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 梓河への相談を終えて帰宅し、風呂から上がって小説を書いていたら、出し抜けにインターホンが鳴った。

 オートロックの集合玄関ではなくて、戸別玄関のインターホン。

 魚眼レンズを覗くまでもない、この時間にくるのは一人しか思いつかない。

 パソコンをスリープにしようか少し迷ってそのままにして、玄関へ向かう。

 チェーンも外してドアを開ければ、予想通り華凜が立っていた。風呂上りのパジャマ姿である。

「いちいち鳴らすなって言ったろ、近所迷惑な」

「やっぱり希一郎まだ起きてた」

 少し酒が入っているらしい。へらりと笑って中に入ってこようとする。

「大した用じゃないなら帰れよ」

「待って、相談があるの。だから部屋、入れて?」

 薬原華凜、同郷、小学校四年生からずっと同じ学校、就職先、おまけにマンションの隣人。

 腐れ縁にもほどがあるが、どちらかというとこれは華凜の方が合わせにきている。

 勝手知ったる俺の家、華凜は断りもせずにベッドに寝転んで、テレビのチャンネルをあれこれいじる。

 いつものことだ。好きにさせてやろう。

「なにか飲むか?」

「ココアがいい!」

「はいはい」

 右手でコーヒーメーカーのスイッチを押し、左手のミルクパンをコンロにかけた。

 俺は基本的にコーヒーしか飲まないのだが、ココア好きの華凜のために常備している。

「あれ、梓河と飲んでたの? いいなあ」

 テーブルの上に置きっぱなしの領収書を見つけたらしい。

 頑張ってはみたが二千円弱使うのがやっとだった。

 雰囲気的にいづらくなって、ろくに食わずにビール三杯で出てしまったから。

 梓河と飲めると思って選んだ店だったから、仕方ない。

「ああ、ちょっとだけな」

「ずるいー。最近みんな付き合い悪くて、全然集まれてないんだもん」

 確かにこのところはみんなの予定が合わない。前は毎日のように集まっては飲み食いしていたのに、なぜか急にかみ合わなくなった。

 最後に全員で飲んだのは蔵書点検明けだったはずだから、もう一カ月以上も前になる。

 四人揃わずとも飲みには行くのだが、さすがにこうも集まれないとテンションも下がる。

「俺だって一杯しか一緒に飲んでないぞ。相談があって無理言って時間作ってもらったから」

「なになに、あたしにも教えてよ!」

「いいんだよ、解決したから」

 一旦、預けただけだが。

「えー」

「で、華凜の相談ってなんだ?」

 ココアと砂糖を練りながら話を振る。

 甘ったるいカカオの香りが部屋に充満し始めたかと思えば、すぐに背後でコーヒーが香る。

 換気扇を回すのはもったいない。この手の混濁した匂いは好きだ。

 どこから話そうかなあ、と迷っていた華凜はやっと話しだした。

「あのね、今日うちに変なお客さんが来てさ。お昼過ぎなんだけど」

「お前のとこは毎日変な奴来るだろ」

 華凜も俺と同じ鴉原市の職員だ。

 俺が司書職なのに対し、華凜は薬学区分で入庁した技術専門職員。

 図書館と教育委員会事務局をぐーるぐるするくらいしか異動がない俺に比べ、華凜が配属される可能性のある職場は割に幅広い。

 大抵は衛生関係の部署で働くそうなのだが、華凜の初任配属先は少々珍しいところだった。

 澤ノ井区の隣、都賀区の生活相談課。事務職員が大半を占める中、建築士や保健師といった専門職員の並びにある薬剤師として働いている。正確には都賀区総合庁舎内にある保健所出張室の検査員との兼務発令で、日によって座るデスクが違うという。

 保健所も大概なようだが、生活相談課は輪をかけて大変そうだ。

 何を相談したらいいのかさえ分からない状態の区民がどっと押し寄せる。

 職場訪問研修で二日お邪魔したことがあるが、仮面がいくつあっても足りないくらいの無法地帯ぶりだった。

 うちの数段上をいくクソさである。あそこでまともに働いている華凜はえらいと思う。

「違うの。今日のはガチだった」

「どうガチなの」

「サイジョーのこと、聞いてきた」

 反応に困った。

 俺のところに黒葉が来たのは午前十一時ごろ。そのまま移動すればちょうど昼過ぎになる。

 ひとまずココアのカップを渡してやって、慎重に聞く。

「……どんな奴だった?」

「三十路入ってないくらいの男の人。……これ、名刺」

 見覚えのある紙切れだった。

「……俺とこにも来たよ」

 隠すことでもないと判断して、白状した。

「そうなの?」

「……とりあえず、梓河に調べてもらうよう頼んだから」

「相談ってそれだったの?」

「ああ。三日で結果を教えてくれるって」

 あの感じじゃ、それより早く連絡が来るだろうなと思う。

 だからと言って、悠長に構えているわけにもいかない。

 俺はともかく、華凜のところにまで黒葉が現れたというのなら、十分に警戒するべきだ。

 俺たち公務員には、公務遂行中の身の安全なんてものはほとんどない。やられたら庇ってくれるだけで、やられるまえに護ってくれるものはほとんどない。

 特に地方公務員は勤務公署によっては非常に脆弱な警備体制の中で仕事をしている。図書館や区役所なんて末端サービス拠点は、その気になればいくらでも暴挙に出られる場所だ。

 入館手続きの必要な建物にいる国家の奴らとは全然違うのだ。

 そんな恐怖もストレスも、全ては公務員として発令を受けた所属の名があるから耐えられるもの。公僕として受ける攻撃と、個人として受ける攻撃はダメージが違う。

「華凜、お前しばらく休め。その方がいい」

「それはできないよ。来週から立ち入り検査だし、巻きで仕事しないと」

 万が一のために、上司にも同僚にも事情は説明して理解を得たという。

 華凜は薬学部卒でまだ入庁一年目だ、周りがちゃんと見てくれていると信じるしかない。

「……もしものときは全力で逃げろよ」

「分かってるよー」

 そこで会話は途切れた。

 しんとした中で、お互いが飲み物を啜る音だけが響く。

 こういう静かな時間は好きだけれど、今日は嫌悪感があった。

 どうしても思い出してしまう。書庫で感じた、自分が崩れていくような錯覚を。

 それは華凜も同じだったのかもしれない。ぽろりと、心の内を話し始めた。

「でもあいつ、なんなんだろう。……どうしてサイジョーのこと、職場にまで……まさか、あいつが、」

「やめろ。軽率なこと言うな」

 言ってしまった後で、もう少し口調に気を遣えばよかったと思った。

 自分だって、そう思ったくせに。

 俺はクソだ。戒めろ。

 じっとマグカップを見つめている華凜に、なんとフォローの言葉をかければいいのか思いつかない間に、名前を呼ばれた。

「希一郎」

「……なんだ?」

「抱っこ」

「はいはい」

 ココアを置いて飛びついてきたのを受け止め、ぐすぐす泣く背中を軽く叩いてやって。

 嗚咽に紛れて小さく呟かれるのは謝罪の言葉――サイジョー、ごめんね。

 サイジョーが見つかったあの日、梓河から俺に連絡があった。

 地元から鴉原へ戻る新幹線の中で受信したメールの一番上に、華凜には俺から伝えるように書かれていた。

 お土産の梅酒を眺めてはサイジョーにあげるんだと嬉しそうにしている姿を見ながらの二時間は辛く、鴉原駅に着いてやっと話ができた。

 どういう風に言ったかは忘れたけど、華凜は、見るまで信じないと目を逸らした。

 そしてその足で警察署の霊安室に行って、泣いてへたり込みそうな華凜を支えて外に出た。

 俺だって泣きたかったのを、こらえた。

 あの日の哀しみは、全部華凜が代わりに泣いてくれた。

 自殺にしろ、殺されたにしろ、ひとりぼっちにしてごめんね。

 華凜のごめんねはそういう意味だ。

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