゃぐちゃになっていたに相違ない。

 だがまだ終わりではない。第一ステージは完走していないのである。

 よたよたと僕は歩く。そうして扉のノブに手をかける。捻る。開く。

 真っ白な、真四角な部屋が広がった。けれども、通路がどこにも無い。

 更なるトラップが待っているのであろうか。僕の残りの体力は、全くないと言っていい状態である。それでも、僕はきっと突破してみせる。

 一歩、部屋の中に足を進ませた。

「おめでとうございます!」

 景気のいいファンファーレと共に、どこからともなくアナウンスが響いた。

「第一ステージ、クリアです!」

 安堵した。その途端に、全身に残されていた力が抜けていくのを感じたのだった。

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