第2話 不考の時代 (上)

「ねえ聞いてる?アナタ!」


「え?うん、‥うん」


妻が目の前で憤慨ふんがいしている。理由はおそらく彼女の精神的な不満と原因に対して、夫である僕がさほど興味を抱かないからだと思われる。


「どうしていつもそうなの?夫婦の会話じゃない。もっとちゃんとあたしと向き合ってよ」


向き合って、か。現実ではこうしてテーブルを挟んで差し向かい合っているんだがそれでは物足りないのか。妻が作った(正しくは温めた)朝食を食べつつ、確かに平和的とは言い難いが貴重な夫婦の会話の機会はもうけたつもりだった。


「分かってるよ。ちゃんと向き合ってるじゃないか。キミの不満はもっともだし、僕も充分反省してる。そうだ。埋め合わせに今週末でも何処か旅行に行こう」


そう言うと妻は驚きと喜びが入り混じったような複雑な表情をした。


「驚いた。アナタ、本当にあたしの話を聞いてないのね」


「ん?」


どうせ僕に対し、彼女が常時抱いている解決しようのないくだらない不満のことだとばかり思っていた。


「お隣の三枝さえぐささんにね『ご主人のネクタイとスーツとっても素敵だわ。奥さまがお選びになってるの?』って言われたの。あたしとっさのことでつい『そうですの』って答えちゃったから、お隣に何か言われたらアナタも話合わせてねって。そう言ったのよ」


「ああ、そう」


いつもの不満ではなかったが、くだらないという点においては僕のヨミは正しかった。


「ああ、そうって。どうして?どうしてこんな些細な会話もできないの?ねえ、知ってる?アナタいつもそうよ。全部あたしとの会話はうわの空。こういうの、離婚の原因になりますからね。パートナーの話を聞かないのは、相手をまるで尊重してない証拠ですからね」


「おいおい、穏やかじゃないな。話が飛躍してるよ。僕はただ、ちょっと今朝の経済ニュースで気になることがあってそれに気をとられてただけじゃないか」


妻はドン!という音を鳴らして机を叩いた。なんとも陳腐で芝居がかっている。


「アナタはそうやっていつも御自分の『プール』に潜ってばかりいるんですもの。まともに話なんかできません」


「キミだってそうだろ。今だって話ながら『プール』に潜っている。おまけに、僕らは夫婦なのにキミの『プール』がどんな形なのか一度だって見たことがない」


「ではアナタは、あたしの『プール』が見たいと。本気でそうおっしゃっているの?」


僕は少しだけ考え?そして頭の片隅ですぐに検索した。お互いのプールをさらけ出した夫婦の末路。そしてすぐに答えを出す。


「いや、そうじゃない。適度な距離感が夫婦にも必要だ。干渉のし過ぎはよくない。そう言いたいのさ。キミがお気に入りの『ジュエルフィッシュ』にもそんな記事が出ていただろ」


妻はゆっくり瞬きをすると、途端に笑顔で頷いた。


「そうね。確かにそんな記事があったわ」


妻はとても満足そうな顔をしていた。僕が彼女のお気に入りのニュースサイトを覚えていたことがよほど嬉しかったのだろう。それだけで今朝はもうご機嫌だ。だが本当に僕が記憶していたわけじゃない。


僕のプールに、夫婦喧嘩を即座に解決する方法の閲覧記録が残っていただけだ。僕自身は全く忘れていたけれど。そして僕のプールがそこから「パートナーのお気に入りを話題に引用する」という方法をピックアップした。そして更に僕の記憶の片隅から、妻のお気に入りであるくだらないゴシップサイト「ジュエルフィッシュ」の名前も見つけてきた。完璧だった。


「聞き間違いでも、週末に旅行へは連れて行っていただきますからね」


妻というものはいつもこうだ。だがそこが愛おしくもある。そうでなくもある。


その時には既に、プールがオススメの二泊三日温泉宿の旅プランを予約してくれていた。新幹線の往復込みだ。




「プール」について説明せねばなるまい。


2035年。政府はこの世界に膨大に広がるネットの海を文字通り「SEA」「シー」と名付け公的に管理することを発表した。


「シー」は政府によって運営され、より安全により快適に楽しめるようになった。


そして2042年。大手企業が開発した体内埋め込み型個人用デバイス「POOL(プール)」が発表された。「POOL」という名前は「シー」からひいたインフォメーションをそれぞれの人が身近で利用するとこからつけられた名前で、最初は「PADDLE(水たまり)」という名前も検討されたが定着しなかったので再考された結果、「POOL」となった。




余談だが二人以上の場合なら「RIVER(川)」、更に比較的大人数でネットワークに繋がるり情報を共有する時は「LAKE(湖)」に「入る」という言い方が用いられている。



とにかく妻との問題は、僕の優秀なプールが即座に解決してくれた。おかげで僕はいつも通り仕事に向かう事ができた。


僕の仕事は商社勤めだ。しがない一介のサラリーマン。内容?さて、もう何年も自分の頭で仕事なんかしていない。仕事も全てプールに任せてある。おかしいかな?いや、そんなことはない。今の時代、自分でする仕事なんてない。


「課長。おはようございます」


「おはようカキタニ君。今朝も早いね」


「ええ。やっぱり仕事は、朝早くないと」


入社六年目のカキタニ君は朝型だ。優秀な部下の一人でコミニュケーションも適度に行っている。


「ああ課長。ブスジマから今日は十一時くらいに出社しますと連絡がありました」


「そうか。分かったよ。十一時か。わりと早いな」


「ブスジマにしては、ですね」


ブスジマ君も入社五年目の部下だ。カキタニ君と同じくらい優秀だ。会社に来るのは遅いが仕事の量は二人とも変わらない。クオリティも同じくらいだ。


八時前に来る人間と十一時過ぎにくる人間の仕事の出来が同じ。理由は簡単だ。全てプールがやっている。何から何まで。仕事の割り振りだってプールがやっている。ちなみにブスジマ君は夜の二時まで働くし、カキタニ君は何があっても定時で退社する。


仕事は簡単。Aを選択するかBを選択するかを常に様々なタイミングで聞かれる。その都度、自分のプールに潜って聞いてみればいいだけだ。「ねえプール。どっち?」ってね。それで答えが出る。プールは絶対判断を謝らない。


嫌な時代か?そうじゃない。自由な時代だ。誰が何をやっても同じ結果が産まれる。だからこそ、人は自ら望む人生を容易に手にする事ができる。結果が同じなら誰も他人の生き方に口出ししない。一見、それぞれが個性を獲得し凹凸のある社会に見える。だが裏側では没個性化し並列化した社会になっている。それが悪だろうか。いや。それこそが平和。それこそが安寧だ。僕はそう思う。


僕はいつも通り仕事をし、適度に部下を褒め時に叱責し有意義な時間を過ごした。僕は定時より少し後になって退社する。それが僕のプールが考える適度な労働時間だから。



会社を出て妻に電話する。


「ああ、僕だ。実は急に取り引き先の人が来てね。そう、またモトムラさんだよ。これから会食することになった。申し訳ないが夕ご飯は要らないよ。それじゃ。終電までには帰る」


僕は妻に嘘をついた。


取り引き先のモトムラさんとこれから会うのも本当だし、会食するもの本当。終電までに帰るもの本当だ。では嘘とは何か。


「ゴメンね。お待たせ」


カオリはそう言って僕の頰に軽くキスをした。外国の血が入っている彼女にとって、公衆の面前でのキスにはためらいがまるでない。


「やっぱり慣れないよ。その挨拶」


「慣れて。これがあたしの愛情表現なんだから」


僕はその挨拶が恥ずかしくもあり、そしてまた嬉しくもある。


モトムラカオリは僕にとって理想の恋人だ。そして取り引き先の人間でもある。


妻への嘘はひとつ。モトムラさんは突然来たわけではない。前々から会う約束をしていたのだ。お互いこの日を楽しみにしていた。


何故、妻にそんなつまらない嘘をついたのか。それは僕がモトムラさんは話がつまらなくていつも突然会社に来ては夕飯をたかっていくどうしようもない人間だと言ってあるからだ。しかしモトムラさんの会社がウチにもたらす利益は莫大であり無下にはできない。だから仕方なく、付き合わざるを得ない。そう説明すると妻はいつもため息混じりにこう言う。


「サラリーマンてホント大変ね」


嘘は具体的に細かくつくのが一番安全だ。


これが僕のプールが弾き出したリスクの少ない不倫の仕方だ。不倫を仕事でカムフラージュする。プールの情報によればモトムラさんを夫婦共通の敵として妻に認識させた方が都合良くことが運ぶそうだ。ちなみに妻にはモトムラさんが女性だとは言ってない。男性とも言った覚えはないが。



ホテルの窓辺で缶ビールを飲みながら、カオリは煙草の煙をくゆらせている。美しい横顔だった。


「今日も素敵だったわ」


「キミもさ」


カオリとは不倫マッチングシステムで出会った。


僕は割り切った若過ぎないキャリアウーマンを求めていたし、カオリは既婚の太ってない男を求めていた。僕たちはお互いのプールが見つけ出した、理想の不倫カップルだった。


「仕事も順調だしね。貴方もあたしも、評価はうなぎ登り」


「素晴らしい。これ以上の幸せがあるだろうか」


不倫相手としてだけでなく、仕事の相手としても関係を築いた方が良いというプールの発案は成功だった。公私ともに堂々と外で会える。万が一なにかあっても仕事の延長でしのげる。何より、デート費用は会社持ちだ。何しろこれは接待でもある。


「ねえ」


「なんだい」


僕はカオリの憂いを帯びた横顔に見とれていた。この表情が本当に美しい。


彼女は最高だ。最高の不倫相手だ。


「わたし達、いつまでこの関係を続けるのかしら」


「え!?」


予想だにしない質問だった。僕は思わずベッドから転げ落ち、飲んでいた缶ビールを頭から被ってしまうほどだった。



下に続く

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