戎甲のストラティオテス

ささはらゆき

第一章:辺境編

第1話 騎士、ふたたび

 なまぬるい風が流れた。


 仄暗い回廊には、かすかな蝋燭の灯りがまたたいている。

 その終点から流れてきた風は、わずかな湿りけと、不気味な生暖かさを帯びている。


 気化した鮮血を孕んだ大気――。

 肉眼では決して見えない、ごく微小な血しぶきがふんだんに溶け込んだそれは、長い年月をかけて醸成された悪臭だった。


 けっして心地よいものではない。

 それどころか、常人であれば嗅いだ途端に吐き気をもよおして然るべきものだ。

 いま、悪臭に包まれた回廊をゆっくりと歩む孤影がある。

 膝下から頭頂までをすっぽりと覆いつくす濃褐色の長衣に身を包んでいるが、上背と歩幅から男性であることは容易に知れる。

 しかし、どこか華奢な輪郭は、成人のそれに比べるといささか心もとないのもまた事実だ。遠目にも少年の面影はあきらかだった。


 終点に近づくにつれて、回廊に漂う血の匂いはますます濃くなっている。

 歩を進めるたび、髪に顔にと無遠慮に絡みつくそれを、少年は不思議と不快には感じなかった。

 のみならず、彼は鼻腔にうずまく悪臭に懐かしさすら感じている。それは懐かしいにおいだった。


 と、ふいに回廊の終点に異変が生じた。


 扉が開け放たれたのだろう。

 通路にわだかまっていた闇のなかに、目も眩むばかりの光が差し込んだ。

 間髪をおかず流れ込んできたのは、耳を聾する音の奔流だ。

 老若男女ごちゃまぜになった男女の声と、さまざまな楽器の音色が溶け合い、奇怪きわまりない音楽を奏でる。

 つい先ほどまで静寂と闇とに塗り固められていた世界は、一瞬にして様相を変じた。

 少年はさして驚いた様子もなく、あいかわらず淡々と光の根源に向かって歩き続ける。


 「さて、今宵お集まりの紳士淑女の皆さま方――」


 雑音を押しのけるように、甲走った大音声が響いた。

 常人に数倍するばかでかい声であった。

 電気的な声量増幅器など存在しない時代、人並み外れた大声はそれだけで口に糊する方途になる。


 「州牧パトリキウス閣下の饗宴に、ようこそおいで下さいました!! 皆さま方のための宴――心ゆくまでお楽しみ下さいませ」


 司会の男に呼応するようにわあわあと叫び声が上がる。

 回廊の終点が近づいている。


 「もちろん、とっておきの余興も用意してございます――選手は入場を!!」


 少年は、すでに八分まで開かれていた扉をくぐりぬける。

 間髪をおかずに視界に飛び込んできたのは、だだっ広い円状の空間だった。

 足元はむき出しの土だが、むろん自然のものではない。

 円形に切り取られた地面には、入念につき固められた硬い黒土が隙間なく敷き詰められている。

 その周囲を取り囲むように配置された客席は、少年のいる位置からは見上げるほどの高みにある。

 少年と観客とのあいだに存在する高低は、とりもなおさず彼我の上下関係を意味してもいる。


 少年は頭巾をかぶったまま、ちらと客席を一瞥する。

 居並ぶ男女は年齢こそ千差万別だが、いずれも絢爛豪華な装束を着飾っているという点は共通していた。

 彼らが囲む卓には贅を極めた料理の数々が溢れんばかりに並べられている。

 かれらが金や銀の盃を口に運ぶたび、召使いたちがすかさず次の酒を満たしていく。

 当然というべきか、少年が観客たちを観察する一方、彼らもまた好奇の視線を注いでいた。

 まるで吟味するように眼下の少年に視線を這わせる。

 そうしてひとしきり観察を終えると、両隣の人々とひそひそと囁き合うのだ。

 少年の聴力を以ってすれば、かれらの会話をつぶさに聞き取ることもできた。

 敢えてそれをすることもなく、少年は舞台の中央に進み出る。

 多少なりとも建築に通じた人間には、それが何のために作られた施設か即座に理解できるはずだ。


 闘技場――

 それも、古帝国様式の荘重な円形闘技場コロッセオであった。

 いにしえの時代、広大な大陸の全域を支配した古帝国において、この種の闘技場は領土のあちこちに建設された。

 闘技場では、戦車競走をはじめ、曲芸に演劇といった多様な娯楽が都市の住民にむけて提供された。

 なかでも大衆に最も人気を博したのが、剣闘士による試合だ。

 長い太平の世が続いた古帝国時代も、人々は流血のもたらす快楽と興奮を忘れることはなかった。剣闘士試合は、そんな欲求を満たす最高の娯楽だった。

 言うまでもなく、その実態は「試合」という語から連想される清廉な印象とはかけ離れている。

 剣闘士たちは真剣で切り結び、いずれかが死ぬまで闘技場を出る事は決して許されない。

 試合とは名ばかりの、それは酸鼻きわまる殺戮劇だった。

 往時の帝国市民はかれらの必死の戦いを観戦し、やんやの喝采を送っては浮世の憂さを晴らしたのだった。

 円形闘技場で行われたのは剣闘士試合だけではない。

 犯罪者や反乱分子、異教徒の処刑もさかんに行われ、やはり市民たちの不平不満のガス抜きとして機能した。


 しかし、それも遠い昔の話――。

 古帝国の崩壊後、大陸の東方に興ったこの国において、かつての血なまぐさい風習は途絶えて久しい。

 それどころか、この種の残酷な見世物は、いまや国法によって厳しく制限されるに至っている。

 かつて闘技場で行われていた催しの数々は、いにしえの蛮習として地上から消え去ったはずであった。

 それにもかかわらず、こうして往時のままの闘技場が存在しているのは不可思議というほかない。


 「皆さまお待たせしました、これよりお待ちかねの試合を開始いたします!!」


 回廊にまで響いてきた司会の男の甲高い声は、闘技場の内部では一層よく響いた。

 観客たちは試合の始まりを心待ちにしている。 

 まずは、少年が舞台に上がった。

 もう一人の闘士の到着によって、凄惨な死闘は幕を開けるだろう。

 観客たちは値踏みをするかのように、少年の全身に視線を走らせている。

 と、前触れもなく少年に正対する側の扉が開いた。

 正確には、強烈な力を加えられて吹き飛んだと表現すべきだろう。

 ドオンと轟音が鳴ったかと思うと、分厚い木の扉が枯れ葉みたいに宙を舞った。扉は何度か回転したのちに、闘技場の黒土に垂直に突き立った。

 観客たちの視線は、少年から扉へ、そして扉を打ち破って現れたモノへと移り変わっていく。


 現れたのは、異様な男であった。

 並外れた巨漢である。

 少年に比して、その背丈はざっと二倍近くにもなろう。

 巨漢の五体はごつごつと隆起した岩みたいな筋肉に鎧われている。

 毛深く分厚い胸板の上に鎮座するのは、ごわついた黒髭をたっぷりとたくわえた凶猛な顔貌かおだった。


 「第一の試合に出場の闘士は、沿海諸州に知らぬ者はないこの凶漢おとこ!! 怪力無双の大山賊、ギルタブル!!」


 司会の紹介が終わるが早いか、ギルタブルと呼ばれた男は、腹の底から野太い咆哮をあげた。

 熊でさえ尻尾を巻いて逃げ出すであろうすさまじい雄叫びに、観客たちはすっかり気圧されたようであった。

 ギルタブルにとっては対戦相手である少年を威圧する意図もあったはずだが、どうやらそれは叶わなかったらしい。

 少年は耳を聾する大音声を浴びてなお小ゆるぎもせず、平然とギルタブルと向かい合っている。


 「……対するは!」


 ギルタブルの咆哮の直撃がよほどこたえたのか、ふらつきつつも司会は少年のほうに顔を向ける。


 「北方辺境で戎狄バルバロイを打ち破り、『帝国』に勝利をもたらした英雄の一人……」


 北方辺境――そして、戎狄バルバロイ

 それらの言葉が発せられるたびに司会の喉がふるえ、闘技場全体に緊張が走ったのは、むろん錯覚ではない。


 「戎装騎士ストラティオテス――アレクシオス!!」


 司会が言い終えるが早いか、濃褐色の衣が高々と舞い上がった。

 衣の下から現れた少年――アレクシオスの姿は、いまや闘技場の全ての人間の視線に晒されている。

 濡れたように艶やかな黒い髪、紫がかった黒い瞳。

 精悍な中にも歳相応の幼さを残す相貌は、いずれも東方人に特有の特徴だった。

 その姿があらわになった瞬間、観客がどよもしたのも無理からぬ事である。

 少年の外見は、この国の人口の過半を占める東方人の典型――つまるところ、世のなかに掃いて捨てるほどいる平凡な人間そのものだったからだ。


 「本当にあれが騎士なのか?」

 「あんな若造が戎狄バルバロイを倒したなどとは、とても……」


 観客たちは不信の念を隠そうともしない。

 辺境を蹂躙した戎狄バルバロイの脅威と、戦役を終結へと導いた戎装騎士ストラティオテスの活躍の噂は、この辺境にも届いている。

 一見して何の変哲もない少年が騎士だとは、にわかには信じられないのも当然だった。

 観客たちの当惑をよそに狂喜したのは、ほかならぬギルタブルだ。

 山賊となってからすでに三十年あまり、ひたすら殺戮と略奪によって日々の食い扶持を得てきた男である。

 この男にとって騎士が何であるかなど知る由もなく、また興味もなかった。

 重要なことは、ただひとつ――。

 目の前の敵が取るに足らない小童であり、そいつを捻り殺せばこれまでの罪を放免のうえ、莫大な褒美までもが与えられるということだけだ。


 「へへへ……ガキ、俺と当たったのが運の尽きよ。さっさとくたばりやがれ!」


 絶叫とともに、ギルタブルは握りこんだ拳を振り下ろす。

 常軌を逸した巨漢の拳である。

 こと破壊力に関するかぎり、並大抵の武器の比ではない。

 生身の人間が直撃を受ければ、まずもって致命傷は避けられないだろう。

 事実、ギルタブルは捕縛される際、みずからの裸拳のみによって屈強な兵士たち二十人あまりを殺害しているのである。

 アレクシオスが一向に回避の素振りを見せないのは、恐るべき拳圧を受けて身じろぎも出来ぬがゆえか。


 めしゃり――!

 拳から伝わる音と感触にギルタブルはほくそ笑んだ。骨と肉とはらわたがいっしょくたに混ざり、砕け散る音だ。

 それは聞き慣れた勝利の音だった。

 だが、愉悦に浸っていたのもほんのつかの間だ。

 アレクシオスの足元に、ぽたぽたと赤い雫が落ち、染みをつくる。

 本来なら全身の骨肉を打ち砕かれ、血と臓物を闘技場の土に吸わせているはずの少年は、何事もなかったかのようにそこに立ちつくしている。


 なにかがおかしい――なにかが、狂っている。

 闘技場の中心で、有り得べからざることが起こっている。


 「ぎいああぁぁ――っ!!!」


 ギルタブルが苦悶の声を上げたのは、まさにその瞬間だ。

 巨漢の大山賊は、砕かれたのが自らの拳であることをようやく理解した。

 すさまじい激痛が右拳から全身を駆け巡ったのは、ほとんど同時であった。

 自慢の怪力は、皮肉にもみずからにはねかえり、その拳を無残に破壊したのだった。

 手首から先は原型をとどめぬほど折れ曲がり、間欠泉みたいに鮮血が吹きだしている。ちらちらとのぞく白い細長いものは、皮膚を突き破った骨だ。

 治療を施したとしても、もはや壊れきった右手は元には戻らないだろう。

 拳が直撃するまでのほんの一瞬――まさしく須臾のあいだに、はたして何が起こったのか?

 観客たちが互いに顔を見合わせて訝しがる間に、アレクシオスは音もなくギルタブルの背中に回り込んでいた。

 そして、苦しげにうめくギルタブルの首めがけてさっと肘を差し伸ばす。

 見事な裸締めの型であった。

 アレクシオスがわずかに肘を屈曲させると、ギルタブルの顔は見る見る紅紫色へと変わっていった。


 「……潔く負けを認めろ。そうすれば、命までは取らずにおいてやる」


 これまで沈黙を守っていたその口がようやく開いた。

 凍てつくような冷たさを帯びてはいるが、その声色に欺く風はない。


 「だ……れが……! きさまなんぞに……!」


 湧き上がる怒りがギルタブルに痛みを忘れさせた。

 激情に突き動かされるまま、残った左手で力任せにアレクシオスを引き剥がそうとする。

 両者の体格には、大人と子供以上の差がある。ギルタブルの目論見は成功するかに見えた。

 だが――。

 ギルタブルがどれほど力を込めても、アレクシオスはまるで地面に打ち込まれた杭のように微動だにしない。


 刹那、ギルタブルの眼は、信じがたいものをみた。

 まばたきをするほどのわずかな時間のうちに、アレクシオスの腕は異形へと変じていた。

 それは硬質の手甲だ。濡れたような光沢を帯びた表層は、研ぎ上げられた黒曜石を彷彿させた。

 腕が異形に変じるとともに、力もいっそう増したようであった。

 アレクシオスは異形の腕でギルタブルの頸動脈をきつく圧迫しながら、


 「もう一度言う――負けを認めろ」


 たしかな殺気を篭めて言い放った。


 「わ……かった……! 降参する!! バケモノめ……」


 それが最後の気力だったのだろう。

 言葉にならない悪罵を吐き出すや、ギルタブルの太い首ががっくりと垂れ下がった。

 顔色は紅紫色を通り越し、土器かわらけ色に変わり果てている。両目は白目をむき、唇からはだらしなく唾がこぼれる。

 かろうじて絶息に至らなかったのは、アレクシオスが手心を加えたためだ。


 「し……勝負あり! 第一試合は、騎士アレクシオスの勝利です!!」


 あまりに予想外の展開に、司会の男もすぐには状況を理解出来なかったのだろう。

 ギルタブルの失神から数秒遅れて、アレクシオスの勝利を宣言した。

 観客席から上がった割れんばかりの喝采に背を向けて、アレクシオスは再び回廊へと踵を返す。


 (まずは、勝った――)


 心中でひとりごちる。

 勝利の余韻など、もとより毫ほども感じていないようであった。


 (これで次の戦いに進むことが出来る。このまま勝ち続ければ、きっと……)


 アレクシオスは自らの胸に湧き上がったわずかな希望と、それ以上のむなしさを感じていた。

 背後の闘技場でわっと歓声が上がった。

 血に飢えた観客たちが見守るなか、早くも第二試合が幕を開けようとしている。

 アレクシオスは振り向くこともせず、ひとり回廊を戻っていった。


*** 


 「なんだ――もう終わってしまったのかえ」


 召使に取り分けさせた料理をいそいそと口に運びながら、男はいかにも残念そうにつぶやいた。

 四十がらみの巨漢である。

 もっとも、おなじ巨漢でも、その姿はギルタブルの逞しい肉体とは真反対といってよい。

 腹は常人の数人分はあろうかというほどに膨れ上がり、頬と顎からはたっぷりとした脂肪の房が垂れ下がっている。おそらく一人では立ち上がることさえままならないだろう。


 いま彼が座しているのは、観客席の上部に設けられた特別な一室である。

 古帝国時代の円形闘技場に存在したという、皇帝とその家族のみ立ち入りを許された一室が、内装から細々とした調度品に至るまで精密に再現されている。

 なかでも目を引くのは、部屋の中央に据え付けられた黄金の椅子だ。

 それは皇帝の玉座の精巧な模造品レプリカであった。

 皇帝の玉座を模造する――本人は言うまでもなく、三族にまで累が及んでも不思議ではない重罪だ。

 それにもかかわらず、男は寸法の合わない玉座に肥え太った尻を収め、悪びれる様子もなく酒肴に舌鼓を打っている。


 「意外とあっさりとしたものだのう?」


 むろん、いま咀嚼している料理の味の話ではない。

 つい先ほどまで繰り広げられていた死合の結果について、男は不満を隠そうともしない。


 「ああも早く勝敗が決しては客人も不満であろう。ギルタブルも情けないわ。たかが拳がひとつ潰れただけで音を上げるとは――」

 「いかにも、パトリキウス閣下の仰せの通りでございます」


 いつからそこにいたのか、男の傍らに伺候する女が応じた。

 褐色の肌の美女だ。

 ほどよく引き締まった体つきは、主人の肥大しきった白い肉体とは好対照を成している。


 「来賓の方々はなによりも血を求めております。敗者を殺さずに試合を終えたのでは、とても満足しないはず」

 「そうじゃろう、そうじゃろう――」


 極厚の脂肪に覆われ、完全に喉との境界線を失った下顎をしきりに動かしながら、男――パトリキウスはふぇふぇと不気味な笑いを漏らす。


 「今夜の客は騎士の戦いを楽しみに来ておるのだ。せいぜい場を沸かせてもらわねば、わしも無理を通した甲斐がないわ」


 ひょうげた口調だが、その声色には隠しがたい悪意と嗜虐心が見え隠れしている。


 「しかし、私にはいまだに信じられません」

 「何がじゃ、カミラよ?」


 小指で皿の肉汁をすくい取りながら、パトリキウスは傍らの女に問うた。


 「あの少年が戎狄バルバロイを倒したということです。戎狄にはいかなる武器も通じなかったと聞いております。戦いぶりを見るに体術には多少優れているようですが、それだけでは……」

 「おぬしの疑問はもっともだ」


 パトリキウスはもっともらしく頷くと、


 「しかし、それをやってのけたのが奴ら――戎装騎士ストラティオテスなのだよ」


 脂でてらてらと光る唇を舐めつつ、言った。


 「それに、奴はまだ真の姿を見せてはおらん。戦場以外で騎士の本当の姿を見られるなどめったにない機会よ。だからこそ、客人もおおいに期待してたはずだがの――おい!」


 言うと、州牧はパチンと指を鳴らした。

 短い指でよくも、とカミラが感嘆するまもなく、主人の召喚に応えて数人の衛兵が部屋に入ってくる。

 まもなく衛兵に腕を取られて、一人の男がパトリキウスの前に引き出された。

 端正な顔立ちの青年である。美青年と言ってよかろう。

 年の頃は二十歳を超えたかどうか。

 白に近い薄い金髪と緑色の双眸は、青年がこの国において希少な西方人であることを示している。

 もっとも、パトリキウスも同じ西方人ではあるが、両者の美醜にはおよそ言語に尽くしがたいほどの懸隔がある。


 「……これがあなたの望んだことなのですか、州牧閣下」


 青年はきっと目を上げ、パトリキウスを見据える。

 衛兵にすかさず打擲を加えられても不思議ではない状況にもかかわらず、青年に臆した様子はない。

 どうやら、いかにも優男然とした顔つきに似合わぬ胆力を持ち合わせているらしい。


 「いやいや、そう怖い顔をなさるものではない。貴殿のおかげで、国家の至宝である騎士ストラティオテスを我が宴に招くことが出来た。それについては感謝しておりますとも……」


 パトリキウスは、気味悪いほど丁寧な物腰で青年に語りかける。


 「だが、闘士として参加するからには観客を喜ばせてもらわねば困るのですよ。お分かりいただけますな? ヴィサリオン殿――」


 顔中の脂肪をぶるぶると震わせながら、パトリキウスはあくまで慇懃に言葉を継いでいく。

 一方、ヴィサリオンと呼ばれた青年はただ唇を噛みしめるばかりだった。


 「カミラ! あの騎士の小僧に伝えておけ。次は本当の姿で、相手を殺すまで戦いを続けろと。さもなくばヴィサリオン殿の安全は保証しかねるとな!」

 「御意に――」


 カミラは恭しく一礼して部屋を出る。

 両脇を武装した衛兵に固められたヴィサリオンは、ただ唇を噛み締めてその背を見送ることしか出来ない。


 「……あなたの思うとおりにはなりませんよ、州牧閣下――いいえ、パトリキウス」


 澄んだ緑色の瞳には、明らかな怒りの色が浮かんでいる。

 しかし、青年の懸命の抗議も、かえってパトリキウスの嗜虐心をくすぐるだけに終わったようだ。

 ふたたび指を鳴らすと、ヴィサリオンは衛兵に両脇を抱えられ、なすすべもなく部屋から退出させられる。

 パトリキウスはあらためて闘技場へと視線を下ろす。


 「まあよい……今宵ここに集った騎士は、あの小童だけではないのだからな。もう一匹には、せいぜい盛り上げてもらうとしよう」

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