第5-2話:続 ネスレの話

 飛行機の狭い座席に10時間近くも押し込められていたというのに、到着したヒューストン国際空港の時計は俺が日本を出発した時刻より3時間ほど前の時刻を指し示していた。

 いや、時差の概念くらい知ってる。それでもやはり不思議なものは不思議だ。


 次の乗換ゲートの番号と場所を念のためチェックしておいてから空港内のコーヒーショップへ向かった。今回の海外出張はまずニューヨークのオフィスに2日ほど顔を出して、帰りにヒューストンの支社に1日だけ立ち寄る、という強行日程になっている。

 なので同期の武田が長期出張で滞在しているのはここヒューストンの支社だが、実際にオフィスで会えるのは3日後だ。ちなみに英語が喋れない武田が選ばれた理由は、この支社で使われている社内システムがあまりに古く、詳しい社員がほとんど退職済み、唯一残っているのが新人時代にトレーニングがてらそれを学んだ武田だけだったのだ。

 出張が決まったときの武田の顔は見ものだった。横で大笑いしてたらすごい目で睨まれた。あんな目が出来るとは知らなかった。長い付き合いのつもりだが、まだまだ知らない面がある。


 まあ、話が逸れたが、要はこれからニューヨーク行の便に乗り換える必要があるというわけだ。

 日本からニューヨークへの直行便なんて腐るほどあるにも関わらず、なんでわざわざ行きにヒューストン経由で向かっているのかというと、経費削減のためだそうだ。経費削減のために不必要な乗換をする。最初に言われたときは、何の冗談かと思った。


「経費削減するならそれこそ行きは直行でいいだろうが」

 乗換えが面倒という理由もあって不満げにそう告げた俺に、総務の窓口に座る担当者が、そりゃまあそう思うよなあ、と苦笑した。

「できない理由があるのか?」

「往復割引だよ。行きと帰りが本当に同じルートじゃないと割引が適用されないんだ。帰りのルートはニューヨーク発、ヒューストン経由で日本ってルートだろ? だから行きもそれを逆になぞるチケットにする必要がある」

「アホくさ。行きだけ直行便で帰りは乗換にするよりそっちのほうが安いってのか?」

「まさにその通り。冗談みたいに聞こえるだろうけどな」

 路線の維持を考えると使ってもらうだけでも意味があるのかもしれないぞ、と自信なさげに付け加えていたが、正直、どうでもいい。

 経費削減という金科玉条を持ち出されては抗うだけ無駄だ。


 日本でもそこかしこで見るコーヒーチェーン店で眠気覚ましのブラックコーヒーを飲む。

 コーヒーカップを見ながら、乗換をさせることで空港に金を落とさせる狙いがあるのかもしれないな、という考えがふと浮かんだ。

 そんなどうでもいいことを考えていたのは、単に暇だったからだ。スマホの充電は切れてたし、暇をつぶすために持ってきた文庫本は機内に置き忘れてきた。数々の賞を総なめにした本格推理の傑作がついに文庫化とかなんとか書かれた帯に惹かれて、出発する空港で定価を支払って買った新品だった。短編集だったが、最初の短編すら読み終えてないというのに失くしてしまった。悔しい。

 飛行機から下りてセキュリティチェックを抜けてしまってから気づき、慌てて手近にいた職員に伝えたが結局戻ってこなかった。こんな短期間でなくなるとも思えないし、本気で探してないんだろう。文庫本1冊なので大した金額ではないが、悔しいは悔しい。そんな悔しさを紛らわせてくれる暇つぶしの道具すらない。


 コーヒーショップの1人用のソファに深く身を沈めながら、英語の雑誌でも買ってこようかと迷っていると、すぐ目の前にある2人用のテーブルに女性客が1人でやってきた。タートルネックの灰色セーターに白いスカートといういで立ちの白人で、馬鹿でかいリュックを背負っている。

 外人の年齢を外見から当てる自信はあまりないが、多分30前後くらいだろう。美人だがちょっと細すぎるな。暇すぎてそんな下らないことをぼんやりと考えていたが、その女性の次の動作に眠気が吹っ飛んだ。


 座席の確保のためにそいつがテーブルに放り出したのが例の文庫本だったからだ。こんな場所で全く同じ文庫本を見る確率はさぞかし低いだろうし、しおり用の紐が挟んである位置までほぼ一致している。間違いない。一体どうやって手に入れたんだ……まあ、気にならんでもないが、俺としては返してもらえればあとはどうでもいい。


「Hey, excuese me?(ちょっとすいません)」

 コーヒーを買いに行こうとリュックを背負ったまま立ち去ろうとする相手を呼び止める。怪訝な顔で振り返った相手に文庫本を指す。

「That's mine(それ、俺の)」

「Is this yours?(これ、あなたのなの?)」

 本をその細い指で取り上げて俺の顔とそれを交互に見やる。英語に若干妙な訛りを感じたが、そんなことはどうでもいい。

「Yeah(そうだよ)」

「So, you're Japanese(じゃあ、あなた日本人なのね)」

「Yeah(そうだよ)」

 まあ、日本人以外で日本語の本を、しかもこんなガチの本格推理を読もうなんて奴はそうそういないだろう。手を伸ばして本を受け取ろうとしたが、ひょいと本が遠ざけられた。

「Okay, prove it(あっそ、じゃあ証明して)」

「What!?(はあ!?)」

「What what?(はあ、って何よ)」

「Okay then ... wanna check my ...(分かったよ、じゃあチェックするか、俺の……)」

 パスポートを見せようかと思って躊躇した。こうやってパスポートを出させる詐欺かもしれない。警戒し過ぎかもしれないが、海外では可能な限り人前でパスポートを出したくはなかった。現金だろうがキャッシュカードだろうが、盗られてもなんとか帰国する自信がある。だがパスポートだけは無理だ。

 俺のためらいを見て相手が怪しむような目つきになった。

 正直、パスポートを危険にさらすくらいなら文庫本くらいくれてやっても構わない。

「You win. Take it. That's yours now(あんたの勝ちでいいよ。それは持ってけ。今からあんたのものだ)」

 あっさり諦めた俺に相手は目をしばたかせた。

 これでこの話は終わりかと思いきや、相手はすぐそこで何やら考え込み始めた。

 そしてにっこり笑うと、パチンと指を鳴らした。まるでいいアイデアが浮かんだ、とばかりにだ。

 なんだなんだ?

「Wait, can I check if you are really Japanese? If you pass my test, I will give you back your novel(待って待って、じゃあさ、あなたが本当に日本人かテストさせてよ。テストに合格したら、この小説、返してあげるから)」

 なんでそんな嬉しそうなんだ。これ、新手の詐欺か? 逆に興味がわいてきたぞ。どうせ暇を持て余してたんだ。金を要求されたり、明らかに危険を感じたら即座に警備員を呼べばいい。

 そんなわけで俺は女のテストとやらを受けてみることにしたわけだ。


 俺を待たせてコーヒーを買ってきた相手は、日本人からすると高すぎるんじゃないかと感じる椅子に座ると小さく折り畳まれた紙片を財布から取り出した。それをこっちに見えないように広げて凝視している。

 何が書いてあるのか気になったが、1人用ソファの低い視点からは全然見えない。

 早くしろよ、と思ってると相手がようやくこっちを向いた。

「Okay, so the test ... which direction is twenty four?(じゃあテスト開始ね。24はどっち向き?)」

 はあ?

 24がどっちを指しているかって?

 かなり呆れた顔をしていたようで、相手が若干顔を赤くしながら補足してくる。

「You know, directions, like North, East, South-west ... and you have to think it in Japanese(どっちってのは、ほら、北とか東とか東南とかそういうの。あ、そうそう、日本語で考えなきゃダメよ)」

 ああ、方角か。そりゃ……やっぱり北だろうな。

 24時は0時だから方位磁石で考えれば北だ。それに0時は十二支で言えばネズミで、ネズミは北極星の別名でもある。そこまで考えて俺は「North」と答えようとしたが、出かかった言葉が止まる。

 何か引っかかった。

 待てよ。こいつ、最後になんて言った?

 

 日本語で、か。

 じゃあ……

「West?(西か?)」

「Correct! Wow, he really was right!(正解! すっごい、ホントに彼の言ったとおり!)」

 彼って誰だよ。その紙を書いた奴か。

「Why west?(なんで西なの?)」

 めっちゃ興味深そうに聞いてくる。どうやら紙片には問題と答えのみで理由までは書いてないらしい。

 その表情に浮かんだ幼さに軽い驚きを覚える。30歳前後かと思ったがもっと若いのかもしれんな、と思った。その眩しさに若干の嫉妬を覚えてしまった30過ぎのおっさんとしてはつい意地悪な答えを返してしまうわけだ。

「Secret. Anyway, so I pass the ...(秘密だ。それよりテストは合格なん……)」

「Okay, then question number two(あっそ。まあいいわ、じゃあ第2問ね)」

 はあ? ちょっと待て、何問目まであるんだよ。

 俺が口を挟むより先に相手はその手元の紙を読み上げていた。

「Turn indigo blue into grey with one alphabet(アルファベット1文字でインディゴブルーをグレーに変えなさい)」

「... Indigo blue?(……インディゴブルー?)」

 どんな色だよ、それ。

 グレーが灰色なのは分かるが。

 混乱する俺を見た相手が少し困った顔をしたあと、懐からスマホを取り出した。

「Like this(こんなん)」

 スマホで検索した結果を見せてくれたが……これ、単なる青じゃねえの? 俺がなおも困惑したままなのを見て、助け船を出すように相手が手で大きく半円を描いた。

「You know, one of the seven colors of the rainbow(知らない? 虹の7色の1つなんだけど)」

 虹色の1つ……ああ、なんだ。そういうことか。

「Got it, the answer is H(分かった、答えはHな)」

「Correct!(正解!)」

 インディゴブルーなんて聞いたことなかったが、虹色の1つと言われれば藍色だろう。青はブルーだろうし、紫はパープルだからな。そして「あいいろ(AIIRO)」を「はいいろ(HAIIRO)」に変えられるアルファベットといえば「H」だ。

「You won't tell me why, right?(どうせなんで分かったか教えてくれないんでしょ?)」

 別にどうしても教えたくないわけでもないが、そう言われると教えたくなくなるな。

「Okay, that's fine. So, question number three ...(別にいいわよ。じゃあ第3問……)」

「Wait a sec, before that, how many questions do I have to go through ... just to get back my novel(ちょっと待て、その前にこれ何問目までやるんだよ。俺の本を返してもらうためだけに)」

「Not YOUR novel yet(まだあなたの本じゃないわよ)」

 まだも何もそもそも俺の本なんだが。

「Whatever ... so how many?(どっちでもいいよ……で、あといくつ問題あるんだ?)」

 俺のこの問いに相手がいきなり考え込み始めた。さてはこいつ、延々と続けるつもりだったな。冗談じゃない。

「Hey, I have a plane to catch and I believe you too. Let's not waste our time ...(俺は飛行機の時間があるし、あんたもそうだろ? 時間を無駄にするのも……)」

「Okay, then, next is the last question(いいわ。じゃあ次が最後の問題ね)」

 諦め早えな、おい。

 いや、ありがたい話だが。

 いくら暇とはいえ、いつまでもナゾナゾに付き合ってたいと思うほどには暇ではない。


「Which state does 4 or 5 belong to?(4もしくは5が属する州は?)」

 ……なんだって?

 よんがどの州にあるか?

 何番目に出来た州とかそういう話か。いや、待て、先に聞いておくことがある。

「Do I also have to think that in Japanese too?(それも日本語で考えないといけないのか?)」

「Why not? I mean, yeah, you should. Like, that's what this is all about, isn't it?(なんでそうじゃないと思うのよ。まあ、そうよ。合ってる。なんのためにこんなことしてるか忘れてない?)」

 知らねえよ。

 まあ、いい。それなら話は早い。

「State of Illinois(イリノイ州だろ)」

「Correct! Wow, like how could this question pulls out Illinois!?(正解! ってかなんでこの質問で答えがイリノイ州になるの!?)」

 日本語で考えろと言うからには語呂合わせだろう、というところから考えを進めてみたらすぐ分かった。要は「がどの州にあるか」という話であり、アメリカでも最大の都市の1つであるシカゴは五大湖に接するイリノイ州にある。

 ただ残念ながら日本人チェックに使いたいならこの問題は適当じゃないな。意外なほどあっさりと文庫本をこっちに渡してきた相手にその旨を告げると、興味深そうになぜそう思うかと聞いてきた。

 まあ、アメリカ人のこいつには分からんだろうな。

「Well, most Japanese knows Chicago is the city of America ... but very few knows the state of Illinois(シカゴって街を知ってる日本人は多いが、イリノイ州を知ってる日本人はほとんどいないからだよ)」

「Illinois is not famous!?(イリノイ州ってそんな知られてないの!?)」

「Don't know about you Americans, but ... I mean, name of the states are not famous in Japan. Only few are ... like New York, Texas, California, or Florida(お前らアメリカ人の間でどれだけ有名な州かは知らんが、そもそもアメリカの州の名前ってあまり日本人に知られてないんだよ。有名どころだけじゃないか、例えばニューヨーク、テキサス、カリフォルニア、あとはフロリダとかか)」

 アメリカの歴史で必ず習うメリーランド州すらドマイナー扱いだからな。まあ、北米スポーツのファンならひいきのチームのホームタウンがある州くらいは知ってるだろうが。


 さて文庫本も返してもらったし、俺も乗り換えゲート近くに移動するかな。

「Okay, farewell, American. Take care(さらばだ、アメリカ人。達者で暮らせよ)」

「Can you stop calling me American? I have a name, you know? And you're wrong.(アメリカ人って呼ぶのやめてよ。名前くらいあるんだからさ。つうか、そもそも間違ってるんだけど)」

「What? Not farewell? Coming together?(何が? まさかおさらばしないつもりか? ついてくるのか?)」

 本気で嫌そうな顔をする俺に相手が苦笑する。

「No! I mean, I am not an American.(違うって! 私が言いたかったのは、アメリカ人じゃないってこと)」

「Then what?(違うのか?)」

 相手はいたずらっぽく唇に人差し指を当てたあと、その指をスッと遠くに向けた。

 その方角の壁には、Air Franceとデカデカと書かれた看板があった。


 フランス人か。英語の発音に違和感があったのはそれか。

 それはさておき、どこでこんな日本語のクイズを手に入れたんだ。あの様子を見てるととても自分で思いついたようには見えない。

 どうしても気になったので、スマホを見ながら立ち去ろうとしてた相手にそれだけ聞いてみたら、あっさり教えてくれた。

「Well, my colleague, he is a Japanese, and I helped him order Milo. He gave me these riddles in return.(んー、会社の同僚に日本人がいるのよ。んで、彼がミロを買いに行きたいって言うから助けてあげてんだけど、そしたらお返しにこのナゾナゾくれたの)」

 なるほどな。日本人の知り合いがいたのか。

 ……ん?

 今なんつった?

「Hey, wait a minute, what you just said about Milo ...(ちょっと待て、今、お前、ミロがどうとか……)」

 俺が椅子から腰を浮かせたのと、スマホを見ていた相手が叫び声を上げたのがほぼ同時だった。

「Oh my god, sorry, I gotta catch my flight!(やっば! ごめんなさい、飛行機いっちゃう!)」

「Wait, just let me ...(いや、ただちょっと聞きたいことが……!)」

「Bon voyage, Japonais!(良い旅を、日本の方!)」

 まるで船客を見送る船長のように背筋を伸ばしてピッと敬礼を返すと、馬鹿でかいリュックを背負いあげた相手は一気に俺の視界から消えてしまった。


 これから飛行機に乗るってんじゃ、追いかけてもしょうがない。

 そういえばどうして俺の文庫本を持ってたかも聞きそびれたな。

 俺はあらためて1人用のソファに様々な心残りと一緒に身を沈めた。その視線の先にはさっき女が指した看板があった。Air France……エアーフランスか。聞いたことない航空会社だが、これまたデカい看板だな。

 個人的にはフランスの航空会社と言えばエールフランスしか知らないんだが。


 ……ん?


 待てよ……なんか……


 あああ! そうか、同じか! アホか、俺は!

 Airエール Franceフランスか!


 この瞬間、同時に1つ理解したことがあった。しばらく前に武田と交わした会話を思い出す。そうか……なるほどな、スイスを本拠地としている Nestle の読みはなんだ。フランス語読みか。しまった、その考えは無かったな。

 英語とフランス語しかしゃべれないだろうに日本語の語呂合わせまで楽しそうに受け入れてた、心の広いあの女に免じて、俺ももう少し視野を広げないとな。


 そんなこんなで暇をつぶせた俺は、飛行機の時間が迫ってきたので、重い腰を上げた。

 飛行機に運ばれて辿り着いたニューヨークのオフィスでは、ヒューストンのオフィスから出張してた同期の武田と意外な再会を果たしたり、エールフランス便でニューヨークに向かっていたとおぼしきあの女がその武田のすぐ隣にいたりと驚きの連続が待っていたわけだが、それはまた別の話だ。

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