第5-4話:IDの話

 午後の早い時間は眠気をこらえるだけでも一苦労だ。特に5月という暑いんだか寒いんだか分からんこの時期は本当にきつい。

 忙しければまだ気もまぎれるのだが、3月末までの地獄のような追い込みが終わったことでここ4月からかなり楽になってしまった。今日中に終えなければいけないものも少なく、正直やる気が出ない。

 そんな状況だったので会社の受付からかかってきた電話は渡りに船だった。


「俺に使い走りさせるとはいいご身分になったな」

「ごめんごめん、でもホント、リッチーのおかげで助かったよ」

 デカいスーツケースと共に受付で足止めをくらっていたのは同期の武田だった。

 1年間もの長期に渡った海外子会社への出張をようやく終えて、今日の便でようやく日本に帰ってきたばかりだというのに、その帰国当日にわざわざ本社に出社しようとした律儀な男だ。

 そんな立派な社畜にも関わらずなぜに受付がこいつを通してくれなかったのかというと、社員証を持っていなかったからだ。

「つうか、どこやったんだよ」

 初対面の相手が威圧感を覚えてしまう強めの俺の口調を、武田はいつも通り、ふわりとした曖昧な笑みでさらっと受け流した。それを成させるのは、俺たちが同期であるという気楽さだけでなく、この武田という男個人の強さでもある。

「うーん、どこだろうねえ。手持ちの鞄に入れたと思ったんだけど、見つからなくてさ。変だな、アメリカでも、こっちと同じIDアイディーカード使ってたから失くすはずないんだけど」

「知らねーよ。向こうのオフィスの床にでも落ちてんじゃねーのか?」

 そう、空港から帰宅前に一度オフィスに寄ろうとした武田のヤツが、社員カードを忘れて受付を通してもらえず、面通し役として俺を呼びだしたわけだ。

「わざわざなんでオフィスに来たんだよ。さすがに帰国日は休んでも怒られねーだろ」

「うーん、そうかもね。でも、ほらノートパソコンとか、どっちにしてもオフィスにまた持って来ないといけない荷物も多くてさ。それを自宅に一度持って帰るのがなんか悔しくない?」

 そんな無駄話をしつつ、2人で受付から来客用の会議室が並ぶ1階のフロアを通り抜け、エレベーターホールに辿り着く。本来は顧客が立ち入るこの区画を社員が通路代わりにするのは禁止されているが、本社の巨大なビルをわざわざ裏に回るのはあまりにも面倒だった。

 ボタンを押してエレベーターが来るのを待つ。ちょうど上階ににエレベーターが集まってせいで待ち時間が長めになり、自然とエレベーターを待つ人も多くなる。

 しかし、さすが同期屈指のイケメンである武田と一緒だと、エレベーター待ちの女性社員たちがチラチラとこっちを見ては何やら楽しそうに小声で話し込んでいる。まあ、見慣れない美人が来たときの男性社員も大して変わらない反応か。

 つうか飛行機に乗りっぱなしでホテルにも自宅にも寄らずに丸2日近く過ごしているだけだって、体毛の薄い武田でもあごのしたには無精ひげがうっすら見えているが、それすらカッコいい。不公平だ。

 俺らより先にエレベーターから降りてったあの女性社員どもは、さっそく社内イントラの社員データベースで武田の情報を漁るんだろうな、と思ったそこで思い出した。

「ああ、無理か」

「何が?」

「いや、お前は社員カード忘れてきてるから、あいつら名前も社員番号も分からないんだな、と思ってさ」

 女性社員たちのことを思い浮かべて、そういえば武田のやつに、海外出張中に何かラブロマンスに進展はあったのかどうかを問い質さなくては、と思い出して聞こうとしたところ、先手を打たれた。

「そうそう、社員カードで思い出した」

 俺の席に近い使われていないデスクの上にスーツケースを置いてそれを開きながら、ちょっと楽しそうな様子で武田がこっちを向いた。

「あっちだとIDアイディーカードってみんな呼んでたんだけどさ、IDアイディーってなんの略だと思う?」

「はあ?」

 IDが何の略か? そういえば考えたことなかったな。しかし英語が苦手なことに関しては社内でも随一の武田にこんなことを聞かれる日が来るとはな。

 余談だが、俺は中高時代には英語の勉強は一切しなかったがそれでも常にクラス上位の成績だったし、会社に入ってから受けさせられたTOEICでも予習しないで900点台がとれた。小学校時代をアメリカの現地校で過ごしたおかげだ。

 その俺に聞いてくるということは、かなり意外な答えなのだろう。

 まあ普通に考えればIアイは Identification あたりか。Dディーはなんだろうな。特定する、という意味の Determine とか、単にデータ(Data)あたりか。こっそりスマホで調べるという手もあるが、それはあまりにも趣がない。

「Identification Data か?」

「そりゃそう思うよね。僕もそう考えてた。正解は Identification なんだってさ」

 スーツケースから会社に置いていくものを選り分けていた武田が、爽やかな笑顔をこっちに向けた。

「はあ? だからそれは分かってんだよ。Dディーは何なんだ、って聞いてんだよ」

 馴染みのない相手であれば喧嘩を売られていると勘違いされかねない俺の強い口調にも動じることなく、笑みを返す武田。。

「Identification の1語を略して ID なんだよ」

 マジかよ。その発想はなかった。武田を疑うわけではなかったがスマホで確認してみる。うお、本当だ。

「知らんかったわ」

「ID自体は日本でも良く使うけど、逆に略称以外が必要になるシーンがないからね。しょうがないんじゃないかな」

 確かにな。

 そのとき、そろそろ静かな職場でおしゃべりを続けるのに若干居心地の悪さを覚えたので、武田を誘って給湯室へ向かうことにした。しかしいつも思うが日本の職場は静かすぎる。さすがにインド人やアラビア人ほど賑やかなのはどうかと思うが、もう少し明るい社内のほうが俺の好みだ。

 そんなことを考えながら、給湯室へ向かう途中の自販機コーナーで缶コーヒーを購入した。俺は自分用にはブラックを、武田用に甘ったるいミルクコーヒーを選ぶ。

「むしろお前がどうしてその情報を得るに至ったのかが気になるよ」

「ほら、そもそもシステムのトレーニングをする必要があって向こうにいったんだけどさ、簡易マニュアルを作るのに画面の略称の正式名称リストを作る必要があって、ログイン画面のIDとかPWDとか調べることになったんだよね」

「PWDは、ああ、そうか。パスワードの略か」

「ログイン画面って妙に小さいんだよねー。まあ、IDってある下にもう1つ入力欄があったらパスワード入力欄に決まってるし、そこはあまり問題にならなかったな……あ、でも向こうの情シスメンバーには嫌がられたな」

「何を」

「略称にPWDが使われてること。システム管理だかなんだかで良く使うコマンドらしいよ」

 ああ、あれか。UNIX のコマンドか。懐かしいな。入社してしばらく関わってたプロジェクトで UNIX のサーバを触ってたときに使ったような気がする。ほぼ Windows しか触ってないと知らなくても不思議はない。

 そのとき、自販機に表示されている広告が目に入った。爽やかな夏の浜辺で炭酸飲料を手にしているアイドルの写真だ。

 広告か。

「ID は Identification の略ですが、CM は何の略でしょうか」

「何、そのクイズ番組みたいなの」

「いや、こう聞かれたら、お前、どう答える?」

 武田が、この問いと一緒に手渡された缶コーヒーのフタを開けながら小首をかしげる。

「えー、そうだね。CMでしょ? ああ、そうか、コマーシャルだ。Commercial を略して CM って考えちゃうね。でもそう聞くってことは違うんでしょ?」

 鋭い。

「その通り。CM は Commercial Message(コマーシャル・メッセージ)の頭文字を取った言葉だ。初めて聞いたときは Commercial を略して CM だと思ってたから意外だった。逆にこの勘違いを思い出してればさっきの ID も分かったかもな」

 ブラックコーヒーの缶の冷たさを手に感じながら2人で給湯室へ向かった。


 給湯室のステンレスの流し台に触れながら、武田が懐かしそうに目を細める。

「ミロの話、覚えてる?」

 あったな。ミロはココアの中の1つの商品に過ぎないのに、ココア自体をミロだと思って覚えてて、中学生くらいのときに恥をかいたとかそんな馬鹿な話だ。

 そうだ。それで思い出したぞ。海外出張中に英語もしゃべれないのにミロを買いに行こうとして美女と知り合いになったんだよな、こいつ。

 去年、俺が数日だけ出張したときにその仲を取り持ってやろうと、2人で食事する機会を作ってやったんだが、それがどうなったかまだ聞いてなかった。

「それで思い出した、お前」

「そうそう、思い出したんだけど、小さい頃に似たようなことがあってさ。略称のことで」

 口を挟もうとした俺の言葉を気にすることなく、いつものマイペースさで話を続ける。

「高校で重力の加速を習ったときさ、ほら、略が gジー だったでしょ」

「だった、というか今でも同じはずだけどな」

 重力加速度か。確か9.8だっけか。

「そうだね。それで家で勉強してるときになんで略称が gジー なのかなと思って父さんに聞いてみたんだ。そしたらなんて言ったと思う?」

「知らねーよ」

重力じゅうりょくだから『じー』なんだ、って言ったんだよ」

「は?」

「だから『じゅうりょく』の頭文字が『じ』だからって」

 嘘だろ。

「いや、まさかお前、それ信じたんじゃないだろうな。さすがにそこまで馬鹿だとは俺も思いたくないんだが」

「いくら僕だって疑ってかかったよ。でも次の日に学校で友達にその話をしたら、もう、すっごい大笑いされてさ……そう信じてるわけじゃなくて、って言っても聞いてもらえなくいし、他のクラスメートにも話されて、女子にもすっごいからかわれるし、あれはホント恥ずかしかった」

 女子がからかってたのは単にお前と話すきっかけに使うためだろうがな。どうせ高校時代からイケメンだったんだろ。そう思ったが、さすがにひがみっぽく聞こえそうなので口には出さなかった。

「今は分かってるのか?」

 俺の問いに武田がコーヒーを飲もうとした手を止めた。

「何を?」

「重力加速度が gジー の理由だよ」

「さすがにね。グラビティでしょ」

「正解。これで次の社内TOEICも満点だな」

 そんなわけないでしょ、と苦笑する武田は照れ隠しにか手にした缶コーヒーを眺め、へえ、と呟いた。

「ねえ、リッチーさ、上島珈琲店って知ってる?」

「知ってるか知らないかで言えば知ってるぞ。この辺だと確か隣駅前にあったな」

「この缶コーヒーさ、UCC じゃない」

 武田がそう言いながら俺が買ってやった缶コーヒーを片手で振った。まだ中が残っている音がした。

「見りゃ分かるよ」

「上島珈琲なんだって」

「何が?」

「ほら、これ」

 缶の裏面を見せる。

 確かに製造者としてユーシーシー上島珈琲(株)と書かれて……

「ああ、そういうことか。考えたこともなかったな。そうか、『ウエシマ・コーヒー・カンパニー』で UCC か」

「なんか、今の会話の流れで UCCってなんの略なんだろ、って気になってさ。缶のどこかに書いてあるかなと思ったら、まさかの正式名称だったよ」

 クスクスと笑う。

 缶コーヒーを持って微笑むその姿が実に様になってることに気を取られて、何か聞こうと思っていたはずだったがその内容を忘れてしまった。

 いずれにせよ、午後の眠気は吹っ飛んでくれたから良しとしよう。もっともこいつとの会話のおかげなのか、たった今、飲み干したばかりの缶コーヒーのおかげなのかは分からんが。


 その後、席に戻る道すがら、三か国語を操るものすごい逸材が新入社員として入ったが経理にとられてうちの部長が地団駄を踏んで悔しがったこと(しかも見た目もモデルとみまがうほどの美人らしいこと)、同期の神田がそのモデルばりの美少女に付きまとわれて困ってるとか訳の分からない贅沢な悩みを相談してきたが自慢にしか聞こえなかったこととかを話した。

 結局、例のフランス人のことを思い出したのは武田が帰ってからだった。

 明日聞けばいいかと軽く考えていたら、長期出張の疲れからか武田はその後しばらく寝込んでしまい、その機会は随分と先になってしまったが、それはまた別の話だ。

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