第7-2話:料金の話
大学の構内にある教員の研究室が入っている2階建ての教員棟は通称「水槽」と呼ばれている。1階の大ホールのせいだ。表と中庭に面したホールの両側が全面ガラス張りとなっており、外から見たときに中にいる人がまるで水槽の魚のようだからだ。
就活に早々と見切りをつけて今か寄っている大学の院への進学を決めていた俺は、教授から院について色々と話を聞いたあと、その水槽の中に座っていた。
誰かを待っているわけではない。まっすぐ下宿先に帰る気が起きなかったからだ。
帰るのが億劫だったのかというと少し違う。何しろ下宿先までは大学の通用門から目と鼻の先、歩いてほんの数分の距離なのだから。
問題は寒さだ。安さと近さを優先して選んだ下宿先はどこか外に通じた穴でも開いてるんじゃないかと思うほどに屋外との寒暖差がない。
今いるこのホールもガラスの大きさのせいで大概な寒さだったが、外に立ってるのと同じとしか思えないあの部屋に比べたらまだマシだ。さすが都内でトイレ風呂別なのに家賃4万円、食費や光熱費を含めても6万円ぎりぎりを許してくれる住環境なだけのことはある。
6万円に収められたのは近場なおかげで定期代が不要なことも大きいか。実家からだと逆にそれが発生する。ギブアンドテイク。いや、違うな、あっちを取ればこっちが立たずかな。
そんなことを考えていたとき、視界の端にチラチラと動くものがあった。
見るとそれは小柄な女子生徒だった。
この間見た時と全く同じ服装だった。大きすぎるダッフルコートの裾から覗くのはダボついた灰色のズボンとスニーカー。靴以外は相変わらず明らかにサイズが大きい。
大きな眼鏡の向こうから真っ直ぐにこっちを見つつ、白い息を吐き出しながら俺を呼んでいるようだったが、窓の向こう側なので何も聞こえない。
もっとも彼女がなんと言っているかは予想がついていた。
重たそうに肩に食い込ませたトートバッグを揺らしながら教員棟の出入り口へと走り去った彼女は、数秒ののち、俺の予想通りの言葉と共にホールに現れた。
「センセー! お久しぶりデス!」
教員免許を持ってはいるものの実績ひとつない俺をセンセーと呼ぶ唯一の相手が、目の前で曇った眼鏡を拭いてるこの女子生徒だ。
春先に郵便局で初めて出会ったときに郵便局員と揉めていたのを助けたのが出会いだったが、それ以降すっかり互いに相手のことを忘れていた。
それがつい先週ふとしたきっかけで再会した。
「リリーさんだよね」
先週会ったときに「リリー・ウォン」と名乗っていたことを思い出す。
中国人なのか他国の華僑なのかは若干気になったが、数回会っただけの相手のプライベートに踏み込むのはためらわれた。
ただ名乗ったときに英語発音だったので、おそらくは海外生まれか海外育ちの華僑の家系だろう、と推察していた。
「覚えてくれマシタ」
重たそうなトートバックを片方の肩に担いでいるせいで傾いている顔が嬉しそうに頷いた。
「先週のことだからね」
「でもセンセー、すぐ忘れるカラ」
春先のことを忘れてたのはお互い様ではないかと思ったが、彼女の方が思い出してくれたから再会できたのだ。そう言われても仕方ない。
それよりこのあいだ会ったときに俺の名前を教えたはずなのだが、なぜかリリーさんはいまだに俺のことをセンセー呼びだった。
まさかここまで言っておいて俺の名前を忘れたのかと思い、それとなく聞いてみたら、なぜか得意げに「センセーは私のセンセーだからセンセーと呼びマス」と説明された。
「センセーはスイソーで何をしてマシタ?」
壁際に並んだ椅子の1つに腰を下ろしていた俺の隣に腰を下ろすと、リリーは不思議そうに聞いてきた。
その言葉に、どこから話そうかと考え込む。大学院を目指していること。教授と話したこと。学びたいと思っていることと就職の噛み合わなさ。親と電話で交わした会話。
「センセー、大丈夫デスカ?」
大きな眼鏡の向こうの眼差しが心配そうにこっちを見ている。
考え過ぎてしまった。彼女は俺がここに座って何をしていたかを聞いただけだ。
「いや、下宿先が寒すぎて帰ろうか迷ってたんだ。家賃が安いかわりに隙間風がひどい部屋なんだよね」
「ヤチン?」
「ああ、部屋の賃貸料だよ。月当たり4万円なんだけど……」
ここまで口に出したところでリリーが「あ」と口を開いた。
「センセー、それデス」
どれだろう。
相手の次の言葉を待つ。
「ヤチン、分かりマシタ。部屋のレンタルの料金」
「そうだね」
「賃貸はレンタル、賃貸料はレンタルの料金デスネ」
なるほど。
部屋のレンタル料金を表す名称が2つあることが引っかかったのか。確かにこの2つの言葉の違いの説明は難しいな。
「ワタシ、部屋をレンタルするのとき、敷金と礼金も払ったデス」
納得いかない気持ちは宙で震わせた両手から痛いほど伝わってくる。
しかし気持ちは分かる。それは日本人でも納得いかない人がいるくらいだし、俺もすぐ説明できるか自信はない。
家賃と賃貸料と敷金と礼金か。どう説明すれば日本語を第二言語とする人にも伝わるか。これは難題だな。しかし俺のそんな心配は杞憂に終わった。
「チンって
「え?」
そこ?
「
熱弁を振るいながら、リリーは鞄からルーズリーフとシャープペンを引っ張り出した。
そして膝に置いたトートバッグの上にリーズリーフを敷くと、まず料金と大きく上に書いてから、その2文字を2つに分けるようにルーズリーフの中心を貫く縦線を引く。
さらに、料の字がある左側に「賃貸料」と書く。
その瞬間、俺はやっと相手の言っていることを理解した。
そういうことか。
続きを書こうとするリリーの手を握って止める。
「センセ!?」
それほど強く握ったつもりは無かったがものすごい緊張しているのが、左手を通して伝わってくる。
でも先に答えを書かれてしまう前に、俺の考えが正しいのかを確認したかった。
「ごめん」
「あっ、イヤじゃないダケド、そういうのは人がイナイがいいときで」
「でも分かったんだ、分かった気がする。ちょっと貸して」
何か言っている相手の手からシャープペンを借りると続きを書く。左側に書かれた「賃貸料」の下に「入場料」と書き足すと、さらに右側、料金の「金」の側に「敷金・礼金」「賠償金」「埋蔵金」と書いた。
「お金を払う言葉が全部『なんとか
そこまで言ってから、ルーズリーフの真ん中に横線を引く。
「料金を表す言葉は本当に種類が多くて」
縦線と横線で区切られた下部分の左側に「賃」と書いてその下に「家賃」「お駄賃」「電車賃」と並べた。右側には「代」とまず書いてその下に「食事代」「デート代」と並べる。
あらためて書き出すことで色々と気づきがあった。
例えば「食事代」は「
日本語が母語ではない人はどれが言えて、どれが言えないか、の区別がとっさにはつかない。いわゆるネイティブチェックという奴だ。
ここで俺は「デート代」と書いたが、なんとなく「デート料」も言える気がする。ただこう書いた場合、高校生同士が映画を観に行くというより、社会人がいわゆる「プロ」とデートしてもらうときに支払う料金を指す気がする。
そういったことを思いついた端から語っていた。
「そういえばこの4つの漢字を組み合わせるとお金を払う言葉が作れるね」
ルーズリーフの上の余白に、賃金、料金、代金、賃料と並べる。
「でも確かに何かの料金を表すときに、どの漢字が最後に来るのが自然かは、もう覚えるしかない気がする。難しいね」
そこまで言い終えてから、あらためて話しかけている相手に向き直ると、室内が暑いのか顔が真っ赤だった。
「あの、センセー」
リリーは目を背けながら右手を持ち上げた。
そのとき、最初に相手のペンを止めたあと、つい知らずのうちにその右手を握ったままにしていたことに気づき、慌てて自分の左手を開いてその手を離した。
「ごめん」
「大丈夫デス。ハイ」
「あのさ」
なんとなく流れていた沈黙を破ったのは俺からだった。
「ハイ?」
「このあいだ、リリーさんが言ってくれたよね。日本語の面白さを教えてくれてありがとう、って」
俺のこの言葉に相手は嬉しそうに何度も頷く。
しかし俺は首を振った。
「逆なんだ」
戸惑った顔をする相手に微笑みかける。
「日本語の面白さをあらためて教えてくれたのは君なんだ」
進路に迷っていた俺が、大学院まで行ってまで第二言語習得について学び続けようと思ったきっかけがなんだったのか、今更ながら気づかされた。
あの郵便局での出会いと、あのとき俺を先生と呼んでくれたこと。
「だから、ありがとう」
俺のこの言葉に、リリーが驚いた様子で目を見開く。
そして少しためらったあと、困ったような笑みを浮かべつつ、こう言った。
「じゃあ、お返しクダサイ」
「お返し?」
「食事シマショウ」
「え? あ、別にいいけど」
「それで、その、デ……」
一瞬、言葉に詰まったあと、意を決したように先を続ける。
「デート代はセンセー持ちです」
デート料じゃないデスカラ、と顔を真っ赤にしながら言い切った相手に対し、俺が真っ先に感じたのは、さっき教えたばかりのデート代とデート料のニュアンスの違いを分かって使ってるなあ、という感心した思いだった。
その言葉の意味するところに気づいて狼狽してしまうのはそのあとのことだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます