The S.A.S.【4-3】

 可愛い嫁さんと兵舎へ戻ると、第一六小隊の仲間は、殆どが各々のベッドにいた。数人は読書など個人の趣味に耽っているが、一人として活発に動いている者はいない。女の匂いを数キロ先からでも嗅ぎ付けるジェロームまでもが、茶ばんだ枕を抱いて涎を垂らしている。目蓋が半開きのまま充血しているので、軽くホラーだ。化け物は銃弾が効かないから嫌いである。

 ブリジットは、起きている連中の紅茶を淹れに給湯室へ向かった。手伝いを申し出ても許して貰えないのは明白なので、手持ち無沙汰に兵舎をぶらつく。万年物資不足にあえぐ我が連隊は、宿の設備も米軍と水をあけられている。個人空間を保つカーテンのあるベッドは、数えるだけしかない。その内の一つに、クラプトン兄弟が三男、ショーンの寝床が含まれていた。やつは弟子のマシュー・ギネスと、二段ベッドを共用している。上段で眠るマシューを起こさない様、下段の白いカーテンの内を覗き込む。果たせるかな、我が弟は胸で両手を組んで寝入っていた。末っ子に比べて三男坊の寝相は大人しいが、こちらは両眼から涙を流している。何が悲しいとかではなく、このショーン君は大変優秀な狙撃手である為に、お目々を大事にしなくてはならない。枕元に置かれた目薬の容器が、頬を流れる川の正体を物語っている。昨晩はこいつとマシューの狙撃だけで、十人近い敵を片付けている。よもや、人間が歩く脳味噌とか心臓に見える領域に達しているのではないか。視界に収められたが最後、何だかよく分からない内に脳幹をすっ飛ばされる。隣で仲間が肉塊に変わるのを見て、敵の士気はだだ下がりである。だが、ショーンという青年を誤解してはいけない。広い顎と黒い巻き毛で粗暴な印象を抱かれるが、その心は些細な事で自分を責めてしまうガラスで出来ている。決して、「むさい面に涙が似合わない」などと心ない侮言を発してはいけない。初めて付き合った女の失言で、彼の顔は半年間曇ったのだから。

 三男のベッドから移動して、長兄のヴェストを訪れる。奴隷出身というのが嘘の様に、何とまあ良家の息子然とした様子で、厳かに腹部を上下させている。他の隊員と同じく髭は伸びっ放しだが、ブラウンの毛に白いものは一本もなく、小綺麗に撫で付けられて艶がある。こうも容姿端麗かつ頭脳明晰な我がお兄様であるが、女好みのする彼にも、過酷な幼少期が故に歪んでしまった部分が存在する。胞子生殖の大型菌類――俗にキノコという名で親しまれている不思議生命体に、彼は魅了されている。中でも致死毒を有する種を好んでおり、暇を見付けては分厚い図鑑を開いている。ハンサムな外見に反して実に湿っぽい趣味だが、その根源は根深い。俺と同じく、北アイルランドでIRAの奴隷として暮らしていた頃、兄上は地下室に幽閉されていた。学校に通って健全な交友を持てなかった彼に、ある時初めて友達が出来る。床の隅からにょっきり生した、キノコであった。じめじめと暗い地下室で、夜な夜なキノコ――与えた名前は正しく『マッシュ』――に語りかけ、談笑していたらしい。おお、涙なくしては語れない!運命の出逢いから数日後、マッシュ君は幼い兄貴が看取る中で溶けてしまったが、それ以来ヴェストは彼らの魅力に取り憑かれ、地下室へ度々現れる同居人との暮らしに、日々の光明を見出していたとの事である。十五歳で親父に引き取られてからもキノコへの好意は変わらず、ヴェストは色々と煩わしい女性と関係を持つより、余計な口を利かないキノコとの対話に心の癒しを求めているのだ。そんな訳で、キノコの生えない乾燥した中東への派遣が決まった時は、この世の終わりみたいな目をしていた。

 ヴェストが色鉛筆で綴るキノコ日記帳(閲覧自由)を眺めつつ、自分のベッドに尻を落とす。緻密に描かれたドクツルタケのイラストと、普段の兄貴からは想像出来ないふわふわポエムを読み進めていると、左隣のベッド下段から呻きが訊こえた。首をもたげれば、愛弟子のダニエル君が眉間に山脈を浮かべ、自分の汗が染みた枕を噛んでいる。おまけに、恋人の名を絶えず唱えている。痛ましい限りだ、見ちゃいられない。可哀想なやつ!俺もこうなっていたかもしれない!

 キノコ日誌の更新分を読み終えるのと同じタイミングで、ブリジットが湯気の立つ紅茶を配り始める。起きている全員に紅茶が行き渡り、それから自分と旦那のマグカップを持って、彼女は俺の隣にちょんと腰を下ろす。安物のアールグレイの水蒸気の合間を縫い、一つ結びの御髪から女の子の匂いが立ち昇る。二週間越しの麻薬に、とろけた脳髄が鼻腔から零れそうだ。

 肘が触れ合う距離で団欒しつつ、陳腐な味を誤魔化すのに大量の砂糖が沈んだ紅茶を啜る。舌根にえげつない苦みが走り、思わず吐き捨てそうになる。漢方薬の方が、まだましな味だ。中東へ来る時に持参した大量の〈フォートナム&メイソン〉の茶葉は、到着から一週間と経たずに底をついた。小隊全体にたかられた為だ。紅茶もどきに肩を落としていると、脇から〈MRE〉の包みが差し出される。英軍のよっかは食べられる味に改良された、米軍お馴染みの戦闘糧食だ。圧縮されたビニール包装には、「チキンシチュー」と記されていた。

「今はこんな物しかご用意出来ませんが……」

 至極いたたまれぬ面持ちで、ブリジットは専用の使い捨てヒーターを手渡してくる。「こんな物」しかない環境に愛妻を置いてしまったのは、その不出来な夫が原因だ。無言で彼女の頭を掻いてやると、幾らか表情を和らげてくれた。シチューや堅いパン、クラッカーをヒーターと一緒に付属のビニール袋へ放り、少量の水を注ぐ。すぐにヒーターから蒸気が生じ、袋の内側に水滴を作る。不味い紅茶を飲み終える頃には、お手軽ランチが湯気を立てていた。

 茶色っぽい包装を破り、シチューがアルミのトレーに落とされる。料理というよりは、油の固まりを食べられる様に加工した塩梅だ。樹脂製のスプーンで肉の欠片をすくい、無心で啜る。考えたら負けだ。決して美味しくはないシチューをひた掻き込み、クラッカーにタールじみたピーナッツバターを塗り、高野豆腐みたいなパンを水に浸して飲み込む。ブリジットと暮らす事で、心的外傷から距離を置けた。が、料理上手な嫁さんは、旦那の舌を肥やしてしまったのだ。傍からは幸福な懊悩に、頭痛を覚える。俺はもう、一般的なイギリス人と同じ物を食べられないのだ。

 トレー上のカロリーを胃に収め、MREの粉末ココアをブリジットから受け取る。水から淹れたココアだ、牛乳なんか入っちゃいない。薄いカカオ汁を飲み終えると、疲労と満腹感から、睡魔が脊髄を撫ぜる。示し合わせた様にブリジットは食器を片付け、ベッドシーツを正した。周囲を見渡すと、起きているの隊員は自分だけであった。

「少し、お休みになられるのが宜しいかと。無理がお顔に出ています」

「そうする」

 促されるまま、ブーツを脱いでマットレスに身を横たえる。スモックをブリジットが器用に脱がして畳み、その手が俺の掌を包んだ。周りが寝入っているからこそ、許される行為だ。砂漠でさえしっとりと潤った温かさに、殺人で尖った神経がほだされる。

「今は何も考えずにお眠り下さい。雑務でしたら、私が処理しますので」

 ぼやけ始めた視界の角に穏やかな笑みを捉え、目蓋を下ろす。まどろみの奥底に落ち込むまで、ひび割れた手に優しさが残っていた。


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