第2-4話 傍若無人な話

 駅前のロータリーから伸びる大通り、そこから路地裏へ1本入ったところに謎の建物がある。2階建てのその建物は、1階の外壁に大量のスケボーが貼り付けられ、ガラス戸の入口には提灯が下がっている。

 そのガラス戸の中を覗くと、焼き鳥屋の屋台やら寿司屋のカウンターやら洋風のバーカウンターやらが1つの室内にひしめいている。良く見るとタイ料理屋もあるという無国籍にもほどがある空間だ。

 店内ではどこの椅子に座ろうがどの店の料理の注文も可能だ。河童巻きを食いながらコーヒーを頼もうが、タイの生春巻きを日本酒で流し込もうが客の自由となっている。東南アジアで良く見かけるフードコートをイメージしてもらうといいかもしれない。

 料理の値段は味に見合って決して安くはないし、アジア系の店員がたまにオーダーを間違えることもあるが、それも含めて俺はこの店が好きだった。だからこの店には気の置けない相手としか飲みに来ない。

 今日のように。


「おぉ、ぶっちゃけな、お前に面倒をかけてることは分かってるんだ」

 そう言いながら健井さんが傾けたとっくりは数滴の雫を垂らすのみだった。まだ来店して10分も経っていないはずだというのに、いつの間に飲み干したんだ。いつもどおりの飲みっぷり俺は感心しながら、俺は混み合い始めた店内を見回して目が合った店員にとっくりを振って見せる。

 相手が頷くのを見て、これはさすがに伝わっただろうと会話に戻る。

「分かって頂いてるのはありがたいんですが、おそらく想像以上だと思いますよ。仕事2件抱えてるところにあの笹川だけでも十分きつかったのに、さらに1人の教育を追加。そもそも、なんでまた受け入れたんですか」

 しかもよりにもよってあの女を、という言葉はさすがに飲み込んだ。そればかりは健井さんのせいではなく俺個人の問題だからだ。

「お前なぁ、俺が好きで受け入れたと思ってる本気で思ってるんじゃあねぇだろうな」

「いや、すいません。さすがにそれはないです。ただうちらの部署の現状を考えたなら普通は断りますよね」

「しょうがねぇだろ、松本本部長のご指名だぞ。逆らえるか?」


 そう。ただでさえ納期遅れも発生しかけているうちの職場に、なぜか健井さんよりさらに上からの指示で新入社員が教育目的で異動させられてきたのだ。

 異動してきたのは、あの女、こと雨宮あまみや花梨かりんだ。男ばかりのうちの職場に新人美少女が移動してくるという噂は公示よりも早く回ってきた。聞いたときから嫌な予感しかしなかった。

 そして案の定、教育担当は俺だった。すでに教育係として笹川を指導している、というのがその理由だと思っていたし、逆にそれを理由に断ろうと思っていたが、しかし話を聞いてみると本部長じきじきのご指名らしい。

 本部長? そんな馬鹿な。

 一応簡単に説明しておくと、俺が属しているのは5人程度で構成される第2システム開発課で、同程度の課を5つ束ねて、グローバル連結システム開発部と呼ばれている。健井さんはこのグローバル連結システム開発部のトップで、つまり肩書は部長だ(かつ第2システム開発課の課長を兼任している。俺にとっては二重に上司ということになる)。

 そのグローバル連結システム開発部を始めとした6つの部を束ねて、情報システム本部という組織名になる。その本部のトップこそが、さっき名前の挙がった松本本部長だ。つまり偉い。

 さらには取締役も務めていると言えば偉さが伝わるだろうか。

 とてつもなく簡単に言えば、取締役という意味では全世界30ヵ国に支社を持つ本社の社長と並んで立つ位置にいるわけだ。その本部長が俺を名指しで新入社員の教育係に指名しただって? 何の冗談だ。


「おかしいでしょう。なんで会ったこともない本部長にピンポイントで指名されるんですか」

「それなんだがなぁ……」

 健井さんは歯切れの悪い口調でそう呟きつつ、その大きな手を伸ばしてピザを2切れまとめてつまみあげた。ちなみにピザと言いつつチーズ以外のトッピングは蜂蜜とリンゴというデザートみたいな品だ。スイーツ好きの健井さんが必ず頼む品でもある。

 俺も前にご相伴に預かった。不味くはない。むしろ美味しい。ただ食事としてはどうにも違和感があって苦手にしている。健井さんはそのピザの2切れを軽々と一口で片付けると太い指先をおしぼりに押し付けてから言葉を続けた。

「ちぃとばかし、妙な噂を聞いた」

「噂?」

「例の新人、雨宮か、アイツが本部長に直接進言したそうだ。数字を扱う以上、システム周りは避けて通れないとかなんとか……」

「はあ? 直接ぅ?」

 健井さんを前に間の抜けた声が出てしまう。慌てて、すいません、と頭を下げるも健井さんは、いや分かるがな、と手を振って俺を制した。

「俺もなぁ、実際どんな会話があったかは知らんぞ。人づてに聞いたレベルだからな」

「いや、それにしたって入社1年目に人事を好きにされるっておかしいと思いませんか?」

 腰を浮かしかけた俺のグラスにビールを注ぎながら、まぁ飲め、と促される。腰を下ろし一気に飲み干す俺に健井さんが苦笑する。

「まあ聞け。あの女がヤバいことは分かってる。うちのじーさまたちが骨抜きだ。ありゃあ、まさにイッコケーセーだな。下手すら会社ごとぐらつくぞ」

 ん? 相手の空いたおちょこに酒を足しながら頷いていたら、聞きなれない単語が混ざった。

「なんですか、それ」

「だぁから、部署の異動程度ならまだ可愛いもんだが、あの女のご機嫌取りに上の連中が経営指針まで曲げ出したらなぁ……」

「いや、すいません、そっちじゃなくて、なんとかケーセーが分からなくて」

 慌てて続きを遮った俺の言葉に、そっちかよ、と太い眉の片方をググイッと上げながら苦笑した建井さんはおちょこの中身を一気に喉に流し込んだ。しかし、毛深い手はサイズが大きすぎて、普通のおちょこが喫茶店で良く見るクリームのプラスチック容器みたいに見える。

一顧いっこ傾城けいせい、一度顧みれば城が傾く、と書く。再度顧みれば国が傾くらしい。要はお偉方にまつりごとをおろそかにさせてしまうタイプの美人だ。同じ意味で傾城傾国けいせいけいこくとも言うな。傾く城と傾く国だ。傾国けいこくの美人びじんのほうが分かりいいか?」

 ああ、それなら聞いたことがあった。個人的には傾国の美女で覚えていた。国を傾ける美人か。中国の故事だっけか。

 美女というのは少々若すぎるが、確かに小悪魔とかそんな可愛いもんじゃないな、あれは。

「あれ? 一度顧みる、で一顧なのは分かるんですけど、ケーセーはなんですか? ケーが『傾ける』でしょうけど、セー?」

 あぁ、と返事とも唸り声ともつかない謎の声をあげつつ、懐のメモ帳を1枚ちぎると短い鉛筆でガリガリと漢字4文字を書きつける。相変わらず見た目からは想像も出来ない丸文字を書く。

 さらにどうでもいい話だが、健井さんはスマホでメモなどはとらない。何しろガラケー派だ。スケジュールや会議の覚書は全てこの鉛筆とメモ帳で対応している。実際それで職場の誰よりも的確に仕事を割り振れるんだから誰も文句はない。

「こうだ」

「ああ、お城って書いて『せい』って読むんですね。初めて見ましたよ、その読み方」

「おぉ、言われてみれば珍しいな。中国語だとそうなんだろ。よぉ知らんが」

「まあ、でも覚えましたよ。一目顧みれば城が傾くほどの美人で一顧いっこ傾城けいせい

 それを口に出したとき、ふと思い出したことがあった。

「なんかそれ聞いてちょっと思い出しました。いや、くだらない話なんですが」

 ちょっと貸してください、と鉛筆を手渡してもらう。

「小さい頃、うち新聞とってたんです。新聞の日曜版って4コマじゃない結構長めの漫画が付いてくるんですよね。なんか呑気なお母さんが主人公の漫画でした」

 一顧傾城と書かれたメモ帳の切れ端を手元に引き寄せる。

「印象に残ってる回ではそのお母さんは出てこなかったんですけどね。中学生だか高校生だかの娘さんが学校で友人とこんな会話してたんですよ……これにどうして『若い』って漢字が入るんだろうね、と」

 メモ帳の空いている隙間に「傍若無人」と書く。

「その会話を後ろで聞いてた男子が得意げに会話に割って入って来るんです。『かたわらにひときがごとし』の言葉と一緒に」

 この漫画のおかげで傍若無人の漢字を覚えたんですよね、と付け足しながら、傍若無人と書いた下に「傍らに人無きが若し」と書く。

「暗記しようと思ってたわけじゃないんですが、なんか気づいたら文章ごと覚えてました」

「語呂合わせみたいなもんかねぇ」

 健井さんガリガリと白いものが混じった頭をかくと、残った2本の焼き鳥をまとめてつかむと、ちょうど近くにいた店員に空いた皿を押し付けつつ、追加で焼き鳥の盛り合わせを2つ注文した。

「文章で覚えるってぇと、髪は長い友だちか」

「なんですか、それ」

 知らんのか、と意外そうな顔をしつつ健井さんが鉛筆を渡すよう手を出してきた。手にした鉛筆で構えながら「実際は『長』って漢字とはちぃと違うんだがな」と書き始める。

「髪はながーい……」

 髪という感じの左上を書いたあと、そのまま言葉を伸ばしながら右上の三本線をまるで長音記号であるかのようにゆっくりと書き足していく。そして最後に「……友だち、っと」と言いながら漢字を完成させた。

「髪って漢字は意外とその下部分を間違えやすいもんでな。衣と書いたり心と書いたり、だがこの覚え方なら忘れない」

 まあ左上の部首は実は「長」って漢字とは微妙に違うってぇことだけは注意だがな、とさっきの言葉を繰り返す。

「初めて知りました」

「そうかぁ? 漢字の覚え方の中じゃかなりメジャーな方だと思ってたがなぁ」

「いや、パソコン世代なんであまり漢字を覚えようって概念がないんですよね……ああ、でも1つ知ってますよ。前にテレビで見て面白いなと思ったのがあります」

「漢字の覚え方でか?」

「ええ、ブドウの覚え方です」

「食べるブドウか?」

「え? ああ、そうです。戦う方じゃなくて食べるブドウですね。浦和でサクサク缶拾い、という覚え方で」

 確か塾の先生からタレントまで幅広く出演しているクイズ番組で、当然漢字を知っているべき塾の先生が答えられず、得意満面のタレントに逆に覚え方を習っていたときがあった。それが妙に印象的で覚えてしまったのだ。

「うーん、分かんねぇなぁ、すまんが書いてくれ」

 健井さんが差し出してきた鉛筆と紙を受け取る。

「ブドウって漢字2文字ですよね。両方とも草かんむりと俳句の『句』から口を除いたカタカナのクみたいな部首があるんです。縦にサクと2文字書くのを2回続ける感じですね」

 そう言いながら草かんむりの下に「ク」と書くのを2回続ける。

「次に1つ目のクの中に浦和の浦からサンズイを除いた『甫』を書いて、2つ目のクの中に『缶』を放り込むと」

 言葉のままに書いていった結果、目の前には葡萄という漢字が完成していた。

 健井さんは夕方から目立ち始めた無精ひげをその大きな手でザリザリと撫でながらイマイチ腑に落ちない顔をしている。

「どうだろうなぁ、俺ぁ普通に書けるから余計にそう思うのかもしれねぇが、その覚え方を覚えるほうが骨だと思うよ」

「書ける人はそうかもしれませんね」

 俺はあっさり同意した。

「最近買った漫画で、女子高生が漢字の覚え方を自慢するシーンがあったんですが、今の健井さんと同じで、普通に知ってる漢字だったんであまり共感できなかったんですよね」

「どんな覚え方だ? つぅか、いや、どの漢字だ」

「人にものを尋ねる、の『尋ねる』って漢字で、覚え方が『ヨエロスン』だそうで」

 その言葉を聞いた健井さんは、すぐ後ろで焼き鳥を炭火で焼いているせいでうっすらけぶっている空中に太い指を舞わせる。

「ん? 待て、『ヨエロス』の最後の『ス』ってなんだ?」

「あ、『スン』です、『スン』。最初の3文字はカタカナですけど、最後の『スン』は一寸法師の『寸』を表してます。多分」

 あらためて空中に漢字をスイスイと書きながら健井さんがようやく納得したように頷く。

「さっきのサクサクもそうだが、なんつぅか、へのへのもへじみてぇだな」

「懐かしいですね。最近の人は分からないですよ、きっと」

「なぁに言ってんだ。お前も最近の側だろうが」

「いやいや、俺ももうアラサー道を半ば過ぎた身ですよ」

 そのときいつの間に頼んでいたのか、ナッツの盛り合わせが届いた。見るとすでに健井さんは日本酒から洋酒へと切り替わっている。

 本当にうわばみだな……、と思いながらナッツをかじったとき、思い出したことがあった。

「へのへのもへじの仲間でアーモンドってのがいるんですけど、知ってます?」

「何がなんだって?」

「いや、すいません、書かないと分からないですよね」

 鉛筆を受け取ろうとしたとき、酒の回り過ぎたせいか自分の手元が覚束おぼつかないことに気づき、諦めて空中をキャンパスにする。

「こんな感じです」

 ふらふらと宙を彷徨う俺の指先に目をこらしながら、健井さんが眉の間に太い谷間を作り、こっちを睨む。

「分かんねえよ」

「えーと、なんつうか、5文字なんですよ。あ、あ、も、ん、ど、の5文字」

 手を上げてるのが辛くなり、テーブルにもたれるように座り直す。

「最初の2文字が目になって、3文字目が鼻、4文字目が口で、最後が顔の輪郭になります」

 俺の言葉のままに脳内で顔を完成させていたらしい健井さんは、ほう、と呟きながら確認するようにこっちを向いた。

「最後の文字は、あれか、2画目の曲線で一気に輪郭にするんだな」

 へのへのもへじと同じで濁点はあまり意味がないわけか、というようなことを言っている健井さんの声が遠くから聞こえる。

 内容を良く理解しないままにとりあえず頷いた。

「そうです」

「おい大丈夫か」

「なんとか大丈夫です」

「それで、おい、どうすんだ。教育係の件は。全力で断れってんなら一応トライはするが、やれるか? 大丈夫か?」

「なんとか大丈夫です」

 ちゃんと帰れます、と付け加えたが口から出たかは自信がない。いずれにしても家までは歩いて帰れる距離だ。大丈夫だろう。

「そうか。ならいい。その言葉、忘れんなよ」

 健井さんがパチンとガラケーを閉じる音がした。


 目が覚めるといつの間にか自分のアパートの部屋に帰っていた。窓から差し込む昼の光に目の奥がガンガンと痛む。

 なんとなくこの死にたくなるような二日酔い以上の失敗をやらかしたような気もしていたが、とりあえず今は物を考えられるような状態ではなかった。


 月曜日に、全額奢ってもらってしまったようなので多少なりとも払おうと健井さんの席に向かったとき、あらためて自分のやらかした失敗とガラケーにも録音機能はあることを知ったわけだが、それはまた別の話だ。

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