言い過ぎました

 後ろの大きなドアを細く開けて、会場内の喧騒から逃れるようにすっと静かに廊下へ出る。ドアが閉じると、あれだけ中は騒がしかったのが嘘みたいに、廊下はとても静かだった。

 それでも無音というわけではなく、緩やかに雰囲気を邪魔しないような音楽がしっとりと流れていた。

 クラシック?

 その辺りのジャンルにはとんと知識がないのだけれど、それでも心を落ち着かせる音楽だなぁ、なんて感想は持った。

 高級そうな絨毯の敷き詰められた廊下には、クロークに人がいるだけで、時折人が通り過ぎるくらいだ。

 グラスを手にしたままフラフラ歩いて行くと、大きな窓の外がベランダのようになった場所が窺えてそっちへ向かう。

 行儀悪くも、歩きながら何度もグラスに口をつけてはアルコールを体に流し込む。冷たいのに喉を通っていくと熱くなるジンの感触と、燃えるようなお腹にたまる熱い感覚が心地いい。

 ベランダの大きな硝子扉に近づき押してみると鍵も開いていたので、そのまま外に出て冷たい夜風に当たった。

 寒っ。

 何杯一気飲みしただろうか? 会場内にいるときは寒さどころか少し暑いくらいだったけれど、さすがに羽織物もなしだと身に堪える。

 どこかの宮殿みたいな造りの手すりにもたれかかり、夜空を仰ぐ。雲は少なくて、ホテルからの光もあるのか、心なしか空は明るい。

 その空を眺めながら、寒さに時々自分の腕をさする。

 酔っているとはいえ、この季節に上着なしで外に出るのは、厳しいものがあった。

 クロークに戻って上着を貰ってこようかとも考えたけれど、ちょっと酔い覚ましというか、頭を冷やしたほうがいいかもしれないなと思いなおしやめた。

 怒ったように叱る、さっきの櫂君の顔が過る。

 あんな風に言い合うつもりなんて、なかったんだけどな……。

 どうして熱くなっちゃったんだろう。私らしくないよね……。櫂君は、佐藤君に絡まれている私を助けてくれただけなのにね。

 今頃、私のこと探してるかな? それとも、見当たらなくなった私のことなんてまた放置で、あのフレアスカートひらひらの彼女と楽しく話を始めちゃったかな。

 どうにも心の中のモヤモヤは尽きず、寒さに対抗するみたいにしてグラスを傾ける。

「あーあ。つまんなーい」

 夜の寒空に向かって零すと、息が白い靄みたいに目の前を覆い、一瞬で闇の中に消えていった。

 ベランダから見渡す景色は、クリスマス用だろう電飾が、手入れをされた庭に落ち着いた雰囲気でキラキラと輝いている。

 LEDの青い輝きをぼんやり眺めていたら、さっきの自分の態度が益々大人げなさ過ぎて情けなくなる。普段から櫂君に迷惑ばかりかけているのに、反省……。

 ていうか、なんで私、あんなにイライラしたんだろう。櫂君がチヤホヤされるのなんていつものことだし、私がそんな女の子たちから目の敵にされているのもいつものこと。

 フレアスカートひらひらちゃんに勝ち誇った目を向けられたけど、あんなのだって日常茶飯事じゃない。

 そもそも、同じ部署っていうだけの後輩の櫂君と、いつでも何処でも一緒にいる必要なんてないんだよね。

 私は、私で。櫂君は、櫂君よ。

 せっかくこんなにおしゃれしてきたのに、怒った顔してたら台無しだよね。

 上手にセットできたウエーブに、爪には翔君がくれたクリスマスのネイルチップ。スーツも新しいし、ヒールだってそうだ。

 高いヒールは慣れていなくて結構歩きにくいけれど、気に入ったデザインの物を買うことができたから満足している。

 こんなにキラキラとした自分になれたのだから、膨れた顔をしているなんてもったいない。

 だけど、こんなにおしゃれしたって、ここには神崎さんがいないのよね……。

「残念」

 口に出してしまうと、なんだかよく解らないけれど、余計に変な溜息が漏れてしまった。

 今、何時だろう?

 腕時計に目をやると、二十時になろうとしていた。

 神崎さん、そろそろ家に戻ってる頃かな? あ、またストーカー的なことを考えてしまった……。

 いやいや、これは恋する乙女のごく普通の考えだよね?

 手にしていたグラスのお酒をグビグヒと一気に喉に流し込み、アルコールにぎゅうっと顔をしかめると胃の辺りがまた少しだけ熱くなった。

 それにしても、やっぱりちょっと寒すぎる。そろそろ戻ろうかな。

 グラスを持ったまま、寒さに自分の肩を抱き、身震いをする。

 空のグラスを手に踵を返すと、櫂君がベランダ出入り口に立っていた。

「もう。菜穂子さん。探しましたよ!」

 怒ったような心配そうな顔を向けて、櫂君もベランダへと出てきた。櫂君の登場に、心なしかほっとしている自分がいる。

「あぁ。櫂君」

「あぁ、じゃないですよ。まったく。こんな寒いところで、いったい何をやってるんですか」

「さぁ? 何をやってるんだろうね……」

 自分でもよく解らないよ……。櫂君と、あんな言い合いなんて初めてしたし。何をそんなにモヤモヤしたりイライラしているのか、自分でもよく解らないのだ。

 神崎さんがここにいないせい? こんなにおしゃれをしたのに、披露する相手がいないからイライラするのかも。

「風邪引きますよ。戻りましょう」

 櫂君が、私の手を取り歩き出す。

「こんなに冷たくなって」

 櫂君の手、あったかい。

 繋がった櫂君の手は、とっても温かくて。寒さに身を縮めていた体に、ゆっくりと熱が浸透していくみたいだ。

 櫂君に手を引かれるままに廊下へ戻ると、暖かさのせいかなんだか体の力が抜けていき、足元が覚束なくなってしまった。

 ヒールを巧く操れなくて、転びそうになってしまう。

「うあっ!」

 慣れないヒールで足元がぐにゃりとなり、体が傾く。それでも、空のグラスだけは落としたら大変だとしっかり握っていると、櫂君が私の体を受け止めてくれた。

「菜穂子さん、大丈夫ですか!? ちょっと飲みすぎですよ」

 櫂君の腕の中で叱られている私は、なんだかそれが心地よくて、このまま目を閉じたくなってしまう。

 なんて言うか、寝心地のいいソファみたいな感じ。

 ああ、そういえば。前に櫂君のこと、大きなぬいぐるみみたいだなって思ったこともあったっけ。

「ヒールが新しいからだよぉ」

 受け止めてもらった体を立て直すこともできず、櫂君の胸の中で少しの強がり。

 言い訳してみたものの、ヒールの歩き難さもさることながら。さっきのワイン一気飲みが効いていない筈がない。胃に何も入っていないのだから、アルコールの効き具合も覿面だ。

 ついでに言えば、ベランダで飲んだジンも効いているんだろう。

 櫂君の腕の中で握った空のグラスをぼんやりと眺めていると、私を支えたまま歩いていく。

「お酒はそれくらいにして、あそこに座りましょう」

 私の持つグラスを手にした櫂君は、クローク近くにいくつか置かれている高級そうなソファーへ導いてくれた。

「さ、菜穂子さん。ここに座ってください」

 言われるままにストンと座ると、柔らかなクッションが優しく抱きとめてくれた。

 座り心地がよすぎだわ。

 さっきの櫂君と、どっちが心地いいかな?

 アルコールにやられた脳内が、よく解らない比較をする。

 櫂君とこのソファーが家にあったら、恰好の転寝場所になるだろうな。

 新し物尽くめで気を張っていたせいか、櫂君とソファーに抱きとめられたら安心してしまって、一気に疲れが押し寄せてきちゃった。

「眠い……」

「少しならいいですよ。僕、一緒にいますから」

 櫂君が優しい声音で、私の髪の毛をさらりと撫でるように触れる。

 その仕種や瞳があんまりにも優しくて、まるで子守歌に導かれるように瞼がゆっくりと下りていく。

 目をつぶりながら、今朝からのことを思い出していた。こんなに眠いのは、きっと新しいヘアスタイルを整えるのに、いつもよりずっと早起きしたからかな。ネイルチップも、貼るだけなのに不器用だから手こずっちゃったし。鏡の前では、何度も新しいスーツ姿を確認した。玄関先でヒールに足を入れて、フラフラになりながら会社まで来たし。

 慣れないことなんて、するもんじゃないなぁ……。

 馬子にも衣裳なんて部長には言われちゃったしね。櫂君は、少し驚いてたよね。あの誉め言葉って、社交辞令じゃなかったのかなぁ……。

 アルコールに浸った脳内は、凪いだ海を漂うみたいにふわふわとゆらゆらと、私を眠りへ導いていく。このまま深いところまで潜ってしまいたいけれど、櫂君は「少しだけ」って言ってたよね。

 重い瞼を何とか持ち上げてみると、ソファに埋もれるようにして座っている私の前には、櫂君が心配そうな顔をしてしゃがんでいた。

「……櫂……くん」

「気持ち悪くなったりは、してませんか? お水持って来ましょうか?」

 会場で言い合いになったのがウソみたいに、櫂君が優しく声をかけてくれるものだから、どうしてか泣けてきた。あんなにひどい態度をとったのに、どうして櫂君はいつもこんなに優しいのだろう。大人げない自分の態度を振り返れば、益々涙がじんわりと浮いてくる。

「菜穂子……さん?」

 ゆらゆらと揺れる私の目を見て、櫂君が慌てだす。

「どうしました? 気持ち悪いですか? やっぱりお水貰ってきましょうか? あ、それともレストルーム行きますか?」

 あれやこれやと気を遣ってくれる、優しい櫂君。

 何をあんなにイラついてしまったのか解らないけれど、こんなに優しい櫂君に対して何もあんな言い方しなくてもよかったのにね……。

 同期の子と仲がいいのなんて、当たり前のことなのに……。

 あぁ、でもきっと。こういうところも、櫂君がモテる要因なんだろうな。

 モテる櫂君にとっては、さっきみたいな状況は、日常の中のひとコマに過ぎない。それを、先輩だからって……、何をやっているんだろう……私。

 変だよね、私……。

 アルコールのせいなのか、疲れと睡魔のせいなのか、否応なく閉じてしまいそうな瞼を頑張って開けて、ソファーに預けていた体をゆっくりと起こし櫂君に謝った。

「さっきは……、ごめんね……」

「……え?」

「言い過ぎたと思って……。だから、ごめん……」

 小さく頭を下げてから顔を上げると、櫂君はとっても優しい表情で私を見ていた。

「いいえ。気にしてませんよ。僕も、ちょっと熱くなりすぎましたし。お互いに、今日はお酒のせいってことにしておきましょう」

 優しく微笑むと、櫂君が私の手に手を重ねる。

「櫂君の手、あったかいね」

「菜穂子さんの手は、冷たいです。さっき外に出てから、なかなか温かくなりませんね」

 櫂君は握った私の手に、自分の体温を分け与えるようにしながら優しく包み込む。

 それは、なんだかとっても頼りがいのある、優しい手のぬくもりだった――――。

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